第三十三話 遅れなかった、それでも足りなかった
朝は、早かった。
空が白み始めるより先に、悠一は目を覚ました。
焚き火の跡は冷え、灰が薄く広がっている。
(……静かだ)
だが、それは「安全」ではない。
夜を越えた街道は、
朝一番に動く獣や人間が重なる。
悠一は、装備を整えながら呼吸を整えた。
(まず、動く)
昨日、自分で決めたことだ。
考え切る前に動く。
動きながら考える。
糸は肩口。
静かだ。
(……今日は、頼らない)
そう思った瞬間、
糸が揺れた。
否定ではない。
肯定でもない。
ただ、そこにある。
⸻
街道を少し進んだところで、違和感が来た。
音ではない。
気配でもない。
――視線。
(……来る)
今回は、迷わなかった。
悠一は足を止める前に、
糸を地面に張った。
無色。
糸のまま。
進路を塞ぐのではない。
踏み込みを限定するだけ。
茂みが揺れる。
飛び出してきたのは、昨日よりも大きい獣。
四足。
筋肉のつき方が違う。
(……同種、でも個体差がある)
判断は、早い。
悠一は後ろに下がらない。
距離を保ったまま、
視線を外さず、糸を二本張る。
一本は地面。
もう一本は、腰の高さ。
獣が踏み込む。
「……今だ」
悠一は、遅れずに動いた。
獣の前脚が、糸に触れる。
昨日と違い、これは想定内だ。
獣はバランスを崩し、
悠一は横に回り込む。
――完璧、だった。
はずだった。
「――っ!」
獣は、立て直した。
速い。
想定より、速い。
(……くそ)
悠一はすぐに距離を取る。
判断は遅れていない。
だが、力が足りない。
糸は切れていない。
だが、押し切れない。
獣は再び距離を詰める。
悠一は、糸を張り直す。
一本、二本、三本。
進路を削る。
選択肢を減らす。
だが、獣は止まらない。
(……押し切れない)
息が、少し乱れる。
糸は、動かない。
――いや、
動く必要がない。
判断は遅れていないからだ。
(……これが、差か)
悠一は歯を食いしばる。
知識はある。
判断も早い。
だが、
届かない場面がある。
獣の動きが、一段階上がった。
悠一は、後退しながら糸を切る。
逃げではない。
撤退だ。
獣は深追いしない。
縄張りの外。
それ以上は来ない。
しばらく睨み合い。
やがて、獣は踵を返し、
森へ消えた。
⸻
悠一は、その場に立ち尽くした。
「……遅れてない」
それは、確かだ。
判断は間に合っていた。
糸も、適切に使った。
それでも――
勝てなかった。
「……足りないな」
力ではない。
勇気でもない。
(……選択肢の幅)
糸は一本。
できることは限られている。
悠一は、糸を見る。
「……お前は、動かなかったな」
糸は、静かだ。
当然だ。
遅れていない。
だから、介入はない。
「……正しいな」
苦笑が漏れる。
守られなかった。
だが、それでいい。
「……でも」
悠一は、糸を指で摘まむ。
「このままじゃ、届かない」
糸は、細い。
だが、確かに繋がっている。
「……一緒に、考えるしかないか」
その言葉は、
独り言のようでいて、違った。
まだ名前はない。
だが、
言葉を向ける相手として、糸を見ている。
⸻
歩き出す。
今度は、足取りが違う。
焦りではない。
自覚だ。
(……遅れなかった)
(……それでも、足りなかった)
その二つを、胸に刻む。
糸は肩口にある。
守られなかった。
だが、離れもしない。
街道は続く。
次の選択は、
さらに厳しくなる。
そして悠一は、まだ知らない。
この“足りなさ”を言葉にした瞬間、
世界が応えることを。




