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婆さんの昔話+α (メモ代わり)

昔話を保管するための個人用メモです。

 祖母は樺太生まれで御年100だが、これまでに幾度も昔話をしては同じ事を言い、その度に孫である自分は『またか……』と聞き流していた。

 そしてこの日(2024年12月28日(土))は今年のクリスマスをまともにしなかったからと少し贅沢をし、スーパーで買ってきたチーズケーキを食後のデザートとして、二人で楽しんでいた。


 そして食べ終えると美味しかったと言って凄く満足げな祖母に対し、自分は『ここであまり満足してポックリ逝かれては困るし、そうなると正月用に買った海老や刺身も無駄になるから、次はどんな美味しいものを食べたいかを常に考えるように』と冗談を言ってみた。


 すると祖母はいつものように、ほんの少しの贅沢でも昔は考えられ無かった……的な思考になったのか、これまたいつものように昔話を始めた。



 曰く、祖母は漁師の網元の家に生まれた三姉妹の長女で、両親は祖母が学校を卒業するまでには揃って他界してしまった。

 すると残された子供たちを親戚が引き取ることになり、Yさん(祖母と血縁があるのはY家に嫁いだ奥さん)が名乗りを上げた。


 そして祖母が16になる年に三人揃ってY家へ行き、間もなく長女である祖母はYの更に親戚のX家へ(あまりにも印象が薄くて名前を忘れたらしい。そしてそこの娘が結婚を機に家を出たので穴埋めのため?)お手伝いに出された。


 するとその家は子沢山で上は成人しているのがその時点で三人、下は生まれたての赤子までいる計12人の大所帯で、家計は中々厳しかった模様。

 そんなお宅で家事や家業を含め全般を手伝っていたが、家長が食費は一日一円(当時はキャラメル10個入りのお菓子が5銭だったとのこと)に抑えるよう厳命していたらしく、当然足りないので食事は毎日三平汁。終いには祖母が増えたから食い扶持も増えて大変になり、実子の自分たちまでこんな食事だと年齢の近い子に言われる有様。


 しかも働いているのに無給。

 祖母の家賃や食費の分と考えれば納得できない事も無いが、要するに親無しの子供を良いように使っていたらしく、数ヶ月後に嫁に行った娘が離婚して戻ると、祖母もY家に戻された。


 そしてその年のうちに近くの会社の寮に炊事担当として就職し、何十人といる男性の中でひたすらご飯を作る毎日。

 ちなみに妹(大)もその頃には少し早いが裁縫を教える先生の元でお手伝いをするようになり、Y家を出ている。妹(小)はその頃まだ小学生のためY家に残り、姉二人とは別居。


 そんな中で祖母は徐々に自立し始めるが、一年が経つ頃に突然結婚話が浮上。

 お相手は職場にいる年上の男性S(当時28)で、祖母とは配膳などの際に少し話す程度。


 そんな彼は本人が知らぬ間にY家へ行き、祖母を嫁に下さいとY夫妻に直談判し、親戚とは言えY家主人とは血縁が無かったためYは二つ返事で了承。

 そして本人不在の間に纏まりかけた結婚話だが、祖母本人はSの事は悪い人では無いと思っており、彼が実年齢より若く(孫が当時50代半ばという祖父の遺影を見ても30代半ばに見える程度に若い……!)、相手が望んでくれるなら悪くないかもと了承。


 これは孫から見ていてもそうなのだが、祖母は色々と無頓着で、他人どころか自分のこともそんなに気にしない。

 行き当たりばったりで良くも悪くも天然なため、その時もきっと周りが『こっちから言っておいてなんだけど、マジで良いの?』と拍子抜けしたのではいかと、孫としてはそんな気がするような人。もちろんそれが良い方向にのみには行かないので、現在年老いた祖母を見ている自分(青浦)は大変に苦労している。


 そんなこんなで互いのことを知っていくことになったものの、祖母は祖父のことを20代前半、祖父は祖父で老けて見える祖母のことをこちらも20代半ばくらいと思っており、蓋を開けてみれば歳が11も違う夫婦が誕生した。


 もっとデートしたり話したりしてからにしなよと思うが、当時は太平洋戦争真っ只中というか終盤で、そんな余裕は無かったとのこと。

 なんなら知らない人とお見合いしたり、結婚直後に夫が戦死とかにならなかっただけマシなのかも。


 そんなこんなで結婚し、複数人が大部屋で暮らす寮から社宅へ移った二人。

 そして祖母は19で出産し長男が誕生。数年後には長女も授かるが、その頃には戦争をしていた日本が敗色濃厚になる。

 そして現在地は樺太……つまりロシアがやって来るため、日本の本土へ引き揚げることになる時間が迫っていた。


 当時は妹(大)も数年前からお手伝いに行き、そこでお世話になった裁縫の先生の元で働いていたが、彼女の職場も閉鎖となり、Y家には戻れないため姉(祖母)の元へ。

 既に二十歳を過ぎていたことや、樺太からの引き揚げなども視野に入り始めていたこと。祖母の近所の社宅に住む人が仲人をやっており、その知り合いであるO家の長男が是非にと望んだため、祖母が妹(大)に結婚話をする事に。


「私が邪魔だから嫁に行けというのか!」


 突然の結婚話を割とすんなり受け入れた祖母とは違い、妹(大)はそんな風に言いながら泣いて怒ったという。

 しかし、情勢が不安定になっているうえ、祖母もS家の人間として過ごしている今、妹(大)と共に今後も過ごせる可能性は低かった。


(↑これに関して補足すると、当時は家父長制?とやらがあって長女の祖母はS家に嫁いでいながら、網元だった父の家(K家)の家長でもあったため、引き揚げる際に何やら問題があったらしく妻として祖父と同行しにくい環境にあった。

 そのため交流のあった朝鮮人に話をし、その人たちからロシアの偉い人に話を通してもらい、子供たちも含めてK家ではなくS家の人間として扱ってもらえるようにしたらしい)


(更に付け加えると、樺太が日本領として安定していた頃はやはり日本人の立場が上だったが、ロシアの影響力が増すと日本人の立場は弱くなり逆転した結果、朝鮮人を挟んでの交渉となったとのこと。

 その際に祖父母は家財道具やお金などをほとんど渡したというので、賄賂という形で要求を通したと思われる)


 そんなこんなで妹(大)はO家に嫁ぎ、その家の妻として引き揚げ船に乗ることになり、妹(小)は未成年であることや上記の交渉によって祖父母と共に樺太を脱出。 

 その際にも祖母のK家とは親戚関係にあるH家の乗る船が、留萌沖にバラ撒かれた機雷によって沈み、一人を残して全員が死亡するなど悲劇も起こったが、祖母や妹たちは無事に日本へ帰国。


 そしてどの船で何処の港へ行くか分からなかった祖母だが、幸運なことに亡き母の従兄弟が騎兵隊の将校だったらしく、その人が引き揚げ船の名簿などを調べて妹(大)やY家の人たちの居場所を確認してくれ、偶然にもY家とは青森の大湊?へ一緒に引き揚げていたとわかった。


 その後は引き揚げ前から三人目を妊娠していたため、しばらく青森に留まることとなり、Y家の奥さんの協力も得ながら出産。

 そして引き揚げてきた人々が親戚縁者を頼って移動していく中、祖父は炭鉱で栄えている北海道へ行くことを決意。


 妻と子供たちを連れて海を渡ったが……そこで腰を落ち着けたと聞いた後に、青森に残ったY家はどうしてるのかと聞いたところ、祖母は「……?(゜Д゜)?」という顔をしていたので連絡を取ってないのかとビックリした。

「そういうのは全部お父さん(祖父)に任せてたから……」と言い訳していたけれど、Y家とS家は血縁が無いんだからそこはアンタがしっかりしなよと、半世紀以上も前の出来事についてお説教。


 そんなこんなで北海道暮らしを続け、幾年も経ったある日。妹たちと会った際にY家の奥さんが入院している事を妹(大)から聞き、そこで彼女から「アンタ達には悪い事をした。引き取ったのは遺産目当てだった」と謝られたと耳にしたらしい。


 これについては父が網元だったため祖母は実際のところ、病床にあった母(父より後に他界)からかなり纏まったお金を相続しており、誰であろうとお金の存在について話すなと言われ、その秘密を本土に引き揚げてけるまで守り通した。

 とは言え、それも北海道での暮らしの間に使い切ったみたい……孫に残しておいても良かったんやで(白目)


 そして妹(小)からも姉二人のいないY家において、血縁であるY夫人ではなく家長であるYから「棚にしまっていたお菓子を食べただろう」などと濡れ衣を着せられ、Y家の子供たちの前で叱られたりして居心地の悪い思いをしたと知らされたとのこと。


 恐らくY夫人の立場としても夫に逆らえず、しかし亡くなった従姉妹(祖母の母)の子供たちを放っておくことが出来ず苦しい立場だったのかなと、祖母は振り返っていた。

 そしてそれがY家負傷による病床での謝罪となったり、もしかすると何かを察していた祖母が、北海道へ移住して以降はY家と積極的に関わろうとしなかった理由なのかなと感じたり。



 そんなこんなで最終的には一男四女をもうけた祖父母だったが、祖父は炭鉱での仕事の影響で肺を患い、晩年は紙芝居などをして少額を稼ぐ一方、祖母は過労になったり過労になったり痔になったり過労になったりしながら定年まで働き、還暦を迎える前に亡くなった夫や親不孝にも先に逝った息子の分まで長生き中。



 ここからは余談。


 ちなみに妹(小)もしっかり嫁ぎ、自分などは非常に博識な旦那さんから幼い頃に色んな事を教えてもらいました。たぶん今でも気になることがあれば調べたり、雑学的なことが好きなのは彼の影響。

 そしてその方が鹿撃ちをしていたため賢い猟犬との触れ合いもなかなか貴重な経験でしたし、昔はよくお肉のお裾分けをいただきました。

 とは言え鹿肉は基本的に固いし一生分食べたので、印象深いのは軟膏代わりに貰った熊の脂の方かも。市販のクリームより潤うこと潤うこと……でもギトギト。

 そしてこの旦那さんが妹(小)が病を患って長くないと分かったときに、本人に隠して普段の会話を録音していたりして、のちにそれを祖母や自分に聞かせてくれたのがこちらとしては嬉しく、本当に優しい方だったとたまに振り返ります。


 そして妹(大)にベタ惚れだったO家の旦那さんは妻loveが晩年も変わらず、豪快で楽しい人で、皆で我が家に集まった時には父と潰れるまで飲んで騒いで、生まれる前に祖父が亡くなった自分にとしては「こういう祖父ちゃんになりてぇ……!」と幼いながらも思ったものです。

 まぁ成長するにつれて酒で酔い潰れた父の姿を反面教師にしたため、現在でもカルピスサワーでマーライオンになるくらい飲めないんですが……。




 更に余談。


 我が家や祖母の家は割とありふれた苗字だけれど、親戚はなかなか見かけない苗字だらけ。

 上記の昔話に登場した各家はそうでもないのですが、出て来なかった家には母方も含めて万寿、南出、麓など、皆さんもあまり見たことが無いかな?と思える苗字があったり。


 それと祖母曰く、「ウチの両親は従兄妹同士だったし、他でも似たような家が多かった」とのこと。

 昔のように親戚同士の付き合いが深かったり、一家揃って本土から移住していたりすると、今とは色々違っていたのかなぁと思う今日この頃でした。

意外と長くなったけれど、たまにはこうして残すのも悪くない。

それに日頃のやり取りも覚えているうちにツイッターで呟いては保存しているから、それもそろそろこちらへ移さないと。


今は隠しているけれど、そのうち転糸の方も含めて兄や妹に教えるのも悪くない。

少なくとも同居している自分にしか聞けない話を誰かに伝えるには、時間が経ってから話すより、こうして聞いた後に書き起こしておくほうが良い……と思う。

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