第十話 名を問わず、糸は結ばれる
道の先に見えた人影は、ゆっくりと近づいてきた。
荷を背負い、背は高くない。歩幅は一定で、急ぐ様子もない。足元を確かめる癖があり、時折、周囲に目を配る。慣れている。旅に。
悠一は道の端に寄り、立ち止まった。
糸は指に巻いたまま。隠しもしないが、誇示もしない。
距離が縮まる。
「……やあ」
先に声をかけてきたのは、相手の方だった。
低すぎず高すぎない、落ち着いた声。
「旅の途中かい?」
「ええ。あなたも?」
「商いの途中でね」
男は肩の荷を少し揺らした。革袋がいくつもぶら下がっている。道具、布、乾物――重さの偏りから、売り歩きの商人だと分かる。
「この辺りは、あまり人が通らない。珍しい」
「……そうですね」
悠一は短く答えた。
話を広げすぎない。相手がどう出るかを見る。
男は気にした様子もなく、少し笑った。
「警戒してる? 悪くない判断だ」
「……え?」
「この道、最近は盗賊が出るって聞いてね。三人組。動きは荒いが、頭は回る」
悠一の胸の奥で、何かが小さく噛み合った。
――同じ連中だ。
「……会いましたか」
「遠目に。深追いはしなかった」
男はそう言って、悠一の足元にちらりと視線を落とした。
何もない。罠も、線も、ない。
「……なるほど」
その一言に、妙な含みがあった。
悠一は黙った。
糸を動かす気配も、見せない。
「君、面白いな」
男は軽く肩をすくめる。
「剣も持ってない。魔法の気配もない。なのに、妙に落ち着いてる」
「……そう見えますか」
「見えるよ。少なくとも、焦ってはいない」
男は一歩、横にずれた。
道の中央を空ける。譲るでもなく、塞ぐでもない位置。
「名は?」
一瞬、迷う。
名を出すということは、線を一本引くことだ。
「……悠一です」
男は頷いた。
「俺はエルド。商人だ」
それ以上の肩書きは、付けなかった。
⸻
二人は、少しの間、並んで歩いた。
会話は多くない。
天気、道の状態、次の町までの距離。
必要な情報だけを、必要な分だけ。
「君、服を直したばかりだろ」
不意に、エルドが言った。
「……分かりますか」
「縫い目が新しい。だが、急ぎじゃない。丁寧だ」
悠一は、無意識に袖口を見た。
「……よく見てますね」
「商人だからね。物を見るのが仕事だ」
エルドは笑った。
「針は、いいものだ。安物じゃない」
「……譲ってもらいました」
「それは、いい縁だ」
“縁”という言葉に、悠一の指がわずかに動いた。
糸は、静かだ。
⸻
昼前、二人は道の分かれ目で立ち止まった。
「俺は右だ。町がある」
「僕は……もう少し先へ」
「そうか」
エルドは、荷袋から小さな包みを取り出した。
布に包まれた、円筒形。
「これは?」
「糸巻きだ」
悠一の視線が、自然と吸い寄せられる。
「糸は、そのままだと絡まる。使う人ほど、必要になる」
「……でも」
「売り物だ。だが、今は売らない」
エルドは包みを戻した。
「君が、金を稼げるようになったらだ」
条件を、はっきりと提示する。
施しではない。貸しでもない。
「……分かりました」
悠一は頷いた。
「また会えたら、その時に」
「縁があれば、な」
エルドはそう言って、右の道へ歩き出した。
⸻
一人になった道で、悠一は立ち止まった。
短い出会い。
だが、確かに何かが残っている。
名を交わした。
道具の話をした。
条件を受け取った。
糸を指に巻く。
増えている。
ごく、わずかに。
「……名を問うだけでも、結ぶのか」
独り言は、風に溶けた。
悠一は、前を向く。
糸。
針。
そして――糸巻きという、次の線。
すべては、まだ途中だ。
悠一は歩き出す。
名を問わずとも、糸は結ばれていく。
その先に何があるのかを、急がずに確かめながら。




