第二十九話 結び目を、外す前に
朝の町は、少しだけ落ち着いていた。
昨日まであった視線のざわつきが、薄れている。
人は慣れる。
良くも悪くも、すぐに。
悠一は、宿の二階の窓から通りを眺めていた。
(……静かだな)
糸は、机の上にある。
今日は、動かない。
「……昨日、やりすぎたか?」
問いかけても、答えはない。
だが、糸は逃げない。
それだけで、十分だった。
⸻
階段を降りると、宿主が声をかけてきた。
「今日は、早いな」
「はい」
「……出るのかい?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……まだ、決めてません」
宿主は、深くは聞かなかった。
「そうか」
それだけ。
だが、その一言が、
**“もう、そう見えている”**ことを示していた。
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市場に向かう。
いつもの道。
いつもの匂い。
だが、足取りは少しだけ重い。
「よう」
声をかけてきたのは、エルドだった。
今日も、荷車の横に立っている。
「顔に書いてあるな」
「……何がですか」
「分岐点だ」
即答だった。
悠一は、苦笑する。
「商人は、何でも分かるんですね」
「分かるさ」
エルドは、荷を整えながら言う。
「動く前の人間は、必ず一度立ち止まる」
「それを見逃すほど、鈍くない」
⸻
手伝いをしながら、しばらく沈黙。
箱を運び、布を畳み、縄をまとめる。
その間、糸は――
一度も勝手に動かなかった。
(……今日は、大人しいな)
「昨日の糸」
不意に、エルドが言った。
悠一の手が止まる。
「……見てました?」
「見てた」
「町の半分は、見てた」
「……」
「だがな」
エルドは、声を落とす。
「“分かった”のは、ほんの一握りだ」
「……何がですか」
「お前が、もう“止まれない”ってことだ」
悠一は、黙り込んだ。
⸻
昼前。
荷車の影で、休憩する。
「……俺」
悠一は、ようやく口を開いた。
「この町、嫌いじゃないです」
「だろうな」
「静かで、程よくて」
「仕事もある」
エルドは、続きを促さない。
「……でも」
悠一は、糸を見る。
「糸が、目立ち始めてる」
「目立たせたいわけじゃない」
「守りたいだけなんです」
「それが、目立つ」
エルドは、短く言った。
「世界は、そういうもんだ」
「……困りますね」
「困るだろうな」
エルドは、少しだけ笑った。
「だが、逃げたい顔じゃない」
悠一は、驚いた。
「……分かります?」
「分かる」
エルドは断言する。
「逃げる奴は、もっと早く動く」
「迷わない」
「お前は――」
一拍置いて。
「選んでから、動く顔だ」
⸻
午後。
町外れまで歩く。
人が少ない。
糸は、風に揺れている。
「……なあ」
悠一は、足を止めた。
「この町に残る、って選択」
糸は、動かない。
「……悪くないと思うんだ」
それでも、
何かが引っかかる。
「でも」
悠一は、ゆっくりと言った。
「ここにいたら」
「お前、また勝手に動くだろ」
糸は、微かに揺れた。
否定しない。
「……だよな」
笑ってしまった。
「だったら」
一度、深く息を吸う。
「俺が、動く」
糸が、
初めて、はっきりと指に絡んだ。
きつくない。
引き止めない。
ただ、
選択を確認するように。
⸻
夕方。
宿に戻り、荷をまとめる。
大きな荷物はない。
糸、針、糸巻き。
そして――
町で得た、小さな縁。
「……また来るかもしれない」
誰にともなく言う。
糸は、静かだ。
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夜。
エルドが、宿の前まで見送りに来た。
「行くのか」
「……はい」
「いい判断だ」
即答だった。
「危なくなったら?」
「逃げます」
「違う」
エルドは、笑う。
「戻ってこい」
悠一は、少し驚き――
それから、頷いた。
「……ありがとうございます」
エルドは、荷車に手をかける。
「次に会う時」
「糸は、もっと厄介になってるな」
「……否定できません」
二人は、短く笑った。
⸻
町の門をくぐる。
夜風が、背中を押す。
悠一は、振り返らなかった。
糸は、肩口で静かに揺れている。
「……行こう」
目的地は、決めていない。
ただ――
同じ場所に留まらない。
それだけは、決まった。
町の灯りが、少しずつ遠ざかる。
結び目を外す前に、
次の糸を探しに行く。
それが、
悠一の選択だった。




