第九十九話 正義は、燃え残る
噂は、まだ生きていた。
止血されたように見えて、
傷口の奥で、静かに脈打っている。
人は簡単に忘れない。
まして、自分が信じかけた“正しさ”なら尚更だ。
丘を下った先、広場に近い石畳の街道で、
悠一は足を止めた。
「……来るな」
それは予感ではない。
確信だった。
風が止まり、
音が消え、
人の気配が――一斉に向いた。
「ここまで来るとは思わなかったわ」
声は、背後ではなく前から。
人垣が、割れる。
ゆっくりと歩いてくる一人の女。
黒衣。
無駄のない所作。
戦場にも街にも馴染まない、異物。
ラグス。
「歓迎するわ。糸の使い手」
悠一は糸を出さない。
まだだ。
「……話をしに来たのか」
「ええ」
ラグスは頷いた。
「戦う理由は、もう十分に見せた」
「今日は――“決める”ため」
ミロが一歩前に出る。
「何をだ」
ラグスの視線が、彼を通り越す。
「あなた達が、誰なのかを」
ニィが小さく息を吸う。
「……また、意味の話か」
「意味は、人を殺すより強い」
ラグスは淡々と言った。
「剣は人を斬る」
「意味は、未来を斬る」
ざわめきが起きる。
人々が、集まり始めていた。
商人、旅人、兵、村人。
誰も武器を持たない。
だが――目は鋭い。
(……“見物”じゃない)
悠一は理解した。
裁きだ。
「あなたは、ここまで来る間に」
ラグスが続ける。
「何人を救った?」
「何人を危険に晒した?」
「何人の秩序を、壊した?」
問いが、矢のように突き刺さる。
悠一は、即答しない。
「答えないの?」
「……答えられない」
「それが問題なのよ」
ラグスは一歩、前に出る。
「あなたは“選ばせる”と言う」
「でも実際は――」
彼女は広場を見渡す。
「あなたが来た場所では、必ず人が迷う」
「迷いは、恐怖を生む」
「恐怖は、暴力を呼ぶ」
「あなたは、それを“縁”と呼ぶの?」
悠一の背中が、冷える。
(……違う)
だが、否定の言葉が、すぐに出ない。
「……俺は」
悠一は、ゆっくり言葉を探す。
「奪わない」
「縛らない」
「操らない」
ラグスが、微笑む。
「ええ、知ってる」
「だから厄介なの」
彼女は、指を鳴らした。
周囲の建物の影から、
人が出てくる。
武器を持たない。
だが――手には札。
「……何だ、あれは」
ミロが呟く。
ニィが、息を呑む。
「嘆願書……?」
ラグスが告げる。
「署名よ」
「あなたが通った村、町、街道」
「救われた者も、困った者も、全て含めて」
彼女は一枚の紙を掲げる。
「“糸の使い手の行動は、秩序を乱す恐れがある”」
ざわめきが、怒号に変わる。
「俺たちを助けた!」
「でも、兵が来た!」
「魔獣が……!」
「危険は危険だ!」
声が、割れる。
ラグスは、悠一を見る。
「ね?」
「あなたは、善意で人を裂く」
「私達は、悪意で統一する」
「どちらが、罪深い?」
悠一の手が、震えた。
(……赤を使えば)
縁を結べば、
この場の未来を、少し歪められる。
だが――
(それは、“正しさ”を与えることだ)
ツムギは、静かだ。
助けは来ない。
判断は、間に合っている。
悠一は、一歩前に出た。
「……秩序は」
声は、思ったより低かった。
「守るためにある」
ラグスが頷く。
「その通り」
「だが、守る対象は誰だ」
悠一は、周囲を見る。
怒る者。
怯える者。
迷う者。
「……全員だ」
ラグスは、首を傾げる。
「欲張りね」
「無理だと思わない?」
「思う」
即答だった。
「だから、ほどく」
ざわめきが、止まる。
「……ほどく?」
「絡まったまま、縛るから燃える」
「なら、一度ほどく」
「それから、結び直す」
ラグスは、初めて目を細めた。
「……結び直す?」
「誰が?」
「俺が」
悠一は、糸を出した。
無色。
細い糸。
空中に、一本。
「見ろ」
糸は、ただ張られているだけ。
何も縛らない。
何も操らない。
「これは、境界だ」
「踏み越えるな、じゃない」
「踏み越えるなら、覚悟しろ、という線だ」
人々が、息を呑む。
ラグスが静かに言う。
「……それは、秩序の仕事よ」
「違う」
悠一は、首を振った。
「秩序は、線を引く」
「俺は、線の意味を説明する」
沈黙。
重い。
(……ここだ)
悠一は、糸を増やした。
一本、二本、三本。
地面に張る。
空に張る。
交差する。
絡まない。
「この線は、俺とお前」
「この線は、村と街」
「この線は、噂と真実」
「絡めば、燃える」
「離せば、切れる」
「だから――」
悠一は、ラグスを見る。
「ほどいて、結び直す」
ラグスは、笑った。
だが、その笑みは鋭い。
「理想論」
「現実は、火だ」
彼女は、手を上げた。
その瞬間――
広場の一角で、爆音。
煙。
悲鳴。
(……来た)
建物の影から、火矢。
「っ!」
悠一は即座に動いた。
無色の糸を、綱へ。
空中で交差させ、
火矢を絡め取る。
だが数が多い。
「秩序の暴走よ」
ラグスが告げる。
「あなたが迷わせた結果」
「止めてみなさい」
(……赤)
使えば、止まる。
だが、それは――
“俺が正しい”と示すことになる。
(……使うな)
悠一は、歯を食いしばる。
「ミロ!」
「分かってる!」
不屈三牙が動く。
ガルが建物へ突っ込み、
ミロが人を押し出し、
ニィが火矢の軌道を読む。
「三射目、左!」
悠一は青を走らせる。
引き寄せ。
火矢の軌道を、わずかに曲げる。
壁に刺さる。
炎は、小さい。
だが――
一人の男が、叫んだ。
「見ろ! また糸だ!」
「操ってる!」
「危険だ!」
(……噂が、再燃する)
悠一は、決断した。
赤を――使わない。
代わりに、太さを変える。
糸 → 縄 → 綱。
広場全体に、低い壁。
遮るのではない。
見せる。
「これ以上、火は行かない」
「だが、越えれば危険だ」
ラグスが、目を細める。
「……逃げ道を残すのね」
「選ばせる」
「選ばせるのは、残酷よ」
「分かってる」
悠一は、正直に言った。
「でも、奪うよりマシだ」
沈黙。
火は、広がらない。
人々が、下がる。
誰も、綱を越えない。
噂が、揺れる。
ラグスは、深く息を吐いた。
「……ここまでか」
彼女は、悠一を見る。
「あなたは、勝たない」
「倒さない」
「燃やさない」
「なのに……」
彼女は、小さく笑った。
「私の正義が、揺れる」
悠一は、何も言わない。
「覚えておきなさい」
ラグスは、踵を返す。
「あなたは、世界を縫い直すつもりでいる」
「でも」
「縫い目は、必ず見える」
「見えた時、人は引き裂こうとする」
彼女は、振り返らない。
「その時」
「あなたは、赤を使うわ」
「そして」
「英雄になる」
風が吹く。
ラグスは、人混みに消えた。
静寂。
広場に、糸だけが残る。
悠一は、ゆっくり糸を巻いた。
ツムギは、静かだ。
助けない。
判断は、間に合っていた。
ミロが、息を吐く。
「……終わったか?」
ニィが首を振る。
「始まった」
エルドが、淡々と言った。
「世界が、お前を測る段階に入った」
悠一は、空を見る。
雲が流れている。
燃え残った正義が、
まだ、燻っている。
だが――
縫い直すための糸は、
確かにここにある。
最終話へ続く。
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