前編
読んでいただいてありがとうございます。
ベリア王国は、二年前、一人の少女を犠牲にした。
少女の名前は、セルフィナ・スーシャ伯爵令嬢。
近衛騎士、ルカ・イストの婚約者だった。
ルカは代々軍人家系のイスト伯爵家の嫡男で、王家の兄妹とは幼馴染という間柄だった。
そのため、王太子である兄のエリオットの護衛をしていることが多かった。
対して、セルフィナの実家であるスーシャ伯爵家は、海沿いに豊かな領地を持ち、貿易に力を入れている伯爵家だった。セルフィナは伯爵家の令嬢として申し分のない教育を受け、父や母、兄の手伝いをする優しい娘だった。
セルフィナとルカが出会ったのは、スーシャ伯爵家が王都に来た時に開かれた夜会だった。
父親同士が知り合いで、その縁で紹介されて話をしてみたら気が合ったので、そのまま婚約したのだ。
激怒したのは、妹姫だった。
元々、タニア姫は、自分が中心にいないと気が済まない性格だった。だが、タニアが気に入らない人間を排除するやり方は、暴れたりわがままを言ったりという分かりやすいものではなく、おっとりと微笑みながら、遠回しに誰かが自ら王女のためと称して動くようにしむける方法だった。
この方法ならば、もし犯人が捕まっても言質を取られていないタニアは逃げ切れる。
年頃になるまで、そうやって気に入らない人間を冤罪に追い込んだり、他の誰かからのいじめで姿を現せなくなるように仕向けていた。
兄やルカなど親しい人の前ではけっしてそんなことは言わなかったタニアを、周りの人間は可愛がり、一部でされていたタニアの噂を根も葉もないものだとして相手にしていなかった。
その歯車が少しずつずれ始めたのは、エリオットの結婚だった。
王太子である以上、妻を娶り子を儲けるのは当然のことだ。彼の妻は王太子妃となり、この国では母である王妃に次ぐ二番目の地位に就く女性となった。
選ばれたのは、隣国の王女、ナディア。
美しい王女に一目で心を奪われたエリオットは、妻に深い愛情を注いだ。
タニアは、それさえも気に入らなかった。兄の一番は妻。妹である自分ではない。それに彼女は隣国の王女だ。生まれも自分と同等。それでいてこの国では、自分より地位が高い女性。
気に入らないが、タニアにはまだルカがいた。
兄の元に行けば必ずいるルカにタニアは密かに恋をしており、伯爵家というのは気に入らなかったが、自分が嫁いで爵位を上げればいいと思っていた。
だが、ある日、ルカはスーシャ伯爵の娘というタニアにとって取るに足らない者と婚約をした。
ちょうどその頃、ナディアの妊娠が発覚し、タニアは危機感を覚えた。
このままでは、自分はどうなるのか。
ナディアの子供が生まれ、ルカさえも見知らぬ女に取られる。
それは、タニアにとって許せることではなかった。
一方、ナディアは、タニアを危険視していた。
夫であるエリオットに言っても気のせいだよと笑うだけだったが、タニアに見つめられるとなぜか気分が悪くなり、憎まれているのではないのかと思えた。
エリオットも彼の護衛のルカも、ナディアの言葉に困惑しているようだったが、ナディアは己の直感を信じていた。そこで、情報を集めたら、一部の人間たちがナディアと同じようにタニアに危機感を持っていることを知った。
決して、心を許すようなまねはしてはいけない。
油断してはいけない。
タニアに対し表向きは普通に接していたが、ナディアは常にタニアを見張っていた。
そして、ナディアの妊娠が発表された時、そっと見たタニアの表情が一瞬まるで悪魔のように見えたことで、さらに警戒を強めることにした。
だが、ここで危険にさらされているのは、自分だけではなくお腹の子供も一緒だ。
ナディアは、どうしたら良いのか一生懸命考えた。
そして、ルカの婚約が決まった時、これを利用しない手はないと思った。
タニアがルカに恋慕の情を持っていることは分かっていた。
ならば、タニアの憎しみをその婚約者に全面的に受け持ってもらえばいい。
ナディアは、タニアの憎しみを受けることになるセルフィナがどうなるのかなんてことは、一切考えていなかった。
タニアはこの国の王女、セルフィナはただの伯爵家の娘。
ナディアには隣国の後ろ盾と王太子妃という地位があったが、下位の伯爵家の娘に対して王女であるタニアが何をするか考えもしなかったのだ。
ただ、自分と子供の安全のために、犠牲にした。
方法は簡単だ。
タニアにとって、兄を取られたのは悔しかったが血の繋がりのある兄の関心よりも、恋心を抱くルカに対する執着の方が強い。
ならば、集まってしゃべる時などに、わざとセルフィナにルカとの話題を振ったり、セルフィナが何か言わなければいけない状況になるようにしたりして、自分よりもセルフィナにしゃべらせた。
結果、ルカとの婚約が破談になり、セルフィナの身と心だけが傷ついて終わった時、初めてナディアは己の考えがいかに危険だったのかということを知った。
エリオットは、妹に対する妻の怯え方が尋常じゃないことに気が付いてはいた。
だが、タニアは可愛い妹で、今まで問題を起こしたことがない。気のせいだとナディアには言ったが、妊娠した妻を安心させるためにもタニアを遠ざけた方がいいのかもしれない、とは思っていた。
そこで父や母と図って、そろそろタニアにも婚約者を探そうと動き出した。
タニアがルカに恋心を抱いていることは知っていたが、ルカに全くその気はなく、エリオットも国内ではなくて国外に嫁がせて同盟の強化などをしたかったので、その方向で人選をしている最中だった。
そんな時、ルカが婚約をした。
相手はスーシャ伯爵家の娘。
スーシャ伯爵家は、国内でも随一の貿易港を持ち、各国とも強いパイプを持っている。国内の権力争いには加わらず、あくまでも中立を保っている伯爵家の評判は良かった。
ルカが婚約したのは、その家の長女。一度、挨拶を受けたことがあったが、兄や両親の後ろにそっと控えているような大人しい女性だったと記憶していた。
『彼女といると穏やかな気持ちになれるんですよ』、そんな風に優しい目をして言うルカを初めて見たので、大切にしろよと祝福した。
タニアがどうするのか気になったが、彼女も祝福の言葉を述べていたので、ルカが婚約したことで自らの想いを吹っ切ったのだろうと勝手に思っていた。
妊娠したナディアが、しばらくの間、ルカの婚約者に話し相手になってほしい、と願ったのでそれくらいならと気安く請け負った。
ルカとセルフィナに打診すると、両者とも承諾してくれたのでさっそくセルフィナを王城へと招いた。
ナディアの傍で穏やかに笑う彼女は、確かに癒やしを与えてくれる存在だった。
ナディアに会いにいけば一緒にルカも付いてくるので、二人の仲を深めさせる良い機会になっただろうくらいにしか思っていなかった。
それが、タニアの憎悪を煽ることになっているとは知らなかった。
兄や憎い兄嫁が可愛がり、そして愛するルカの婚約者になった平凡な少女。
しょせん、伯爵家の娘。この国の姫である自分は、彼女に何をしてもかまわないとタニアが思っていたのだと後に知った。
ナディアが、王宮にセルフィナを招いたのは、自分たちの安全のためにタニアの憎悪を全て受けさせるためだと泣きながら告白して、己の罪深さを知った。
何も気が付かず、知ろうともしていなかったのは自分の方だった。
妹だという理由だけで信頼し、妻が願ったから叶え、その結果、一人の少女を傷つけ、友人の婚約が破棄された。
企みが成功したことに満足した顔で笑い、自分が遠い国の王の何番目かの妾妃として嫁ぐのだと知ったタニアの絶望的な顔は忘れられない。
残ったのは、後味の悪さだけだった。
ルカと婚約した時、彼女は恥ずかしそうに、でも嬉しそうにしていた。
自分も嬉しかった。
同じ結婚をするのでも、やはり気の合う女性の方が良い。幸い、セルフィナとは本の趣味などで気が合い、貿易を主にする家柄なので彼女の知っている外国の話などを聞いているうちに、淡い気持ちが芽生えたのは確かだった。
婚約した時は、嬉しかった。セルフィナを大切にしていくと誓った。
主であるエリオットから王太子妃の話し相手になってほしいと打診された時は、将来、伯爵夫人として社交をしていく彼女と王太子妃が繋がっていれば有利になることも多いと思って承諾した。
セルフィナもそれを理解していて、二人で話し合って決めた。
それに何より、王宮でもセルフィナに会えるという思いが大きかった。
タニア王女がルカに恋心を抱いているというのはエリオットから聞いていたが、ルカにその気は一切なく、こうしてセルフィナと婚約した今、タニアも誰かと婚約するのだろうと思っていた。実際、エリオットがタニアの婚約者を探しているのも知っていたので、その程度の認識だった。
まさか、セルフィナに危害を加えるほどとは思ってもいなかった。
王太子妃の話し相手として王宮に上がったセルフィナは、しばらくするとルカにタニアのことを聞いてきた。
ルカは、タニア王女は幼馴染だよ、と言い続けた。だが、セルフィナはどうもタニア王女とルカでは認識が違う気がする、とぽつりと漏らしていた。
『心配ない、問題ない、気のせいだよ』
セルフィナがタニアのことを相談するたびにそう言っていたら、いつしかセルフィナの口からタニアの名を聞くことはなくなっていった。
その時点で気が付くべきだった。
セルフィナがルカに期待することを止めたのを。
期待しないから頼らない。頼る気がないから何も言わない。
いつからか、エリオットとナディアが会う時にセルフィナはずっと黙っていて、しばらくするとタニアが現れるようになっていた。タニアが昔話をする度にエリオットとルカは、タニアが気を利かせてナディアとセルフィナが知らない幼い頃の話をして盛り上げてくれているのだと思っていた。
『あれはただ単に、自分の方があなた方のことを昔から知っていると言いたかっただけです。優位に立っているのだと知らしめていただけですよ。私たちがいても、ずっと三人で盛り上がっていたでしょう?』
『すまない、そんな風に思っていなかった。どうして言ってくれなかったのだ?』
『何度か相談しても貴方の答えはいつも同じでした。そんな相手に何を言えと?』
事件後、セルフィナにそう言われて、ルカは確かにその通りだと認めた。今思い返せば、自分たちが昔話で盛り上がっている時、王太子妃とセルフィナは、曖昧な表情しかしていなかった。
『それでも貴方はいつも私に話しかけました。それがタニア王女をさらにいらだたせていたのですよ。自分といて共通の昔話をしているのに、なぜそんな女を気にかけるのか、と』
セルフィナは傷ついた左目から血の涙を流しながら、そう言っていた。
「セルフィナ、そろそろ窓を閉めるよ」
優しい兄の声にセルフィナは頷いた。
その左目には額から目の下くらいまで大きな傷痕があった。
幸い、視力を失うという事態は免れたが、その傷痕はとても目立つ。
だがセルフィナは、物語に出てくる海賊みたいで格好良いでしょう?と言って隠すこともなく堂々としていた。
「そろそろ雪の季節ですね、お兄様」
「そうだな。この辺りはそれほど降らないが、山の方の町や村には注意するように伝えておこう」
スーシャ伯爵領には、貿易の港町と農耕の山町があり、山町は雪が積もる場所が多い。
毎年、雪の季節が近付くと、各町や村に一冬を越せるだけの備蓄を運んでいた。
ひどい時だと、しばらく行き来が出来ないくらいに積もるので、領主としてその辺りには気を配っている。
キリアムは窓を閉めると、妹の額に触れた。
「痛くない?寒くなると傷痕に痛みが走る人もいるんだよ。セルフィナは大丈夫?」
「ふふ、大丈夫よ、お兄様。私、そろそろ本当に海賊にでもなろうかしら」
「セルフィナじゃ無理かな。剣は使えないし、船酔いもするだろう?」
「気合いと根性で何とか?」
「ならないよ」
くすくすと兄妹で笑い合う。
キリアムがセルフィナの“傷”について、気にかけてくれているのを知っていた。だから、セルフィナからこうして冗談っぽく言い出したのだ。キリアムは、セルフィナの言葉に合わせて優しく返してくれる。
兄は、セルフィナの言葉を真剣に聞いてくれ、ちゃんと考えてくれる。
それがルカにもあったなら、と思わなくもないが、もう遅い。
傷物になってしまったセルフィナは、スーシャ伯爵家から出ることはないだろう。
兄に、領地の片隅で生涯過ごすことを許してほしい、と言ったら大激怒された。
ふざけるな!妹をそんな片隅にやるような情けない兄だと思うな!お前はこのスーシャ伯爵家の娘だ。この屋敷で好きなように生きればいい!
セルフィナには王家から莫大な慰謝料が支払われたので、その気になればどこででも生きていけるが、傷ついたセルフィナに必要なのは家族だと言って、兄は一緒にこの屋敷に帰って来てくれた。
優しい兄だ。セルフィナは兄に感謝をしていた。