第二十話 ほどけない糸
夜は、静かだった。
町の灯りが少しずつ落ち着き、昼間の喧騒が嘘のように引いていく。遠くで聞こえるのは、門が閉まる音と、最後の客を送り出す酒場の笑い声だけだ。
悠一は宿の部屋で、道具袋を広げていた。
「……今日も、絡まってないな」
独り言のように呟きながら、糸を糸巻きに巻き直す。
力を入れすぎない。均等に。
巻き終えた後、指で軽く弾き、張力を確かめる。
異常は、ない。
(……いや)
ほんのわずかだが、違和感があった。
「……?」
糸巻きの端。
いつも一番外に来る糸が、勝手に緩んでいる。
ほんの数センチ。
意識して見なければ気づかない程度。
「……ほどけた?」
悠一は、指で押さえた。
糸は、素直に止まる。
「……気のせいか」
そう思い、巻き直そうとした――その時。
指先が、わずかに引かれた。
「……え?」
引っ張られる、というほど強くはない。
だが、明確に「動いた」。
悠一は、思わず糸を放した。
糸は、落ちない。
空中に浮くわけでもない。
ただ、自分の意思で、そこに留まっている。
「……」
部屋は、静まり返っている。
風もない。
揺れる理由は、ない。
「……おい」
無意識に声が出た。
返事は、ない。
だが、糸は――
ゆっくりと、指に絡んできた。
きつくない。
縛るでもない。
触れているだけ。
「……」
悠一は、動かなかった。
頭の中で、いくつもの可能性が浮かぶ。
(魔法?)
(罠?)
(……疲れてる?)
どれも、しっくりこない。
「……今日は、使わないって言っただろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
だが、その瞬間。
糸は、ぴたりと動きを止めた。
「……」
悠一は、ゆっくりと息を吐いた。
(聞いた……?)
そんなはずはない。
糸は、糸だ。
命令を聞くはずがない。
だが、事実として――
言葉に反応した。
「……分からない」
悠一は、糸を指から外そうとした。
抵抗は、ない。
だが、離れない。
まるで、指の位置を覚えているかのように、同じ場所に戻ってくる。
「……しつこいな」
少しだけ苦笑が漏れた。
不思議なことは起きている。
だが、恐怖はない。
(……嫌な感じじゃない)
悠一は、ベッドに腰を下ろした。
糸は、膝の上に落ち着いた。
「……勝手に動くなよ」
小さく、釘を刺す。
糸は、動かない。
だが――
微かに、光った。
月明かりかと思った。
だが、違う。
糸そのものが、淡く、柔らかく。
白でも、青でもない。
言葉にしにくい色。
「……光るのは反則だろ」
悠一は、思わず呟いた。
誰に見せるわけでもない。
ただ、自分に言い聞かせるように。
糸は、再び静かになった。
⸻
しばらく、何も起きなかった。
悠一は、糸をそのままにして、道具袋を片付ける。
針を布に刺し、袋を閉じる。
糸は、膝の上。
動かない。
(……夢じゃないよな)
指でつついてみる。
柔らかい。
いつもの糸と同じ感触。
「……変な糸だな」
そう言った瞬間。
糸が、ほんの一瞬だけ、強く輝いた。
驚くほどではない。
だが、確かに。
「……」
悠一は、しばらく黙り込んだ。
(……名前、付けるのは早いな)
自分で自分に言い聞かせる。
こういうものは、急ぐとろくなことにならない。
分からないまま、距離を測る方がいい。
「……とりあえず」
悠一は、糸を糸巻きに戻した。
糸は、抵抗しない。
巻かれながらも、絡まらない。
むしろ、自分から位置を整えているように見えた。
「……賢いな」
また、言葉に反応したかのように、糸が止まる。
「……偶然だ」
そう言い切って、灯りを落とした。
⸻
暗闇。
しばらく、眠れなかった。
天井を見つめながら、今日の出来事を反芻する。
糸を使わなかった夜。
そして、勝手に動く糸。
(……使うな、ってことか?)
そんな考えが浮かび、すぐに打ち消す。
(いや、そんな都合のいい話はない)
糸は、答えない。
答えるはずもない。
だが、そこにいる。
それだけが、妙に確かだった。
「……明日も、様子を見るか」
結論は、それだけ。
悠一は、ゆっくりと目を閉じた。
⸻
翌朝。
目を覚ますと、糸は――
枕元にあった。
「……移動したな」
昨夜、そこには置いていない。
だが、荒らされた形跡もない。
糸は、静かに丸まっている。
「……勝手に歩くなよ」
言ってから、少し可笑しくなった。
歩くはずがない。
糸なのだから。
だが、心のどこかで――
**“いる”**と感じている。
悠一は、糸を手に取った。
絡まらない。
逃げない。
ただ、そこにある。
「……しばらく、一緒に様子見だな」
答えは、ない。
だが、糸は――
ほんの少しだけ、暖かかった。
それが、気のせいなのかどうか。
判断するには、まだ早い。
悠一は、道具袋を肩にかけ、部屋を出た。
町は、今日も普通だ。
露店の声。
人の足音。
変わらない日常。
ただ一つ違うのは――
糸が、
道具ではなくなり始めていること。
その意味を、悠一はまだ知らない。
だが、ほどけないこの糸は、
確実に、何かを紡ぎ始めていた。




