第二十六話 糸は空気を読まない
朝の市場は、騒がしかった。
露店の呼び声、金属が触れ合う音、荷車のきしみ。
町は今日も元気だ。
――元気すぎる、と言ってもいい。
「……なんでだ」
悠一は、立ち止まっていた。
足元。
糸が、踊っている。
「……踊るな」
指で摘まむ。
糸は、するりと抜けて――
ひらひらと空中で円を描いた。
「……」
(昨日まで大人しかったよな?)
まるで何かをアピールするように、
糸はくるり、ぴょん、くるり。
「……やめろ」
言った瞬間。
糸は、ぴたっと静止した。
(聞いた?)
次の瞬間。
露店の紐を結んだ。
「おい」
悠一の声より先に、
露店の店主が叫ぶ。
「お、助かる!」
「……え?」
「風で飛びそうだったんだ!」
糸は、ほどけない程度に、
だが絶妙な強さで、布を留めている。
「……勝手に仕事するな」
糸は、得意げに揺れた。
⸻
「お前、何か増えたな」
背後から声。
「……エルドさん」
いつもの調子の商人が、腕を組んで立っていた。
「噂より、実物の方が賑やかだ」
「誤解です」
「誤解か?」
エルドは、糸を見る。
「……踊ってるぞ」
「昨日までは、こんなことなかったんです」
「だろうな」
エルドは、にやりと笑った。
「これは“慣れてきた”顔だ」
「何にですか」
「お前に」
悠一は、嫌な予感がした。
⸻
歩き出すと、糸も一緒に移動する。
だが。
・人の前に出る
・物に絡む
・やたら結ぶ
「……やめろって」
糸は、やめない。
子どもの靴紐。
結ぶ。
「あ、ありがとう!」
(褒められてる……)
魚籠の蓋。
結ぶ。
「落ちなくなったな!」
(評価されてる……)
悠一は、頭を抱えた。
「……お前、目立つなって言っただろ」
糸は、ぴょんと跳ねた。
完全に無視。
「お前な……」
エルドが肩を震わせる。
「これはあれだ」
「何ですか」
「躾け前の獣」
「糸です」
「同じだ」
断言された。
⸻
商人の餌付け
エルドは、露店の端から小さな糸屑を取り出した。
「ほら」
糸屑を差し出す。
「……何してるんですか」
「試しだ」
すると――
ツムギが、寄っていった。
「おい」
悠一が止める間もなく、
糸は糸屑に触れ――
ぴかっと光った。
「……光ったぞ」
「光りましたね」
周囲の視線が集まる。
「……ダメだ、完全にダメだ」
悠一は即座に糸を掴んだ。
「これ以上目立つな」
糸は、抵抗しない。
だが。
悠一の手首に、ミサンガ状に巻きついた。
「……は?」
「お」
エルドが目を細める。
「それ、装飾か?」
「違います」
「守りか?」
「違います!」
(多分)
糸は、すぐにほどけた。
まるで、
「今のは冗談」
と言いたげに。
⸻
「……なあ、悠一」
エルドが、珍しく真面目な声を出す。
「そいつ、命令聞かないだろ」
「……はい」
「でもな」
商人は、糸を見る。
「嫌がることは、しない」
悠一は、言葉に詰まった。
確かに。
危ないことはしない。
人を傷つけない。
困る方向には行かない。
……ただ、空気を読まない。
「……厄介ですね」
「相棒だな」
「認めません」
即答。
エルドは笑った。
⸻
別れ際。
「じゃあな、糸の人」
「だから――」
言いかけた瞬間。
ツムギが、エルドの荷車の取っ手を結んだ。
「……」
「……」
二人、無言。
エルドは、一拍置いて言った。
「これは」
「……」
「再会の約束、だな」
「違います!!」
叫んだ瞬間、
糸は満足そうに、ほどけた。
⸻
夜。
宿の部屋。
「……今日は、やりすぎだ」
悠一は、糸を膝に乗せる。
糸は、静かだ。
「目立つと、困る」
糸は、動かない。
「……分かってるなら、いい」
糸は、ほんの少しだけ、指に絡んだ。
だが。
その影が、
一瞬だけ、二重に見えた。
「……?」
気のせいかもしれない。
だが、悠一は気づかない。
今日の出来事が、
すでに誰かの視線を引き寄せていることに。
糸は、空気を読まない。
だが――
世界は、読み始めている。




