Track51「不協和音」
皺寄せは割と早く訪れる。合唱祭でピアノを弾いて欲しい、と言われたのだ。当然、耳の聞こえない僕に出来るわけなどない。それでも断れないまま練習に参加し、怒声を浴びせられた。
——ふざけてるの!? ちゃんと指揮を見なさい!
指揮を見てどうするのだ。僕の耳に届くのは不協和音と称するに相応しい合唱のみ。美しい音を奏でるピアノの旋律など聞こえない。それから僕は「出来ません」の一言が言えぬまま練習をサボり続け信用を落とした。けれども、伴奏がいなければ困るかもしれない。そんな懸念を拭いきれず、本番のみ顔を出した。そこに在ったのは——。
「軽蔑の眼差し」
僕は注目されることが好きだった。けれども、それは〝称賛〟の場合のみ。非難の目を向けられて平気で居られるほど強くはなかった。それからは学校に行っていない。中学も数度登校したのみで通ってはいなかった。悪評は止まることを知らず、僕を知らない人も僕を中傷する。そんな環境に身を置くことは出来なかった。
ピアノを弾けない理由は分かりきっている。治そうとすれば簡単に治るだろうことも。けれども、それで何が変わるというのだ。普通に出来てしまったら彩斗さんは褒めてくれるかもしれないが、あの頃に戻れるわけじゃない。むしろ、また捨てられてしまうかもしれない。
ちゃんと分かっている。僕が聞きたくないのは自身のピアノではない。〝お兄ちゃんのヴァイオリンなのだ〟と。兄と慕った隣人は既に他人に成り下がっている。彼のヴァイオリンを聞きたくないと願った日から、僕は楽器の音が聞こえなくなってしまった。聞こえなくなってしまったのではない。きっと聞きたくないと願ってしまったのだ。僕は未だに思っている。だって、踏み出さないというのは、変わらないというのは、なによりも楽だから。
傷付きたくない。そう思って何が悪い。彩斗さんを一人占めできる時間が無くなってしまうのなら、ピアノなんか弾けないままで良かった。けれども、それじゃ捨てられる。ならば答えは決まっていた。あとは踏み出す勇気だけ。
「それが難しいんだよ……」
風に乗って聞こえてくるのは〝London Bridge Is Falling Down〟お兄ちゃんの鼻歌はきっとヴァイオリンと共に煌いていることだろう。けれども、それすら僕には分からない。分かりたい。分かりたくない。戻りたい。音のない世界に、僕は狂ってしまいそうだった。
相反する二つの思惟。一貫して変わらない感情。持て余した記憶。どれをとっても僕は変われそうな気はしない。でも——
「助けて……」
思い描くのはいつだって僅かな願いだ。昔みたいに楽しく——
「叶うわけないのくらい分かってる……」
けれども、僕には願う自由を捨てられない。捕まえた幻に、まだ縋っていたかった。




