第三話 糸は弱く、使い手は考える
境界の草原を抜けて、悠一は森の縁に立っていた。
木々は高くない。幹は細く、葉は柔らかい緑色をしている。奥へ進めば暗くなりそうだが、入口付近は光が差し、足元も見通せた。鳥の声が近く、草原よりも生命の密度が濃い。
「……まずは、入る前に」
悠一は歩みを止め、地面にしゃがみ込んだ。
理由は単純だ。何も分からないまま踏み込むのは危険だから。
糸を指に巻き、ほどけ具合を確かめる。
境界の草原で試した限り、糸は「切れやすい」。だが同時に、「無理をさせなければ応える」。この感覚は、布を縫うときと同じだった。
「強く引けば、壊れる。流れを作れば、保つ」
悠一は小さく呟き、地面の落ち葉に糸を這わせた。
風で動く葉の下をくぐらせ、根元に絡める。力は入れない。結び目も作らない。ただ、通す。
葉が風で動いた。
それに引かれて、糸がわずかに揺れる。
「……反応は、取れるな」
罠と呼ぶには頼りない。
だが、「何かが触れた」ことは分かる。気づけるだけで、生存率は上がる。
次に、木と木の間に糸を張った。
高さは足首ほど。人が引っかかる位置ではないが、小動物なら触れる。
糸は細い。視認しづらい。
それだけで、価値がある。
「見えない線、か」
悠一は立ち上がり、数歩下がって全体を見る。
森の縁に、何もないように見える空間ができている。だが実際には、糸が数本、静かに張られていた。
――これなら、いける。
剣を振るうことはできない。
魔法を放つこともできない。
だが、相手の行動を一拍遅らせることはできる。
その一拍が、生きるか死ぬかを分ける。
悠一は、慎重に森へ足を踏み入れた。
⸻
森の中は、草原とは別の静けさがあった。
音が吸われる。
風が遮られ、木々の間で揺れる葉の音だけが、近くで鳴る。視界は狭まり、遠くは見えない。
悠一は歩幅を小さく保ち、足音を殺す。
糸は左手。右手は空けておく。何かあれば、すぐ地面に触れられるように。
数歩進んだところで、糸が震えた。
「……」
即座に立ち止まる。
草原で張った糸の一つだ。揺れは小さいが、確かに触れられている。
悠一は、視線を低く保ったまま、音の方向を探った。
――いた。
小型の獣。
犬よりも小さく、狐に似た姿。毛は褐色で、警戒するように周囲を嗅ぎ回っている。鋭い牙は見えるが、今のところ敵意はない。
悠一は息を殺した。
「……魔物、って感じでもないな」
判断は早い方がいいが、結論を急がない。
この世界の基準が分からない以上、「見た目が普通=安全」とは限らない。
獣が一歩踏み出す。
足が、糸に触れた。
ぴん、と小さな音。
糸が張り、獣の足が一瞬止まる。
獣は驚き、後ずさった。
攻撃ではない。違和感への反応だ。
悠一は、その瞬間を逃さなかった。
糸を引かない。
代わりに、もう一本の糸を、獣の進路に滑らせる。
獣は逃げようとして、別の糸に触れる。
動きが、わずかに乱れる。
「……行け」
声は出さない。
意識だけで、糸の“隙間”を作る。
獣は、その隙間を抜けるように森の奥へ走り去った。
戦闘は、なかった。
血も、叫びも、ない。
悠一は、糸を緩め、回収する。
切れていない。張り詰めてもいない。
「……十分だな」
自分に言い聞かせるように呟く。
勝った、とは言えない。
だが、危険を避けた。それでいい。
悠一は糸を指に巻き直し、深く息を吐いた。
⸻
しばらく進むと、小さな沢に出た。
水は澄んでいて、流れも穏やかだ。飲めるかどうかは分からないが、洗うくらいなら問題なさそうだった。
悠一は膝をつき、手を伸ばす。
そのとき、糸がふっと軽くなる感覚があった。
「……?」
糸を見る。
いつの間にか、指に巻いていた糸の量が、少しだけ増えている。
錯覚かと思い、ほどいてみる。
確かに、増えている。一本分にも満たない、ほんのわずかな増加。
「……減ってない。増えてる?」
理由は分からない。
だが、草原でも感じた「余り」と同じだ。
悠一は、すぐに結論を出さなかった。
理由が分からないことを、無理に説明しない。これは、彼の癖でもあり、武器でもある。
「……今は、使えるってだけでいい」
糸を結び直し、指に巻く。
この糸は弱い。
だが、無限ではないが、尽きもしない。そんな予感が、胸の奥に静かに根を張った。
悠一は立ち上がり、森の先を見る。
まだ先は長い。危険もあるだろう。
それでも――
糸を見失わなければ、考える時間は稼げる。
「結ぶのは、これからだな」
誰に言うでもなく、そう呟いて、悠一は再び歩き出した。
糸は、静かに応えていた。




