第三十四話 それでも、手が届かなかった
街道は、森に飲み込まれ始めていた。
道幅が狭くなり、木々の影が地面に縞を描く。
視界はある。だが、逃げ道は減る。
(……ここからが、本番だな)
悠一は歩幅を落とし、呼吸を整えた。
昨日の戦いが、頭に残っている。
遅れてはいない。
それでも、勝てなかった。
(……足りない)
それを自覚したまま進むのは、正直、怖い。
だが――
引き返す理由にはならない。
糸は肩口。
静かだ。
(……今日は、来る)
根拠はない。
だが、確信に近い感覚があった。
⸻
違和感は、音より先に来た。
空気が、張る。
「……」
悠一は止まらない。
止まる前に、糸を張る。
無色。
糸のまま。
一本。
さらに一本。
地面と、腰の高さ。
視界の端で、影が動く。
今度は、二体。
獣だ。
昨日より、さらに体格がいい。
(……連携は、ない)
だが、挟まれる位置だ。
(……判断、早く)
悠一は、左へ踏み出す。
糸を一本切り、進路を変える。
右の獣が動く。
速い。
(……っ)
悠一は、間に合う。
糸を張り直し、踏み込みを逸らす。
左の獣が、同時に動いた。
「……!」
二体同時。
想定していた。
だが――
距離が、想定より近い。
(……狭い)
森の中。
逃げ場が、少ない。
悠一は、下がらない。
前に出る。
糸を地面に集中させ、
片方の動きを封じに行く。
――間に合った。
だが、その瞬間。
もう一体が、踏み込む。
(……くそ)
悠一は、横に跳ぶ。
だが、地面の根に足を取られた。
体勢が、崩れる。
(……遅れてない)
判断は、間に合っている。
だが――
手が、足りない。
糸は一本。
張れる数に、限界がある。
獣の牙が、迫る。
悠一は、歯を食いしばる。
(……まだだ)
糸を見る。
動かない。
――当然だ。
遅れていない。
だから、介入はない。
(……わかってる)
だが、
それでも――
届かない。
悠一は、体を捻り、転がる。
肩を、地面に打つ。
痛みが走る。
獣は、止まらない。
(……ここまで、か)
その瞬間、
悠一の頭に浮かんだのは――恐怖ではなかった。
(……足りない)
ただ、それだけだった。
「……っ」
声が、零れた。
誰に向けたものでもない。
だが――
確かに、呼びかけだった。
「……一緒に、考えてくれ」
言葉が、先に出た。
名前は、まだない。
だが、
それは“独り言”じゃなかった。
獣が、踏み込む。
悠一は、最後の糸を張る。
避けるためではない。
時間を、稼ぐため。
獣の動きが、わずかに鈍る。
――それで、十分だった。
悠一は、地面を蹴り、
森の奥へ転がり込む。
枝が、肌を裂く。
息が、乱れる。
獣の追撃は、なかった。
縄張りの境界。
それ以上は来ない。
⸻
しばらく、動けなかった。
息を整え、
痛みを確認する。
致命傷は、ない。
だが――
完全な勝利でも、ない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「……遅れてないのに、これか」
糸を見る。
静かだ。
動かなかった。
それでいい。
それでも――
「……それでも、足りないんだ」
言葉にすると、重い。
だが、逃げない。
「……だから」
悠一は、糸を指でつまむ。
「……頼む」
それは、命令じゃない。
依存でもない。
「……一緒に、紡ごう」
その言葉が、
胸の奥に、確かに落ちた。
糸が、わずかに揺れた。
――返事ではない。
だが、
拒絶でもなかった。
⸻
夜が、近い。
悠一は、体を起こす。
歩き出す。
足取りは、重い。
だが、
視線は、下を向いていない。
(……次だ)
遅れなかった。
それでも足りなかった。
その先に、
答えがある。
まだ、名前は呼ばない。
だが、
呼ぶ準備は、整った。




