第二話 境界の草原で、糸を試す
境界の草原は、思っていたよりも静かだった。
風はある。草は揺れる。鳥も鳴いている。
けれど――人の気配が、まるでない。
悠一は丘の上に立ったまま、しばらく動かなかった。
異世界に来た直後にありがちな高揚感や不安は、意外なほど薄い。ただ、現実と同じように「まず状況を把握しないといけない」という感覚だけが、体の奥に残っていた。
「……誰もいない、よな」
声に出してみる。
返事はない。風が草を擦る音だけが戻ってきた。
人がいないという事実は、安心と同時に不安を呼ぶ。助けを求める相手も、危険を知らせてくれる相手もいない。ここでは、自分の判断だけが頼りだ。
悠一は視線を落とし、足元を確かめた。草の下は柔らかい土だが、踏み抜くほどではない。少し先に、平らな石が転がっている。さらに遠くには、背の低い木々が点々と見えた。
まずは、持ち物の確認。
――ない。
ポケットを探っても、服の中を探っても、出てくるのは何もない。財布も、スマートフォンも、鍵も、すべて置いてきた世界のものだ。
残っているのは、これだけ。
悠一は、左手を開いた。
一本の糸。
細く、軽く、頼りない。
指に絡めれば簡単に切れそうなのに、不思議と「簡単には切れない」とも感じる。強度の話ではない。感覚の話だ。
「……ほんとに、糸だけだな」
思わず苦笑する。
生きるための最低限ですらない。武器にもならない。防具にもならない。紐代わりにするには、あまりに細い。
それでも――不思議と、心は落ち着いていた。
悠一は草原の中央に腰を下ろし、糸を指先で転がす。
何もしなければ、何も分からない。
「……とりあえず、試すか」
立ち上がり、少し離れた石に目を向ける。
頭の中で、神の言葉がよみがえった。
――糸を操る力を与える。
操る、とはどういうことなのか。
引っ張る? 伸ばす? 浮かせる?
悠一は、糸の端を軽く摘まみ、石に向かって意識を向けた。
「……来い、は違うよな」
命令する感覚ではない。
糸は道具ではあるが、従わせるものではない気がした。
代わりに、いつもの感覚を思い出す。
縫うとき。
糸に無理をさせない。
流れを作り、導く。
悠一は、糸をそっと前に滑らせるイメージを描いた。
すると――糸が、空中でわずかに動いた。
落ちない。
だが、浮いているとも言い切れない。
風に揺れる草と同じ高さで、細く、たしかに存在している。
「……動いた」
声が低くなる。驚きよりも、確認に近い。
糸は、悠一の意識に引かれるように、石の方へ伸びていった。距離は数歩分。糸は途中で途切れることなく、素直に延びる。
石に触れた瞬間、糸がわずかに震えた。
「……持ち上げるのは、無理か」
試しに引き上げようとする。
糸は応えるが、石はびくともしない。むしろ、糸の方が張り詰め、今にも切れそうな感触が伝わってくる。
悠一はすぐに力を抜いた。
「無理させると、切れるな」
感覚が、はっきりと伝わってくる。
これは魔法の糸ではない。万能でもない。
“弱い糸を、どう扱うか”――神の言葉が、ようやく腑に落ちた。
次に、別の使い方を試す。
悠一は、糸を地面に這わせ、草の根元に絡める。
引っ張るのではなく、結ぶ。
二本の草を、糸で軽くまとめる。
結び目を作ると、草は倒れず、並んで揺れた。
「……拘束、というほどじゃないけど」
でも、何もないよりは、確実に“できること”が増えている。
悠一は、さらに糸を動かした。
草と草。石と地面。小枝と小枝。
派手な変化はない。
けれど、世界の中に「線」を引ける。
それは、悠一にとって馴染み深い感覚だった。
布に縫い目を入れるとき、そこには境界が生まれる。
内と外。表と裏。繋がるものと、離れるもの。
「……戦うより、分ける、か」
悠一は呟いた。
この糸で、剣を弾くことはできない。
炎を防ぐこともできないだろう。
けれど――動きを制限する。道を塞ぐ。逃げ道を作る。
生き延びるための選択肢は、確実にある。
しばらく糸を動かしていると、ふと、違和感に気づいた。
糸が、わずかに“余っている”。
自分が動かしている量より、常に少しだけ多い。
切れ端でも、余剰でもない。ただ、そこにある。
「……?」
悠一は首を傾げたが、深追いはしなかった。
今は、理由を探す段階じゃない。
糸を指に巻き、軽く結ぶ。
ほどけないことを確認してから、立ち上がる。
「よし」
声に、ほんの少しだけ張りが出た。
この世界がどうであれ。
危険がどこにあろうと。
悠一は、もう一度草原を見渡す。
森の影は、まだ遠い。
煙のようなものも、消えていない。
歩き出す前に、最後に一度だけ、糸を引いた。
糸は、応えた。
それで十分だった。
悠一は、境界の草原を後にする。
糸を携え、結ぶように、慎重に――異世界での一歩目を踏み出した。




