二〇〇六年六月六日
その日は二〇〇六年六月六日である。
と、この日記を書くにあたって白菊美華から教えられた。
彼女が僕を連れてきた最初の日付である。
神佑高校でも、宮城創が転学してくる前に居た高校でもない、見慣れない校舎を見下ろした。
小高い丘の上。
曲がりくねった階段状の道。
僕と白菊美華は宙に浮いている。
とは言ってもそこまで高くはない。
桜の青々とした葉に直接触れられる程度の距離感である。
僕が驚いて手を離そうとすると、より引き寄せられた。
「墜ちてもいいんですか? 別にこの高さなら骨折程度で済むでしょうけれど」
できれば痛い思いはしたくない。
この時は。
深く意味を考えなかった。
ただ、僕は階段を時折休みながら登っていく女の子に気を取られて、じっと見つめる。
全体的に大きい。
直接的に言うなら太っている。
特におなか周りが見ていられない。
僕はそのひとに見覚えはなかった。
だが、白菊美華の表情がとても険しかったので、訊こうにも躊躇われる。
校舎まであと何段か。
気付けば僕は彼女を応援していた。
授業に遅刻してしまっては可哀想だと思うぐらいには。
しかし、もうひとり居る。
校舎を背にして。
白菊美華が。
「あれは過去のわたしです。現在のわたしとは切り離して考えてください」
僕が二人を見比べていることに気付かれてしまっていた。
ずいぶんである。
過去のわたし。
あの少女に何の用事があるのか。
通せんぼうしているみたいではないか。
しばらくして、過去の白菊美華が口を開いた。
「正しい歴史のために、宮城蘭、あなたは犠牲になります」
現在と変わらない。
むしろ、相手にぎりぎり伝わる程度の声量で、難解な言葉を並べていく。
「あなたはここで死んでしまう。でも、死ぬことは別におそろしいことではないのです。わたしとは違う世界にあなたが移動する、それだけです」
無数にある世界のどれかひとつ。
世界は選択によって分岐し、分岐した数だけの世界がある、というのが、この世界の設定らしい。
道が二手に分かれていたとして、右に行くか左に行くか、どちらかを選ぶだけでも、結果は変わり、世界が分岐してしまうのである。
だから、この世界で宮城蘭が亡くなっても他の、死ななかった場合の世界に彼女の主観が移動する。
ひとりの人間はその世界ではひとりしかいないが、他の世界を見れば無数に存在するもので、死を恐れることもない。
というのが白菊美華の話である。
どこまでが事実なのかはまだ死んだことがないのでわからない。
「美華ちゃん、もうやめよう」
宮城蘭の悲しげな、どこか諭すような、そんな声が聞こえる。
しかし、白菊美華はその声が聞こえなかったかのように、表情を変えない。
か細い声で、「ごめんね」と呟いた。
その声は僕の隣に居る現在の白菊美華と同調しているように見えて、僕は身震いしてしまう。
と、宮城蘭が次の言葉を発しようとした瞬間だった。
言葉は風になって消える。
少女の身体が後頭部から転げ落ちていく。
あ、と思わず声が漏れてしまった。
僕は手を伸ばそうと、必死に白菊美華から離れようとしたが、まったく動けない。
ひとが、死ぬ?
僕は直接的に過去へ干渉し、未来を変えようとすることが出来ないようになっている。
それなのに白菊美華と同等の価値を見いだされているのはなぜだろうか。
僕は過去の映像を見ることは出来る。
ただし、それは現在と地続きになっていなければならない。
うっかりそこで過去を変えてしまえば、現在どうしてそのような過去の映像が見られるのかの理由がつかなくなってしまう。
僕はあくまでも主観であり、白菊美華のように傍観することが出来ないのである。
ただ、その過去を完全に〝なかったこと〟には出来てしまう。
宮城創の過去を塗り替えて、今の僕としてしまったように。
それはアカシックレコードで観測出来る。
現在に居てはいけないモノを過去の時点から消し去ってしまうのが僕の能力であり、役目である。
だから、僕は宮城蘭を助けられない。
この時点で宮城蘭は、もしかしたら助かったかもしれない。
救急車を呼んだり、適切な処置を施したりすれば一命を取り留めただろう。
意識を失っているだけであった。
過去の白菊美華が近寄っていく。
倒れている宮城蘭の腹部に手をおいた。
皮を引き裂いて、中から何か赤黒い物体が出て来る。
僕は目をそらせなかった。
吐き気が喉元まで迫り来る。
赤黒い物体が赤ん坊であると気付いたのは、その物体が大声で泣き始めてしまってからであった。
何をしているのか。
へその緒を引きずり出し、繋がった胎盤を肉体から剥がす。
白菊美華は顔面蒼白で、唇の端をわなわなと震わせて。
泣いていた。
赤ん坊を取り上げて。
「……もうやめよう」
誰にともなく呟いた。
世界は再び沈黙し、また加速をはじめ、時間を元に戻していく、誰にも止められない大河の流れは悠々と、本流に沿って大雨に重なって、僕と僕の見境をつけなくさせてしまい、僕が目を覚ましそうになるので、低いところから世界を見つめ直し、不満を訴えて、解決するのを待ち続けてしまうのだから、ぐおんぐおんといううなり声も、きっと幻聴であった。
僕は地面に手をつけて、屈んでいる。
気持ち悪さでどうにかなってしまいそうだった。
気付けば現在に戻ってきていて、そこは僕の家である。
近くに白菊美華が立っていた。
人殺し。
こいつは人を殺した。
殺人者。
「あの時の赤ん坊が、ピリオド、あなたです」
は?
ぽかんと、なった。
飲み込むのに時間がかかる。
僕は宮城創。
宮城創であるはずである。
今、神佑高校の二年生。
先ほどまで居たのが二〇〇六年だとするならば計算が合わない。
僕は何歳?
「思い出してください。あなたは元々、ひとびとや生き物の記憶の中を飛び回る存在でした」
その頃の記憶はもう忘れてしまった。
不安定な存在であった僕が居たという事実はもはや日記の中でしか明らかにならない。
疑問ではあった。
僕ではない宮城創本人が居る時に、僕はどこに居るのだろうか、と。
僕が宮城創として存在すると理解出来るのは日記という記録のおかげであり、その他のひとびとや生き物であった頃の記憶は記憶の中のみである。
忘れてしまえば記憶は曖昧な存在で、とても頼りない。
「元々居た宮城創の存在はあなたによって上書きされました。つまり、あなたの望み通り、あなたは宮城創となったのです」
それは、わかっている。
でも、僕は宮城創ではあるけれど、宮城創ではない。
「あなたが今、見ている現実は、あなたにとっては夢の中だけど、現実です」
僕の家の中に。
見覚えのない物がある。
それは僕の持っている物ではない。
僕の所有物ならば、持ち主の僕はどこへしまっていたのだろう。
「だから、あなたが目を覚ましたあとの現実も、この世界なのです」
白菊美華が男の子を抱き上げる。
ベビーベッドの上で眠っていた。
一歳と、少しぐらいの。
「あなたはこの世界でもっともか弱い存在として目覚めるよりも、ある程度成長した個体の姿形を借りたほうが遥かに我々にとって有意義です」
つまり、僕は。
僕は夢を見ている。
夢の中で様々な生き物の記憶を眺めて、たまに目覚めてはよちよちと歩いていたのだろう。
未完成の僕は完全になるために能力を与えられた。
似たもの同士なぼくを見つけ出し、奪い取る為に。
ぼくが僕の出自に関しての疑問を解く鍵にされ、予定通りに犠牲となり、これからの僕は大きく成長するまで、成長してからも、世界を正しく導くとかいう戯言の為に働かされ続けるのである。
「失礼ですね。わたしがなにもしなければ死んでいたというのに。恩知らずもほどほどにしてほしいです。わたしはあなたの母親のようなものです」
今のところ、僕は健康に育っている。
すやすやと眠っている僕を見ると、もどかしくなってその場から離れたくなってしまう。
これが本当に僕自身なのかと疑いたくなる。
このまま、目を覚まさないように、宮城創として生きていけるようになるのなら、この眠っている僕を消してしまえば、僕は宮城創としての平穏な人生を迎えられるのではないか。
そう考えたこともある。
しかし、この僕自身を消してしまったとすると、今ここに居る僕が存在しているという結果がなくなってしまうから、それは不可能で、どうしようもなく諦めるしかなかった。
夢を見ているこの僕が大きく育ったとしても、僕は宮城創として生きていけない。
生まれたときから『正しい歴史』の為に運命づけられてしまっているから。
生きている限り、僕はきっと幸せである。
たとえ死んでしまっても僕が生きている世界がどこかにあると信じて、恐れずに生きていく。
矛盾を抱えながら。