第三十話 街道の夜は、静かすぎる
門を抜けた瞬間、空気が変わった。
町の外は、思ったよりも静かだった。
人の声がない。
灯りがない。
あるのは、風と草の擦れる音だけ。
「……静かだな」
悠一は、思わず口にした。
糸は、肩口で揺れている。
風に反応しているだけ――そう思いたい揺れ方だ。
(……戻るなら、今だぞ)
頭の中で、そんな声がよぎる。
だが、足は止まらない。
町にいた頃より、
一歩一歩が、はっきりと重い。
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街道は、整備されている。
踏み固められた土。
ところどころに置かれた道標。
だが、それは昼の話だ。
夜になると、同じ道でも印象が変わる。
視界が狭まり、距離感が狂う。
(……一人だな)
当たり前の事実が、胸に落ちる。
これまでも一人だった。
だが、町という“逃げ場”があった。
今は――
背後に、何もない。
「……」
糸が、少しだけ揺れた。
(お前は、いるけどな)
そう思った瞬間、
ほんの少しだけ、心が軽くなる。
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日が完全に落ちる前に、野営地を決めた。
街道から少し外れた、小さな岩陰。
風を遮れ、見通しも悪くない。
「……ここでいいか」
火打ち石で、火を起こす。
ぱち、ぱち、と小さな焚き火が生まれる。
その光の中で、
糸が――火を避けるように位置を変えた。
「……熱いのは嫌か?」
糸は、動かない。
だが、
火に近づかない位置を、確かに選んでいる。
(……細かいな)
少しだけ、笑った。
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簡単な食事を済ませ、荷を整える。
音が、やけに大きく感じる。
布の擦れる音。
金属の触れ合う音。
(……町だと、気にならなかったのに)
世界が、広くなった証拠だ。
悠一は、焚き火の前に座り、糸を手に取った。
「……今日、何もしなかったな」
町を出てから、
糸は一度も勝手に動いていない。
結ばない。
光らない。
主張しない。
(……眠ってる?)
そんなはずはない。
「……使うな、ってことか?」
問いかけても、答えはない。
だが――
糸は、指に絡んだまま離れない。
⸻
夜が深まる。
焚き火が、小さくなる。
草むらで、何かが動いた気配がした。
「……」
悠一は、すぐに立ち上がらない。
耳を澄ます。
獣か。
風か。
(……様子見)
その判断が下された瞬間。
糸が、ぴんと張った。
「……おい」
指示はしていない。
だが、糸は、
街道の外れ――草の揺れがあった方向に向かって、
一本、線を引いた。
罠ではない。
絡めるでもない。
ただ、
境界線のように。
その直後。
草むらの気配が、引いた。
完全に。
迷いなく。
「……今の」
悠一は、息を止めていた。
糸は、すぐに緩む。
何事もなかったかのように。
(……威嚇?)
(いや……)
(……選別、か?)
「……勝手にやるなって言ったよな」
糸は、反応しない。
だが、
悪意もない。
ただ、
“今は、ここまで”
そう線を引いただけだ。
⸻
焚き火の火を落とし、横になる。
夜空は、町よりも星が多い。
「……世界、広いな」
呟くと、声がやけに遠く感じる。
糸は、胸元にある。
絡まっていない。
だが、離れもしない。
「……なあ」
悠一は、小さく言った。
「俺、正しいか?」
返事はない。
だが――
糸は、ほどけない。
「……答えなくていい」
目を閉じる。
遠くで、獣の声。
近くで、風の音。
そして、
胸元に、確かな重み。
それだけで、
今夜は、十分だった。
⸻
夜明け前。
空が、わずかに白み始める。
悠一は、目を開けた。
糸は――
焚き火跡の周囲を、軽く囲っていた。
結界ではない。
罠でもない。
ただ、
踏み込めば気づく線。
「……寝てる間に、やったな」
糸は、静かだ。
(……夜限定、か)
苦笑が漏れる。
「……勝手にやるな」
言いながら、
声は、昨日よりも柔らかかった。
糸は、ゆっくりと解け、
元の位置に戻る。
朝日が、差し込む。
街道の先は、まだ見えない。
だが――
もう、戻る気はなかった。
「……行こう」
悠一は立ち上がり、
糸を道具袋に収めた。
街道編は、始まった。
静かで、
危険で、
そして――
選択を誤魔化せない道が。




