第一話 糸だけを握って
本作は、
剣も魔法も得意ではない主人公が、
「糸」というささやかな能力だけを頼りに
異世界を旅する物語です。
派手な無双はありませんが、
工夫や準備、選択の積み重ねを大切にしています。
気軽に読んでいただければ幸いです。
残業の終わる時刻が、だんだん「夜」ではなく「朝」に近づいていくのを、悠一はいつから数えるのをやめたのだろう。
社内の空調は一定で、蛍光灯は白く、キーボードを叩く音だけが乾いて響く。終電がなくなった夜は、会議室の隅で仮眠を取った。目覚めた時、ガラスに映る自分の顔が、誰だか分からなくなる。
「……生きてる意味、あるのかな」
声に出すと、余計に惨めになった。だから、心の中で呟くようになった。それも、いつしか薄れていった。
悠一には、好きなものが一つだけあった。
手芸。糸と針で、布を縫うこと。
学生の頃から、なぜか手が勝手に動いた。まっすぐ縫う。角を揃える。ほどけないように結ぶ。傷んだものが、形を取り戻していくのが好きだった。自分の中のぐちゃぐちゃが、縫い目の規則性に落ち着いていく気がした。
けれど、それを職場で言える空気ではなかった。
「男なのに手芸? 女子力高いね〜」
軽い冗談のつもりだろう。笑って流すのが正解だと、悠一は分かっていた。分かっているから、笑えた。笑える自分が、嫌だった。
だから、無理をした。
「アウトドア、始めてみようと思って」
そう言った時、周りがぱっと明るくなった。いいね、健康的。今度一緒に行こう。人は、自分が理解できるものに安心する。悠一もそれを利用した。理解されるために、好きでもない方へ寄せた。
休日。レンタルした道具。慣れない靴。眩しい空。山道の匂い。
楽しいはずだった。少なくとも「楽しいふり」をする予定だった。
けれど、足元の石が、予定を変えた。
滑った瞬間、時間が伸びたように感じた。踏ん張った足が空を切り、視界がぐるりと回る。体が宙に浮く。落ちる。何かにぶつかる。音が遠ざかっていく。
最後に思ったのは、妙に小さなことだった。
――糸、家に置いてきたな。
その次の瞬間、暗闇がほどけた。
⸻
目を開けると、そこは白かった。
白というより、光そのもの。天井も床もない。境界のない空間の中で、悠一は立っていた。体は痛くない。息も苦しくない。けれど、心のどこかが「これは現実じゃない」と冷静に告げている。
「ようこそ」
声がした。振り向くと、そこに“誰か”がいた。
男とも女ともつかない。若いとも老いたとも言えない。輪郭はあるのに、目を凝らすと像が揺れる。見ているはずなのに、見えていない――そんな違和感。
悠一は、言葉を探した。
「……俺、死んだんですか」
「そうだね。君の身体は、あの世界ではもう動かない」
即答だった。慰めも、ためらいもない。事実を告げるだけの声。
悠一は、妙に納得した。あの落下の瞬間から、どこかで覚悟していたのだろう。
「……じゃあ、ここは」
「境目だよ。君の世界と、別の世界の」
“別の世界”。悠一の頭は、そこだけが妙にはっきり反応した。漫画や小説の言葉が、現実の音として耳に入る。
「……異世界、ってやつですか」
「そう呼ぶ人もいる。呼び方は何でもいい」
相手――神、と呼ぶべきなのか。目の前の存在は、悠一を見下ろしているのに、見上げているようにも感じさせた。
「君は、報われない人生を送ってきた」
神は言った。
悠一は笑いそうになった。皮肉だ。今さら言われても、という気持ちと、ようやく誰かが言葉にしてくれた安堵が、同時に胸を叩く。
「……報われる人生って、何ですか」
「君が大事にしていたものを、大事にできる人生」
悠一は黙った。
大事にしていたもの。思い浮かぶのは、糸の感触だけだった。指に絡む細い線。結び目の硬さ。縫い終えた時の、布の温度。
「君に一つだけ、能力を与える。君の新しい世界で生きるためのものだ」
神が指を鳴らした。音はしなかったのに、空間が少しだけ“結ばれた”気がした。
「そして、君の世界から一つだけ持っていける。選びなさい」
悠一の前に、いくつもの影が浮かんだ。
刃物。火を起こす道具。丈夫そうなロープ。薬。金貨。便利そうなものが、いくらでもある。理屈で選べば、選択肢ははっきりしていた。
生きるために必要なもの。戦うために有利なもの。売って金になるもの。
けれど、悠一はそれらを、ひとつも手に取れなかった。
便利なものは、手に入れた瞬間から「それがないと困るもの」になる。頼ることを覚えたら、失った時に折れる。悠一はそういう自分を知っていた。
“好きなもので生きる”と言われたのに、ここで「都合のいいもの」を選んだら、また同じだ。
悠一は、視線を落とした。
自分の掌が、空っぽなのが嫌だった。
「……糸、ください」
神は少しだけ目を細めた……気がした。
「糸か」
「はい」
声が震えたのは、怖いからではない。これだけは、嘘にしたくないからだ。
「どんな時も、そばにあったんです。俺が……何も上手くいかない時でも」
神は頷いた。肯定でも否定でもない。ただ、選択を受け取った。
次の瞬間、悠一の掌に、一本の糸が落ちた。
細い。軽い。触れれば切れそうなほど頼りない。けれど、確かに“そこにある”。
悠一は、指先でそっと撫でた。あまりに懐かしくて、喉が詰まった。
「能力は、君の選んだものに沿う」
神の声が、少し遠くなる。
「糸を操る力を与える。だが、覚えておきなさい。糸は弱い。弱いものをどう使うかは――君自身だ」
悠一は、糸を握りしめた。
握りしめた拳の中で、糸は痛いほど静かだった。
「……ありがとう、ございます」
礼を言う相手として正しいかは分からない。けれど、言わずにはいられなかった。
神は答えなかった。ただ、空間がゆっくりほどけていく。
落ちる感覚が、また来た。
今度は恐怖よりも、ひとつの確信が先に立つ。
――俺は、好きなもので、生きる。
⸻
次に目を開けた時、風が頬を撫でた。
湿った土の匂い。草の香り。遠くで鳥が鳴く。空は高く、雲が流れていた。視界の端まで草原が広がり、境界線のように、向こう側の色が少しだけ違って見える。
悠一は仰向けのまま、息を吸って吐いた。
生きている。少なくとも、“続いている”。
手の中に何かがある。
拳を開くと、そこには――一本の糸。
白い。いや、白というより、光を受けて淡く色を変えるようにも見える。指先に絡めると、驚くほど素直に従った。
悠一はゆっくり起き上がり、草を掴む。足に力を入れる。立てた。
身体が軽い、というより、余計な重さがない。筋肉が増えたわけじゃない。ただ、痛みがない。疲れがない。新しい体に、無理なく息が通っている。
「……ここが、異世界か」
独り言は風に溶けた。
悠一は糸を指に巻き、結び目を作る。ほどけないように、いつもの癖で二重に。
結び目ができた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
この世界がどうであれ、まずは――結ぶことからだ。
悠一は草原を見渡した。
遠く、丘の向こうに森の影。さらに遠く、薄い煙のようなものが立っている。人の気配かもしれない。危険かもしれない。
彼は一歩、踏み出す。
糸の端が、風に揺れた。
それはまるで、「まだ切れていない」と告げる合図のようだった。




