婚約者の独白2
「ここ、どこ?」
中庭にて、見慣れぬ衣服を身に纏った少女が倒れていると、報告が上がった。
「貴女こそ、どちらから来られたのですか?」
他国からの諜報員である可能性が高い状況下で、少女はひとまず騎士達が生活する騎士棟の詰所へと運ばれた。運ばれてから数分程で目を覚まし、警戒を孕む騎士団長の問い掛けを理解しているのかしていないのか、きょとんとこちらを見上げるその灰茶の眼。
「……?!?」
パクパクさせ、何かを伝えようとするその口からは一言も零れてこない。しかし、慌てたように喉を押さえて懸命にこちらに何かを言いたがっているのは理解出来た。
「大丈夫だ、落ち着いて。名前は言えるか?」
前に出る自分に戸惑う団長を横に立たせ、少女の肩に手を置く。そうして投げ掛けた言葉はやはり伝わるのか、一旦一息を吐いた少女は、下を向く。
「……わからないの、ごめんなさい」
この状況下で、何処から来たのかも名前を言えないのもが重なるのは、流石に疑われると思ったのだろう。明らかに自分達とは違う顔立ち、衣服。他国から何かしらの理由でこちらへ送り込まれたとしても、彼女は明白に我々とは違う何かがあった。
「いや、構わないさ。今日はもうゆっくり休んでくれ。また明日、話を聞かせてくれないか?」
「……わかりました」
彼女を間諜だとする決め手も、昔からお伽噺で語り継がれるような間人だという決め手もない。しかし、演技だとは思えない落ち込みようを信じ、軽く見張りだけは付けるよう団長に告げてから詰所を後にしようとしたところで、彼女からか細い声が掛けられた。
「あ、あの、明日も、貴方が来てくれるの?」
身分も証明出来ぬ者が、気安く国の王子を呼び止め、あまつさえ許可もなく話し掛ける。そんなことを咎めようとする騎士団長を手で制し、私は首肯する。
「ああ。私が明日、また来よう」
「しかし殿下、明日は……」
「一日くらい構わないだろう。彼女の方も、予定がなくなって喜ぶだろうから」
「殿下……」
幼少期に剣の指南役も務めていた師の言葉を遮って、私は今度こそ詰所を去る。
「……ディー様」
名も知れぬ少女のことについて心当たりのある私は、離れにある図書棟へと向かっていた。そんな最中、いくつかの本を抱えた婚約者である彼女と遭遇し、呼び止められる。
「……なんだ?」
彼女の方から声を掛けるなど珍しい。何か火急の用でもあるのかと視線を下げれば、びくりと震えた肩が視界に入る。
「何もないなら、行くぞ」
「あ……」
そんな様を見て、彼女にそうさせる程にいつの間にか嫌われていたのだと不意に突き付けられた。
苦い感情が滲まないように、必要以上に触れないように、彼女の言葉を遮るようにしてその場を立ち去る。
挨拶さえ嫌なら、いっそ初めから話し掛けなければいいにと、そんな風に苛立つ心を抱えながら一日図書棟に籠って過去の文献を漁った結果、彼女は限りなく神々の悪戯で稀に現れるという間人という立場であるということがほぼ確定した。
数百年に一度か二度起こるという神々の悪戯の最中、それに巻き込まれるようにして我々人間には理解出来ぬ何かしらが起こり、世界の境界を越えてしまうというのが、間人という存在である。
彼らは総じてここではない世界で生きていた記憶はあるものの、その国の名を伝えることもそこで呼ばれていた名前を告げることも出来ない。ただ、かがくというものが発展していて、我が国よりも豊かで平和であるということは共通していた。
故に、間人を保護した場合は速やかに大聖堂か王宮内で囲い、国を豊かにするという名目で知識を奪い取り飼い殺しにすること、と文献には記される。
「……飼い殺しに、か」
国に繋ぎ止めるための方法、他国へ奪われないための方法等、生々しくなってきた歴史を閉じ、天を仰いだ。どちらにせよ、あの少女を城で保護することに代わりはないかと全ての文献を片し、父君へ報告を入れる。
国が繁栄するのなら構わない、という承諾を得た後、宰相や大臣達を集めて情報を周知、大聖堂の方へも報告の手紙を飛ばし、やっと一息吐けたのは、もう茜が昇る頃だった。
軽く仮眠を取り、雑用をいくつかこなした後にもう一度間人の元へ訪ねることが出来たのは、陽の落ちる黄昏時で。
「……あ、こんばんは」
監視の意味も込め、騎士棟の区分から出られない彼女は、詰所の前から空を見上げている。草を踏む足音でこちらを振り返り、かち合う瞳には昨日よりも濃い疲労が見て取れた。
「その、団長さんから聞きました。えっと、軽々しく話し掛けて、ごめんなさい」
シュティと、ほぼ同じくらいの年齢であろうその少女は、困ったように曖昧に笑って目を伏せる。自分が去った後、恐らく礼儀に厳しい騎士団長辺りが軽い叱責を行ったのだろうが、言葉通り生まれも育ちも違う人間に、端からここの生き方を押し付けるべきではない。そう思っている私は、彼女に気にするなと声を掛ける。
「ありがとう、ございます」
戸惑ってはいるものの、先程よりはいくらか落ち着いて柔らかくなった表情。話し掛ければ、返ってくる程度のテンポ。それでも、茜が藍に塗られたそのときまで話し込んでいれば大分打ち解けて、少ないながらも笑顔を見せてくれるようになった彼女。
自分の周りにはいない、ころころ表情の変わるそんな彼女が珍しくて、年の近いはずのシュティとはこんなにも違うのだなと思いながら、ただ彼女の話を聞いていた。
「彼女を王宮で保護することになった」
「よろしくお願いします、シュティルさま」
何日か夕陽が沈む時を彼女と過ごし、限りなくただの間人であるということが確認出来たことで、正式に間人として彼女を王宮で保護することになった。
故に、宰相や大臣などが集まる場にて彼女を紹介し、当然シュティにも会わせた。
「……ええ」
ずっと避け続けた結果、最近では一月顔を会わせないことも多い婚約者の顔には、歓迎の色は見えない。次期王妃として、異国で育ちながらもこの国で生きていくことになるであろう間人の彼女に少しでも指導を願えたら、とは思ったが、それは厳しいようだった。
「ああ、彼女のことを頼む」
「はい、お任せください」
少しでもこの国で過ごしやすくなるよう、年の近い令嬢を集めて茶会を開き、友人を作ると共にマナーを教えるよう社交界を仕切る侯爵夫人に頼む。
王宮の一室を与え、ちょこちょこ様子を窺うようにしてこちらを見に来ていた少女も数ヵ月立てば全く顔を出さなくなり、侯爵夫人から送られてくる手紙で彼女の様子を知る程度になっていた。
というのも、何度か王宮内で顔を合わせても割ける時間が少なく、軽い挨拶程度になってしまっていたというのも、彼女が自分に近付かなくなった理由の一つだろう。
しかし、それに対する申し訳なさよりも父君が近頃病に倒れて政務が滞っていて、それどころではなかった。
今日も今日とて父が抱えていた案件に目を通し、宰相や大臣達の意見を交えながら方向を決めていく作業に終われる中、久しい栗色の髪が視界に入った。
「……休まなきゃ、だめだよ」
誰もいない深夜の執務室。慣れていないというのもあるが、単に自分の能力不足で仕事が捗らずに押した時間の中で、ティーセットを抱えた間人の少女がそう呟く。
「ああ……わかっては、いるんだけれどね」
書類の山が自分を囲む机の先、綺麗に処理済みの書類が積み上げられた彼女が座る席を見つめて、再び手が動く。
流石に一人では手が回らず、相変わらず優秀な彼女にも手伝ってもらった結果、毎日のように己の無能さを突き付けられている。だから、少しでもその差を埋めようとこうして遅くまで作業をしていても数時間経てば再びその差は開くばかり、で。
「あなたが、そんなに無理することないって、夫人が言ってた」
「はは……そうだね、出来る人間がやれば、いいんだろうけどね」
ペンを握る自分の手を覆うようにして止め、こちらを見つめる彼女の眼は、出会ったときよりもきらきら輝いて見えた。周囲にいる友人のお陰か、元気になった彼女の姿を見れて嬉しい反面、何処か引っ掛かりを覚えるその思考は椅子から離そうとする彼女に掻き消されて、強制的に始まったティータイムに埋もれていった。
そうして深夜から始まった密かな茶会は、時が経つに連れて段々回数が増えていく。
「ディー様!」
凝り固まった身体を動かそうと軽い散歩に出た際に重ねる茶会。
「ディー!」
何もない時に現れ、唐突にお茶をしようと誘われても拒まなくなったのは、いつからだったか。
彼女と共に過ごしていれば、シュティと同じ空間にいて覚える感情を忘れることが出来る。ただただシュティから逃げるだけの口実に彼女を使っていることを理解しながらも、ふわふわとした柔らかい好意を向けてくれるそれが心地良くて、いつしか、彼女を拒むことをやめていた。
「ヴァルディス王太子殿下」
今日も今日とて最低限の政務しか行っていない自分を呼び止めたその声。
毎日聞きながらも機械的な言葉しか吐かず、平坦なそのトーンに呼ばれる愛称は甘い声で口ずさんでくれる彼女とシュティとでは感情に圧倒的な差を感じるが故にとシュティには呼ばないでくれと頼んだ結果、婚約者でありながらも殊更他人感が強くなったその呼び名は、頼んでおきながらあまり気分の良いものではない。
「なんだ」
「最近、業務を抜け出す時間が目に余ります。異国の少女を気に掛けるのはご立派だとは思いますが、何れは彼女もここを出なければなりません。余り一人へ構うと良くない噂も立ちます。もう少しお控えください」
「何をしようと僕の勝手だろう」
だからか、いつだって柔らかく対応出来ず立ち去る自分はいつまでも子供で、そんな自分を嗜めるように周りの目を気にしろと叱責する彼女の言葉に頷けないまま、今日も彼女は私の代わりに執務室に赴き、あの山を片すのだろう。
いっそ、全てを放り出してくれればいいのに。
そうしたら、僕達の関係は全てなくなるのにと思ってしまう自分は何処までも卑怯。それでも、言い出せない言葉を願うその心は、未だに重たい未練を燻らせるまま。
けれど。
一月、三月、半年、一年。
どれ程の時が流れても、どれ程僕が彼女に仕事を押し付けても、彼女は自分から婚約破棄を申し出ることはなかった。そんな欠片さえ溢さず、淡々と役目をこなし続ける彼女との関係性はもう、表面上でさえ婚約者とすら呼べないものになっていた。
王太子の寵愛を受ける間人と、国王が認めた次期王妃とで派閥が出来る程に揺らぐシュティの立場。
父の体調が崩れる日が多くなり、いつどうなってもおかしくない日々が続く中で、周囲からどちらを王妃にするのかをさりげなく探られる。
傍に置きたいのは、当然栗色の髪をふわふわさせて微笑む彼女。いとおしくて、守りたい存在。しかし、彼女は王妃の器ではない。幼い頃から王妃教育を受けているシュティと違って教養もなければ心構えも違う。彼女が婚約破棄を申し出ないのなら、それは当然、シュティを王妃に選ぶ予定だった。
父が亡くなった、その日も。
「……まちがっていたの」
ああ、何故、こうもこんな場面に出会してしまうのか。
友人と茶会をするという彼女を見送り、一人空いた時間で今度は限られた人間しか入れない、中庭を彷徨いていたとき。
聞き慣れた声に誘われて足を進めれば、赤茶の髪をベンチに垂らして俯くシュティと、騎士見習いから騎士へと昇格し、正式にシュティの護衛として配属された
青年がそこにいた。
「王妃になりたいなんて、まちがっていたのだわ」
密会の邪魔をしたかと、静かにそこから去ろうとしたとき。確かに耳に残ったその声に、足が止まる。
「傍に、立ちたいだなんて、思わなければよかった」
幼馴染みにだけ吐き出される、彼女の弱音。ああ、そうかと、そして納得した。
厳格な王妃教育を受けた彼女が、次期王妃に選ばれた段階でどんなことを思おうと婚約破棄など願えるはずがない。
それなのに、自ら申し出ないから彼女は王妃になりたいなどということを考えていた自分の欲望が、そう見させていただけに過ぎなかっただけなのだ。
「でも……」
先を紡ぐ彼女の声を遮るようにして、僕は庭園を去る。ただ一言。家臣に、間人である彼女を王妃にするという決意を伝えるために。
そうして僕とシュティの関係は、消えた。
ないだろうが、望むのなら第二夫人の座も用意出来るよう、一応の婚約者という肩書きを残したまま。
王妃が決定して以降部屋に籠りがちだという彼女が気になったとしても、嫌う相手が見舞うよりは何もされない方が良いだろうという思いを抱えたまま。
「ディー」
跡継ぎを作ることが仕事だと聞いた彼女の言葉の通り闇夜で身体を重ね続け、無事懐妊したと産科医から聞き、彼女の披露目と併せて国民へ発表をしようと準備していた頃。
今日の訃報を、聞く。