Track52「砂時計」
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「じゃあ今日はお勉強会をしましょうか」
「なんで勉強会なのに俺がいるんだよ!?」
「まぁまぁ、こんなに生徒がいるんだから透子さん一人じゃ大変っしょ? 彩斗も手伝ってあげなよ~」
「お前が手伝えよ」
「俺は仕事があんの! ミーティングルーム貸しただけでも感謝してよねー」
「黙れクソが」
暴言を吐かれた二階堂さんが楽し気に部屋を後にする。クーラーの効いた室内は過ごしやすく、曇天のせいで少しばかり薄暗い気がした。
夏休みの宿題を片付けてしまいましょう、なんて透子さんの提案があり、夏休み開始七日にも関わらず学生組の僕達は、こぞって課題を持ち寄っていた。モモさんは本気で片付ける気らしく、彩斗さんの隣を陣取る僕に何も言わない。隼さんも顰め面で問題集と睨み合っているものだから、僕も大人しくテキストに視線を落とした。
「分からないとこある?」
「い、いえ」
少しばかり気まずい。ピアノを弾くことがなければ僕達に接点などないのだ。一週間ぶりの彩斗さんは、どこも変わっていないのに僕は落ち着かなかった。
慌てて否定を繰り出したが、どこもかしこも分からないことだらけだ。少しばかり泣きそうになりながら例題を見つめる僕の旋毛を彼は撫でた。
「分からないなら分からないって言えよ。えーっと」
呆れたように口角を上げた彼がテキストを覗き込む。次いで繰り出された説明通りに筆を動かせば簡単に解けた。一つ出来る毎に彩斗さんは褒めてくれる。それが嬉しくて、僕は数式と夢中で睨み合った。
「幸、休憩」
氷のような冷ややかさが頬に触れる。慌てて顔を上げると、そこにはリンゴジュースの缶を掲げる彩斗さんがいた。透子さんとモモさんはお茶を、隼さんにはココアを買ってきたのだろう。机の上で屍と化している隼さんの近くにはアイスココアが在った。
「凄い集中力だな」
「……ありがとうございます」
目を合わせないよう受け取った缶に視線を落とす。甲高い笑い声の先には、会話に花を咲かせる透子さんとモモさんがいた。二人はお茶で喉を潤しながら、様々な事柄で笑みを交わす。それに羨ましいな、と思いながら缶を開け、甘ったるいリンゴジュースを一口嚥下した。
「気にしてんのか?」
「え?」
「俺が言ったこと」
この場合なんと答えるのが正解なのだろう。少し逡巡して頬を吊り上げた。「気にしてない」なんて言う方が不自然だろう。子供らしくある方が、この人だって構ってくれる筈だ。
「はい」
「お前、作り笑いが癖だよな」
「ひゃい?」
「無理して笑うなって前言わなかったっけ?」
「はひはに、言いまひたへほ」
飲み掛けの缶コーヒーをテーブルに置いた彼が隣に腰掛ける。すぐさま頬を弄ばれ、僕は言葉にならない言葉を発していた。
「なんかなー、上手い言葉が見付からないんだけどさ。幸が何を抱えてるのか俺はやっぱり知りたいと思うんだよ」
声量を下げても、彼の声は透き通っていて耳馴染みがいい。優しい音を携える言の葉は今日も僕の心に浸透していった。
「それを聞いても幸を助けられないかもしれない。でも聞かないことには、それすらも分からない。幸が言っていた『また僕を捨てるんだ』の意味を、俺は、ちゃんと知りたいと思ってるよ」
ああ、この人は過去など見てはいないのだ。そう理解するのに、時間は掛からなかった。
彩斗さんはいつだって前に進みたがっていて、生きることに足掻ける人なのだ。けれども優しい彼は周りをも巻き込もうとする。二階堂さんは、それを分かっていて彼を制止した。僕がまだ砂時計をひっくり返す気はないと知っていたから。鮮やかな笑みに、心臓が蘇生させられる。新しい感情が芽吹いた心は〝生きたい〟と足掻いていた。




