第四十二話 静かな違和感と、距離を保つ商人
朝は、穏やかだった。
雲は薄く、風も弱い。
足取りを少し落とせば、疲労が滲まない程度の街道だ。
「……何も起きないな」
悠一は独り言のように呟いた。
肩口で、ツムギがだらりと揺れている。
昨日までの緊張が嘘のように、今日は何もしない。
「今日は静観日か?」
ツムギは答えない。
糸なのだから当然だが、それでも“何も起きない”のが妙だった。
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昼前、街道沿いの小さな集落に入った。
商人の荷車、行商、旅人。
人は多くないが、流れはある。
活気はある。
だが――視線が落ち着かない。
(……見られてる)
敵意ではない。
恐怖でもない。
好奇心だ。
悠一は視線を正面から受け止めないよう、歩調をほんの少し変えた。
止まらず、急がず、人の流れに溶ける。
会社員時代に身についた癖だった。
「おや」
背後から、穏やかな声。
「今日は、随分と静かな道だ」
振り向かなくても分かる。
あの調子の声は、一人しかいない。
「……また会ったな」
悠一は短く返した。
荷車の横に立つ男――エルドは、帳簿を閉じながら微笑んだ。
「噂が、早い」
それだけ言う。
「糸で盗賊を追い払った」
「赤だ青だと色が変わる」
「……縁に触れる、などという話もある」
(……尾ひれが多いな)
悠一は、糸に指を掛ける。
張らない。
引かない。
ただ、そこにあることを確かめる。
「君は目立ちたい人間じゃない」
エルドは続ける。
「だが、噂は人の都合で広がる」
「……自覚はある」
「ならいい」
それ以上は、踏み込まない。
それが、この商人の距離感だった。
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集落を抜け、少し外れた街道を並んで歩く。
エルドは、何気ない調子で視線を肩口へ向けた。
「……やはり、そこにいるな」
確認するような声。
「前に見た時より、落ち着いている」
「……そうか」
ツムギが、ぴょんと揺れた。
「反応は相変わらずか」
「する時と、しない時がある」
「商売道具としては、扱いにくい」
「否定はしない」
二人の間に、短い笑いが落ちた。
それは初見の驚きではない。
一度、危うさを共有した者同士の、距離を保った笑いだった。
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しばらく進んだところで、ツムギが、ぴくりと揺れた。
悠一は足を止める。
エルドも、それを察して口を閉じた。
風の音。
草の揺れ。
何も見えない。
だが――
糸が、わずかに濃い。
(……縁が集まってる)
「何か来るか?」
エルドが低く聞く。
「……まだ」
「“まだ”か」
商人は苦笑した。
「その言い方、怖いが嫌いじゃない」
ツムギは、警告もしない。
介入もしない。
ただ、静かに揺れている。
気づけ、という合図だけを残して。
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夕方。
程よい場所で足を止め、焚き火を起こす。
火が安定した頃、エルドがぽつりと言った。
「追われるのは、好きか?」
「嫌いだ」
即答だった。
「だが、止まらない」
「そうだろう」
エルドは火を見つめたまま言う。
「君は、立ち止まらない」
ツムギが、悠一の腕に軽く触れた。
ミサンガほどの感触。
力も、加護もない。
ただ、そこにある。
「……今日は、それでいい」
悠一は静かに言った。
夜が、降りてくる。
静かな夜だ。
だが――
その静けさの奥で、
次の出来事が、確実に形を作っていた。




