Track53「潤んだ唇」
「彩斗さんは過去に……」
「幸君」
「透子さん」
「お話し中に、ごめんなさいね」
優しい笑みが下りてくる。膝を折った彼女は僕と目線を合わせると潤んだ唇を開いた。
「私も混ざっていいかしら?」
「え?」
「私、昔はヴァイオリンをやっていたのよ。それで趣味なんだけど、たまにコンクールとかに行ってたのよね。だから幸君を前から知っていたのよ」
声が出なかった。誰も僕を知らない世界に来たと思っていたのに、そんなことはなかったのだ。焦燥を抱えるのも至極当然だろう。
「……僕のことどう思いました? やっぱり……ピアノも弾けない僕には価値が無いって思いましたよね……」
「そんなわけないでしょう? 幸君が誰にそう言われたのかは分からないわ。でもね、音楽に携わる人間ならすぐに分かるものよ。キーボードは鳴っていなかった。隼君も気付いていたわよね?」
「まぁ、ね」
「私だってすぐ分かったわ! でもね、四季さんも彩斗さんも何も言わなかった。だから黙っていようって思ったの」
隼さんが言葉を紡ぎ、すぐさまモモさんが口舌を従える。この人にまで気を使われていたのかと思えば惨めに思えた。
「皆で僕を嗤ってたんですか?」
「そんなわけない……」
「透子さんは、いつも綺麗事ばかりですよね」
そんな傷付いたような、諦念するかのような表情を浮かべないで欲しい。僕が悪いことをしたみたいじゃないか。
「で? 何が知りたいんですか? 僕がピアノを辞めた理由? そんなの聞かなくても、もう分かってるじゃないですか。僕は楽器の音が聞えないんですから」
「アンタ、その口の利き方はなによ」
「モモさんに口の利き方がどうのなんて言われたくないですね。あなた人に何か言えるくらい礼儀正しいんですか? 二階堂さんにも、隼さんにも敬語使ってないじゃないですか」
「論点をずらさないでくれる? 今は、そんな言い方ないでしょ、って話をしてるのよ。折角、透子さんが心配してるのに、そんな言い方おかしいじゃない」
「僕は心配してくれ、なんて頼んでません」
「知ってるわよ。アンタみたいな奴を心配するくらい透子さんは優しいのよ。その優しさを突っぱねるみたいなことしないでよ!」
「うるさいなぁ……そんなに言うならモモさんが透子さんと仲良くしてればいいじゃないですか」
「アンタは……何も知らないくせに何言ってんのよ!? 皆がどれだけアンタのこと考えていたか知らないくせに……偉そうにほざいてんじゃないわよ!?」
突如、胸倉を掴まれ目を瞠る。息苦しさから解放されようと立ち上がるも、無意味に等しい。睨み付ける僕を、彼女もまた鋭い眼光を放ちながら睨み付けてきた。




