第二十一話 役に立たない糸と、よく喋る商人
朝の町は、相変わらず忙しかった。
露店の準備音、荷車の軋む音、呼び込みの声。昨日までと何も変わらない――はずなのに、悠一の視線は、どうしても一箇所に落ち着いてしまう。
道具袋の中。
(……いるよな)
確認しなくても分かる。
今朝からずっと、視線の外で何かが落ち着いている。
「……出てくるなよ」
誰に言っているのか分からない忠告を呟き、悠一は通りを歩いた。
⸻
市場の一角で、見覚えのある背中を見つける。
「……エルドさん」
振り向いた商人は、にやりと笑った。
「よう、糸の人」
「やめてください」
即座に返す。
「冗談だ。
だが、町じゃもう通じるぞ?」
「通じなくていいです」
エルドは荷を下ろし、悠一をじっと見た。
「顔色、悪くないな」
「普通です」
「だが、何か増えた」
「……何がですか」
「雰囲気だ」
エルドは即答した。
「背負ってるもんが、一つ増えた顔だ」
(鋭いな……)
悠一は、言葉を濁す。
「……気のせいですよ」
「そういう時は、大体気のせいじゃない」
エルドは笑いながら、露店の布を整えた。
⸻
エルドの手伝いをしながら、悠一は荷を運ぶ。
箱を持ち上げる。
置く。
整える。
(……糸、出てこないな)
昨日の夜の異変が、嘘のように静かだ。
(役に立たないなら、役に立たないでいいんだけど)
そう思った瞬間――
箱の端が、崩れた。
「っ」
反射的に、悠一は糸を出しかけて――止めた。
(……待て)
次の瞬間。
糸が、勝手に出てきた。
だが。
箱を支えない。
結ばない。
絡まない。
ただ、ひらひらと宙に漂った。
「……?」
箱は、普通に崩れた。
「おっと!」
エルドが慌てて押さえる。
「大丈夫ですか!?」
「問題ない」
エルドは箱を戻し、悠一を見る。
「今の……何だ?」
「……分かりません」
糸は、悠一の指に戻ってくる。
何事もなかったかのように。
「……助けてくれるんじゃないんですか」
小声で呟く。
糸は、反応しない。
(……役に立たないな)
⸻
昼。
露店の影で休憩する。
エルドが水袋を投げて寄こす。
「飲め」
「ありがとうございます」
一口飲んだ、その時。
糸が、水袋にちょこんと触れた。
「……何してる」
水袋は、普通だ。
冷たい。
漏れてない。
「……飲み物を冷やす機能とか、ないよな?」
期待してみる。
ない。
糸は、満足そうに――
いや、何も考えてなさそうに戻ってくる。
「……本当に、何もできないな」
エルドが、眉を上げる。
「独り言が増えたな」
「……そうですか?」
「増えた」
断言された。
⸻
午後。
客が増え、少し忙しくなる。
エルドが値段交渉をしている横で、悠一は布を畳む。
「……」
布の端が、ずれる。
(……来るか?)
来ない。
糸は、出てこない。
(さっきは出たのに)
「……気まぐれか?」
問いかけても、返事はない。
その時、エルドが言った。
「お前、最近“使わない選択”が増えたな」
「……分かります?」
「商人はな、
使わない選択をする奴の方が信用できる」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
エルドは、布を畳みながら続ける。
「使える時に使わない。
売れる時に売らない」
「……損しません?」
「短期ではな」
「長期では?」
「信用が残る」
悠一は、糸を見る。
「……信用、ですか」
糸は、相変わらず静かだ。
⸻
夕方。
片付けを終え、露店を閉じる。
「助かった」
エルドが言う。
「また頼む」
「こちらこそ」
別れ際、エルドがふと立ち止まる。
「そうだ」
「はい?」
「その糸」
悠一は、息を止める。
「……何ですか」
「道具じゃないな」
エルドは、断言した。
「少なくとも、今は」
悠一は、何も言えなかった。
エルドは、笑った。
「困ったもんを背負ったな」
「……役に立たないんです」
「それでいい」
エルドは肩をすくめる。
「役に立つ奴は、すぐ消費される」
「役に立たない奴は、
長く一緒にいられる」
(……商人の価値観だな)
「じゃあな、糸の人」
「だから、やめてください」
エルドは笑いながら、去っていった。
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夜。
宿の部屋。
悠一は、糸を膝に乗せた。
「……今日は、何もしなかったな」
糸は、動かない。
「助けもしない」
「答えもしない」
「……役に立たない」
そう言った瞬間。
糸が、ほんの少しだけ、指に絡んだ。
きつくない。
引き留めるだけ。
「……」
悠一は、少しだけ笑った。
「まあ、いいか」
役に立たなくても。
理由が分からなくても。
「……一緒にいるだけなら」
糸は、静かだ。
だが、離れない。
「……明日も、様子見だな」
灯りを消す。
部屋は暗くなる。
だが――
その糸は、今日もそこにいた。
役に立たないまま。
だが、だが、確かに。
隣に。




