二〇一〇年十一月三日。
俺が初めて見たそいつの姿は、思っていたよりも若かった。
目のあたりに包帯を巻いている点さえ除けば俺よりもまともに見えるだろう。
ポロシャツにジーンズというラフな格好ではあるが、髪型も俺のようにどうにでもなれとバサバサに伸ばしてしまうのではなく短く揃えてあるのだ。
名前はピリオドと呼ばれているのだと聞いている。
そいつは街中を文字通り徘徊していた。
ひとびとや街路樹、障害物をするすると避けていく。
奇異の目で見るひともあるが気にしていない様子だった。
気にしていないというよりは見えていないというのが正しいのかもしれない。
白菊美華を捜してさまよっている。
俺は白菊美華が、この世界に発生していないという事実を知っていた。
もう役目を終えてしまったのだ。
ピリオドを助けられず、アカシックレコードをなくし、〝正しい歴史〟の為に働けなくなった白菊美華に存在価値はない。
消失してしまった後はピリオドが役目を継ぐ手筈だ。
だが。
ピリオドは廃人と化した。
本体の亡くなったピリオドは、宮城創の肉体に依存せざるを得なくなる。
すべての記憶。
たくさんのひとびとの視点が手に入れた過去の映像。
過去が書き換えられる前後。
何よりも、〝正しい歴史〟から外れてしまうような出来事。
そのすべてが宮城創の脳になだれ込んできてしまい、宮城創としてのアイデンティティは完全に崩落してしまった。
元々は本体が眠りの中で分散して保存していたのだが。
白菊美華を失ってしまったことも大きいだろう。
そう、ピリオドは、夢を見続けている状態だった。
まともに覚醒することなく不慮の事故に巻き込まれて死んでしまったのだ。
宮城創という外部と接触する為の肉体を手に入れた経緯も、決して過去を〝なかったこと〟にしたのではない。
他の世界の宮城創に関する記憶を、この世界で宮城創と関わりのあるひとびとの記憶と取り替えてしまっていた。
多少の齟齬が生じるのは誤差範囲。
ひとびとの記憶が歴史を作るのであるから、それが〝正しい歴史〟として確定されるのは必然的だった。
アカシックレコードを白菊美華がなくしてしまったのは、ピリオドが亡くなってしまったのと同時。
それはなぜか。
俺にはわかっている。
すべての因果を生み出す為に。
そういう設定にしておいたからだ。
この〝正しい歴史〟の世界を成り立たせる為に。
滅びた世界に投げ出された。
大切なひとのいない。
生物が何一つとして生きていない。
無意味だ。
どうして俺が生かされているのかわからなくなってくる。
俺だけが動き回っていた。
あらゆる設備はしばらく働いていたが、何十年もすれば老朽化して記念碑になり果ててしまう。
何度も何度も死のうとして、その度に失敗していった。
どうして生きている?
繰り返す疑問と、すり減っていく精神。
海の中へ飛び込んだ。
沈んでいった俺はいつしか浅瀬に打ち上げられている。
高いところから飛び降りた。
失った意識はすぐに元通りになってしまう。
血が出てきてもなんとも思わなくなる。
すぐに止まるからだ。
俺の中でだんだんと〝死〟の定義が揺らいでいく。
命は尊い。
生きることの反対が死ぬことだとすれば。
生きている人間はいつか死ぬのであれば。
俺はもはや人間とは言えなくなってしまっている。
生命かどうかすら怪しい。
動き回り、ただ、時が過ぎるのを待ち続けていた。
そして。
水の中に生き物を発見した時、俺は涙を落としてその小さな小さな原始生命に感謝したものだ。
ようやく世界が再生を始めて、そこからは早かった。
とても楽しい毎日だ。
俺以外に、この世界に何かが居る。
それだけで。
たったそれだけで。
また蘭に会える日が近付いているのだとわかる。
やがて人類が生まれた。
文明が発達してくる。
俺を見て驚き、俺のことをクリスと崇め奉る民族がいつだったかに現れて、以降俺はクリスと名乗るようになっていく。
宮城賢はあの時に死んでしまったから。
宮城賢である俺は大昔に亡くなった。
今ここに居るのは抜け殻だ。
無限に続く生命を宿した人形だ。
俺は死なないから、お前たちのように、主観が他の世界に逃げ出すことがない。
だから、俺は蘭が死んでしまった世界と地続きの未来で足掻く運命に陥ってしまった。
「ピリオド」
踏みとどまる。
きっと、そう呼ばれたのは久しぶりだろう。
白菊美華以外は、彼のことを宮城創と認識していたから。
ピリオドと呼ぶのは白菊美華しかいない。
俺のほうを向いた。
自らの手で潰してしまった両目では、俺の姿を確認することは出来ない。
だが、ピリオドならば、他の人間の視界から俺を補足することが出来る。
たくさんの目。
一挙に見つめられた。
静寂の中で物音を立ててしまったかのような。
多方面から俺を眺めて、ピリオドは、「クリス、だったっけね」と呟いた。
過去の記憶の部分から、俺に関する記憶を引きずり出して名前を探す。
もしかしたら俺の記憶にも干渉していたかもしれない。
俺の持っているアカシックレコードは、この〝正しい歴史〟の世界のアカシックレコードではなく、俺が宮城賢として存在していた頃に、その世界の白菊美華が所有していたものだ。
この世界から見れば遠い過去の話になる。
そこには既に滅亡してしまった世界の一部始終が書かれており、この世界に関しては一切の記述がない。
だが、〝正しい歴史〟のアカシックレコードには歴史が傾いてしまった時に、それがどれだけ〝正しい歴史〟から外れてしまったかがわかるように、いかなる場合にも異なった歴史が示唆されていた。
この世界にあったアカシックレコードは、言うなれば完全版だ。
すべての世界の可能性を網羅し、この世界の秩序を保つ為の礎とする。
だから、白菊美華の存在価値を高める為にありとあらゆる物を時空さえも越えて移動させる力を付加されていた。
何もかもは〝正しい歴史〟の為に。
アカシックレコードが破壊されようものならばその者を破滅させるように設定したのも、因果の為だ。
「設定……」
俺は滅び行く世界での白菊美華からアカシックレコードを受け取り、すべての因果を生み出す役目を与えられた。
その為の不死身だ。
この世界を一から設定し直した。
白菊美華やピリオドの言うところの〝正しい歴史〟を導く為に。
その〝正しい歴史〟のお手本のアカシックレコードを生み出す為に。
ピリオドは口を半開きにしている。
何を言っているのだかわからない、とでも言いたげだ。
「すべてはピリオドという存在が必要だったからだ。無数に存在してしまう世界の記憶を集め、その一つ一つを取捨選択し『正しい歴史』とする。お前の存在そのものがアカシックレコードだ」
世界は一つではない。
元は一つであったかもしれない。
世界にはいろんな人が居て、基本的にはその世界にその人はたった一人しか居ない。
その世界に産まれていつしか死んでいく。
生きているなかで人生のところどころで選択していくと、必然的に選ばれなかった世界というのが生まれてしまう。
この選択っていうのは別にたいそうな話じゃなくて、たとえばおなかがすいたとする。
冷蔵庫のなかにあるてきとうな食材でやきそばを作ってもいいし、カップやきそばにお湯を入れてもいいし、やきそばに限らずおかしを食べてもいいし、我慢して何も食べなくてもいい。
いくつでも選択肢は存在するし、選んだ行動によって結果はいくらでも変わる。
いくらでも変わるけども選ぶのはたった一つだ。
選ばれなかった行動をしていた自分というのが何人も存在する。
こうやって違う世界がどんどん生まれていくのだ。
「俺は君を本の中に封じ込まなくてはならない。時空を移動する力を設定し、二〇〇五年九月九日に飛んで、白菊美華に届けるんだ。こうしてすべての因果が完結する」
今は二〇一〇年だから。
二〇〇六年に起こる出来事がわかっている。
要するに二〇〇六年六月六日に宮城蘭が死ぬことが確定していなければ、今の未来はあり得ない。
赤ん坊の器では夢という手段を用いて記憶を分散させてしまうから、宮城創という別の器を用意する必要性があった。
この世界の〝正しい歴史〟の為に。
俺は設定を生み出し続けていた。
宮城創が神佑高校に入るように仕向けたのも俺だ。
白菊美華はいつか宮城創をピリオドが乗っ取ることをアカシックレコードによって知っていたから日記帳を渡したようだが。
そして。
宮城創としてのピリオドはアカシックレコードに不信感を抱かなければならなかった。
アカシックレコードを破壊させなければならなかった。
そうすることで白菊美華は白菊美華としての機能を完全に失う。
ピリオドの本体は死ななければならなかった。
宮城創の肉体では記憶を保持することが出来なかった。
そうすることでピリオドが宮城創としての地位を完全に失う。
崩壊する。
滅亡へ向かう。
太古の昔のように。
揺れ動く。
「君はアカシックレコードになることで、もう一度白菊美華に会うことが出来る。肉体に依存する苦しみや悲しみからも解放されるだろう」
「嫌だね」
ピリオドは力強く断る。
俺にはまったくもって理解出来ない。
白菊美華にしても。
ピリオドにしても。
どちらも〝正しい歴史〟を導く為、その役目で生きてきた。
それなのに。
役目を果たす為の道具を生み出そうとしているというのに。
それを、断る。
「僕はみんなが幸せになれる世界の為に、アカシックレコードを破壊しようとしたのにね」
幸せ?
みんなの幸せ。
潰れてしまったはずの目から、涙を流しながら。
同情を誘う涙なら見飽きた。
どの時代にも、俺が不死身であることを頼ってくる者が居たものだ。
「アカシックレコードさえなければ、宮城蘭……そう、僕の母親が死んでしまうことも、なかった。白菊美華が殺してしまうこともなかった。みんなみんな幸せだったはずだしね」
この世界の因果は。
あの消えてしまった〝正しい歴史〟のアカシックレコードは。
もしかしたら。
もしかすると。
別の世界からやってきたのかもしれない。
どこかの世界の俺がこの世界の白菊美華に届けた。
その可能性は十分にあり得る。
俺がこだわりすぎているだけ、か。
「それが、僕で、アカシックレコードである僕のせいなのだとすれば、僕はどうすればいいのかね?」
世界に終止符を打つ為に。
とはよく言ったものだ。
「僕が死ねば、僕の主観は次の世界の僕に移る。アカシックレコードという設定のない、『正しい歴史』にこだわらない、平和で幸福な世界を、クリスには造って欲しいね」
「俺に丸投げか。ずいぶんなご身分だ」
「僕は不死身じゃあないからね」
ピリオドは笑っている。
目まで笑っているかどうかは判断出来ない。
それが俺の息子の望みなのだとすれば。
これまでの何十億年かをまた繰り返して、もう一度、蘭に会う。
世界の設定が正しいのなら、また俺と蘭の子どもとして生まれてくるはずだから。
それが何十億年先かは大体しかわからない。
たぶんまた、西暦二〇〇六年六月六日に生まれてくるだろう。
最初の最初のように時間軸がぶれることがなければ。
今度は死んでしまったり無理矢理引きずり出されたりはされないよう約束する。
「また会おう」
そういえば。
まぁ、心配はしていないが。
一つだけ気になるところではあった。
ピリオド自身は俺が父親であると知っているのだろうか。
すべての世界の記憶を把握しているのだから、たぶん、わかってはいるだろうが。
俺はあいにくひとの記憶を読むことが出来ないのでわからない。
そういう設定を付け加えておくといいか。
これ以上頭がこんがらがってもいけない、か。
この世界に取り残された俺は考える。
早く世界が終わって欲しいとは願わない。
多くのひとびとの夢を破壊してしまうことだから。
ゆっくり待ち続けるしかない。
遠く遠くの空に、流れ星が一つ、見えた気がした。




