後編
読んでいただいてありがとうございます。
今日はいつも以上に手がかじかむな、と思っていたら、空から雪が降ってきた。
「雪か……」
ルカの脳裏に浮かぶのは、暖炉の前で語り合ったセルフィナの姿だ。炎に照らされたセルフィナの笑顔をはっきりと覚えている。
「セルフィナ……」
思い出すのは彼女のことばかりだ。
最後に会った時、彼女の顔半分は包帯で覆われ、ベッドの上で起き上がるのも辛そうにしていた。
謝っても謝りきれない。
タニアが、王女という身分にある者が国に仕える騎士に女性を襲えと命令し、それを実行する馬鹿な騎士たちが存在するとは思わなかった。
ルカに対するタニアの強い恋情と、ルカを妬んでいた騎士たちの恨みの心が、全て婚約者だったセルフィナに向かっていってしまった。
王太子妃は、わざとタニアの感情がセルフィナに向かうようにしむけていたと涙ながらに語り、エリオットと自分は何も気が付かなかったことを嘆いた。
「もう二度とお会いすることはないでしょう」
静かに伝えられたその言葉が全てだ。
ルカはセルフィナを失った。
同じ国に生きていても、もう会うことはない。
もし……もしセルフィナが自分を許してくれるのなら、何をおいてもすぐに会いにいく。
だが、セルフィナはそれを望んでいない。
彼女は、スーシャ伯爵家に帰り、屋敷から外に出ることもなく静かに過ごしているという。
「ルカ」
名を呼ばれて振り返ると、エリオットが立っていた。
「どうかなさいましたか?殿下」
主に対してぎこちない感じが出ないように、ルカは極力これまでと変わらぬように振る舞っていた。
ルカは騎士だ。国と王に剣を捧げた存在。
エリオットは王太子、次代の国王に対して変な態度は取れない。
「……セルフィナのことを考えていたのか?」
「……はい。俺が悪かったんです。セルフィナの言葉を真面目に聞かなかった」
「それは私も同じだ。ナディアの心配を気のせいで済ませてしまっていた。そうじゃなかったのに……私たちは信じる方を間違えた」
「……はい……」
馬鹿な男だと自分でも思う。
「ルカ、タニアが死んだよ」
「っ!本当ですか!?」
「本当だ。信じられないのも無理はないが、あちらから知らせが届いた。まず間違いないだろう」
嫁ぎ先でタニアが死んだ。
死因は、一応病死と書いてあったが、本当かどうかは知らない。知る必要もないことだ。
肝心なのは、タニアが死んだという事実だけだ。
あちらには、タニアはこの国の王女ではあるが一度そちらに嫁いだ以上、たとえ離婚したとしてもこちらに戻す必要はないと伝えてあった。
噂では、国外に嫁がされたことを恨みに思い、毎日、呪詛のような言葉を吐いていたらしい。
夫も初夜には来たが、そこから先は放置していたようで、タニアの傍には侍女が一人だけ付いていた。その侍女もこちらからタニアに付けた者で、彼女の仕事はタニアの様子をエリオットに知らせることだった。
侍女は病死だと書いてきた。それが正式に発表される死因だと。
「タニアは病死した。もう誰もタニアの影に怯えなくてもいいんだ。……セルフィナに会いに行くか?」
「……いいえ。俺は彼女に、もう二度と会うことはないと言われた身です。いくらタニア王女が死んだとはいえ、彼女の言葉を聞くことなく守れなかった俺が会いに行くなんて出来ません。それにセルフィナの静かな暮らしを乱したくはないんです」
ルカの言葉にエリオットは痛ましそうな顔をした。だが、この機会を逃せば本当にルカはセルフィナに会えなくなる。
「ルカ、言おうかどうか迷っていたんだが、セルフィナに新しい婚約の、いや、もう結婚の話まで出ている相手がいるそうだ」
「……え……?」
エリオットの言葉にルカが呆然とした。
「相手は一年ほど前にスーシャ伯爵家に滞在していた隣国の伯爵だ。年齢は少し上だが、スーシャ伯爵家と同じように海上貿易に力を入れていて、取引きの為に訪れて出会ったらしい。セルフィナの事情を全て承知の上で求婚したそうだ」
「……うそ、ではないですよね」
「残念ながらな。あれからまだ二年しか経っていない。この国の貴族たちがあの事を忘れるには短すぎる時間だ。おしゃべり共にわずらわされるくらいなら、あちらの国に行くという選択肢もいいのかもしれない。だが、そうなると本当に二度と会えないぞ」
本当に二度と会えない。エリオットのその言葉にルカは衝動的に突き動かされた。
「すみません、殿下!」
そう言って走り出したルカの後ろ姿を見ながら、エリオットは小さく呟いた。
「あぁ、行ってこい。それがどんな結果になっても、彼女に会ってこい」
馬を走らせたルカがスーシャ伯爵家に着いたのは、翌日の夕方近くだった。
休憩を挟みながら、それでも今までで最も短い時間でここまで来た。
そのままの勢いで屋敷まで来たが、先触れもなく来た自分を入れてくれるかどうか、と思っていたら、ちょうどセルフィナの兄が出てきた。
「久しいな、ルカ殿。その様子だとセルフィナの事を聞いたのか?」
「お久しぶりです。エリオット殿下からセルフィナに結婚の話が出ていると聞きまして」
「ふ、それでわざわざここまで来たのか。元婚約者殿。まぁいい。会わせてやる」
「いいのですか!?」
「セルフィナにもいい機会だ。だが、もし妹が嫌がったらすぐに帰ってもらうぞ」
そういい機会なのだ、セルフィナのこの国における未練を断ち切る為の。ただ、それだけだ。
ルカに何を言われようが、セルフィナは己で決めたことを覆さないだろう。
ただ、あの事件の直後ではなく、こうして少し時間をおいた今だからこそ冷静に話し合えるだろうと思っただけだった。
そこにルカに対する気遣いは一切なく、ただ兄として妹の心を思ってのことだった。
「お待たせいたしました」
客間に入ったセルフィナの目に映ったルカは、あの頃とは違ってひどく暗い顔をしていた。
兄からルカが来ていることを聞き、会う会わないは好きにしていいと言われたセルフィナは、少し考えてから会うことにした。
「セルフィナ……」
長い前髪で隠しているが、彼女の顔には大きな傷が残っている。
いや、傷ついたのは、身体だけではなくその心もだ。自分たちの甘さが招いた結果だ。
「お久しゅうございます、ルカ様」
「……あぁ、その、もう傷は癒えたのか?」
「いくつか痕は残りましたが、傷口は塞がりましたわ。ですが、寒い時や雨の時などは痛みが生じます。面白いものですわね、もう傷口が癒えていても痛みだけは残っているなんて。大きな傷を負うこともある騎士の方々もこのような感じなのでしょうか?」
「そうだな。特に大きな傷を負った騎士たちはそう言う者が多い」
「まぁ、やはりそうなのですね」
穏やかに言っているが、それはあくまでも戦いを仕事とする騎士たちの話だ。本来、伯爵家の令嬢が身を以て知るはずのないことだ。
「すまない、本当にすまない」
目を合わせられず、うつむきながら謝罪をしたルカにセルフィナは穏やかに微笑んだ。
「もういいのですよ、ルカ様。あの時に謝罪はいただいています。ルカ様からだけではなく、王太子殿下にも妃殿下にも、それに国王陛下からもいただきました。もう謝罪の言葉はいりません」
「あ、あぁ」
謝罪の言葉はいらない。きっぱりと言い切られてルカはどうしようもない気持ちになった。
「それよりもルカ様。本日はどうなされたのですか?」
スーシャ伯爵家に引きこもった自分は、二度と会うことがないだろうと思っていただけに、突然の訪問で驚いたのは確かだ。
「……君に、結婚の話が出ていると聞いて」
「まぁ、もうそちらにまで話が流れているのですか?早いですわねぇ」
否定することなく困った顔をしたセルフィナに、ルカは懇願するような瞳を向けた。
「本当なのか?セルフィナ、うそではないのか?」
「本当ですわ。私、もうすぐ隣国に嫁ぐことになっております」
どこまでも穏やかに話すセルフィナに、ルカは「行かないでくれ!」と言いたい衝動に駆られた。だが、それは言ってはいけない言葉だ。もうルカにセルフィナの行動を止める権利はない。
だがそれでもルカは、ほんのわずかな、それこそ爪の先くらいの可能性に賭けて、言葉を紡いだ。
「……行かないで、くれ!」
握りしめた拳に爪が食い込んでいるのが分かる。だがこれくらいの傷が何だ。こんな傷はすぐに消える。この傷と引き換えにセルフィナが残ってくれるというのなら、一生、自分で傷つけ続けたっていい。
必死の形相のルカと対照的にセルフィナはちょっと困った顔をするだけだった。
「ルカ様、申し訳ありませんが、私はもうあちらに行くと決めております。旦那様となるコンラート様は、私の事情も全て承知の上で求婚してくださいましたし、正直、この国では私の結婚は難しいと思っております」
「それは、俺がセルフィナと!」
「ダメですわよ、ルカ様。それ以上はおっしゃらないでくださいませ」
ルカの言葉に被せるようにしてセルフィナが遮った。
「お兄様は一生ここにいていいとおっしゃってくださいましたが、私がこの国にいたくないのです」
「……セルフィナ……」
セルフィナはこの国に失望しているのだ。
タニアを甘やかして止めなかった王家に。何を言っても動かず、その身と心を傷つける結果をもたらした元婚約者に。そして、今もなお、有ること無いこと好き勝手に噂して見下そうとしてくる貴族たちに。
「あちらに行っても多少は噂されるでしょうが、コンラート様がおっしゃるには、あちらでは以前よりタニア王女に関してあまり良い噂を聞かなかったそうです。私はタニア王女の被害者として同情を買っているそうなので、心配はされても見下されることはないとのことでした。万が一、見下すような方がいたら、コンラート様が何とかしてくださるそうですわ」
それは、ルカには決して出来ないことだ。この国には、セルフィナを傷つけようとする者が多すぎる。
スーシャ伯爵家の繁栄やルカのことをよく思っていない者たち、王家を糾弾したい者たちにとって、セルフィナは絶好の生贄になる。そこに彼女の意志は一切、反映されない。
「はっきり言いますと、ルカ様では無理だと思います。ですからもうお帰りください。私のことは忘れてください、と言いたいところですが、お互い、忘れることなど出来ないでしょう」
「あぁ、忘れることなど無理だ」
「はい。私もです。ですが、生きていれば新たな記憶が積み重なっていきます。たとえ傷口が開いたままだったとしても、いつか遠い昔の思い出になるように願っています」
思い出す度に苦い思いが湧いて出てくるかも知れないが、一生忘れることなど出来ないだろう。
「……分かった。セルフィナ、どうか幸せになってくれ」
「そうなれるように、努力はするつもりです」
最後にセルフィナの顔をしっかりその目に焼き付けてから、ルカはとぼとぼと帰って行った。
「あれが君の言っていた元婚約者か」
「コンラート様、見ていらしたんですか?悪い方ですね」
「一応、これでも君の夫になる男だからね。興味があったんだ」
コンラートはセルフィナよりも幾分か年上の男性で、騎士のルカと張るくらいの体格の持ち主だった。
海上貿易を主としているので、一通り船に関することをやっていたら、自然に体格は良くなったそうだ。
「俺のことなんて気にしないで、戻りたかったら戻ってもよかったんだよ」
「私、浮気はしませんわ。コンラート様に嫁ぐと決めた以上、やり抜きます」
「立派な政略結婚なのにな」
「政略結婚というよりは、傷の舐め合い婚です」
コンラートにはかつて愛する女性がいた。
恋人だった彼女は分家の男爵家の娘で、そのままいけば将来は結婚をして、という話になっていたが、彼女は海賊にさらわれてそのまま帰らぬ人となった。
そのまま何年経とうが、彼女のことが忘れられず、結婚をする気は一切起きなかった。それは、彼女の敵である海賊共を殲滅しても変わることのない想いだった。
結婚し子供が生まれたら、子供を愛することは出来ると思う。
だが、妻となる女性を愛することは出来ない。
いくら最初は愛のない結婚でもかまわないと言ったとしても、やはり夫となる男性の心に違う女性が住み続けているのを良しとする女性はいないだろう。そう思っていたから、自分の後継者には分家から養子でも取ろうと思っていたところだった。
そんな時にセルフィナと出会った。
初めて会った時、セルフィナは身も心もひどく傷ついていた。
その姿にコンラートは、恋人だった女性の姿を重ねた。
彼女の亡骸は、セルフィナと同じようにいくつもの傷があった。
陵辱され、傷つけられて死んだ恋人。それでも生き残ったセルフィナ。
セルフィナの境遇を知り、コンラートは自分の恋人の話をした。
セルフィナが今でもルカのことを愛していると知った時、彼女に結婚を申し込んだ。
自分の心には恋人が住み続け、セルフィナの心にはルカがいる。
お互い心の中に大切な人がいるのに、現実にはもう結ばれることはない。
ただ、その寂しさを紛らわせる為に、身を寄せ合い、肌を重ねた。
「傷の舐め合い婚か。身も蓋もない言い方だね」
「ですが、コンラート様とは本音で語り合えますから」
「あぁ、君は言葉足らずで彼に失望したんだっけ」
「今は、あの時もっと強く言えばよかったのかな、と思っています」
「そう。俺たちの間に熱烈な愛情というものはないけど、親近感はあるから、それなりに上手くやっていけると思うよ」
「そうですね。ルカ様に、幸せになる努力はすると誓いましたので、何とかはしようと思います」
「俺、君の元婚約者の心を軽くする為に利用されるんだね。どんと来いだよ」
コンラートは、セルフィナに口づけた。
この口づけに熱くなることは一生ないとお互い分かっていても、それでも何かを求める時の最初の合図として口づけをしていくのだろうと二人は理解していた。