第6夢 夏の始まり
ニッ怪と仙座が夏来の家に住むようになってから、数ヶ月の時が過ぎた。
多様な音色のセミの声と、肌を撫でる生暖かい風。
季節は夏になり、夏来の学校は長期休暇に入っていた。
「いつも手伝ってくれて……本当に助かるよ」
早朝、クーラーの効いた涼しい部屋で、夏来と仙座は朝ごはんの準備をしていた。
瞬間移動の能力を利用して、仙座に川や海などで魚を捕らせてくるようになってからと言うもの、日々の食費は大幅に削減。
今までギリギリの生活を送っていた夏来にとって、これほどに嬉しいことはなかった。
「泊めて貰ってるし、これぐらいはしないとねっ!」
しかし、3人分を作るとなれば、その浮いた金さえも一瞬の内に消えてしまう。
実質、今までとほぼ変わらない状況ではあった。
だがそれでも変わったものは確かに存在している。
「がぁ……腹が減って死にそうじゃ……」
「もう少し待ってね……」
こうした何気無い会話が、夏来を孤独から救ってくれる。
それだけで幸せな気持ちになる事が出来た。
「ん? なになに〜? 思い出し笑い?」
小さく笑みを浮かべた夏来の顔を覗き込みながら、口元を手で隠した仙座が言う。
「え、な、何でもないよ」
「そっ、ならいいけど〜」
2人は出来上がった料理を、ニッ怪が待つダイニングテーブルへと運んだ。
今日の朝食の献立は、わかめの味噌汁、ほうれん草のお浸し、卵焼き、鯖の味噌煮、そしてふっくらご飯だ。
「ごちそうさまでした…」
それぞれが朝食を手早く済ませると、夏来と仙座は洗い物に取り掛かる。
その間、ニッ怪は大きなバッグに着替えを詰め込んでいた。
「あはは……まだ早いよニッ怪君。お昼頃に行くんだから……」
「そうではあるが、待ちきれんのじゃ!」
そう興奮気味で言うニッ怪は、目を輝かせながら鼻歌を歌い始める。
行き先は長野県の悟河村。
夏来の叔父と叔母が住んでいるところだ。
───早く会いたいな。
遠く離れたその場所に、夏来は想いを馳せた。
夏休みの期間しか会えない人、見れない景色がそこにある。
両親が亡くなって寂しい思いもしたが、死にたいなどと思ったことは一度たりともない。
それは、夏来を支えてあげようとした叔父たちのおかげであった。
「──今更だけど、行くのが怖くなってきたよぉ」
ソファーに深々と座りながら、不安な表情を見せる仙座。
随分前に聞いた通り、悟河村は始祖の神である【悟神】が現世に初めて姿を現した場所だ。
そして同時に、昔話に出てきたあの村は、現在の悟河村ではないかと噂されている。
自分の命を狙う者が潜んでいる可能性がある場所に、わざわざ出向くのは自殺行為である。
しかしそれでも、自分と同じ境遇のニッ怪は悟神を恐れていない様子で、仙座は見つからなければ大丈夫だと思い始めていた。
「大丈夫だよ……うん、たぶん大丈夫」
「これこれ、あまり仙座殿を不安にさせるでない」
「あっ! ごめんごめん。きっと大丈夫だよねっ! こっちにはニッ怪もいるんだしっ!」
恐れてはいけない。
もう逃げたりはしない。
立ち向かうんだ……敵わない相手だとしても、必ず勝機はある。
そう自分に強く言い聞かせ、仙座は自身を包み込む不安を振り払った────
一層暑さが増してきた昼頃、炎条寺と幻花を家に招き入れた夏来は、玄関の鍵をかけて出発の準備を進めていた。
エアコンを消し、全ての窓が閉まっているかを確認すると、それぞれが仙座の肩に手を置く。
「仙座さん、お願いします」
「まっかせて! 大体だけど……ここかなっ!」
短い掛け声を残し、夏来たちはその場から一瞬にして姿を消す。
数秒の間、あたりに真っ暗な空間が広がる。
見渡す限りの真っ暗闇に、死後の世界もこの様な景色が広がるのだろうかと思う夏来。
するとそんな暗い思いを打ち消す、目を塞ぐ程の眩い光が襲いかかってきた───
目に映り込んでくる、どこまでも無限に広がる緑の景色。
花々の香りと、その側を流れる川の音。
炎天下の中、吸い込む空気は都会とは違った新鮮さを感じさせる。
「ぁ……ここは……」
そんな中、夏来は見覚えのある景色にゆっくりと背後を振り向く。
すると古ぼけた、今にも崩れ落ちそうな小さな駅が静かに佇んでいた。
茶色く変色した壁には、所々に大きな亀裂が見られる。
「うひょぉ! やっぱお前すげぇや! ──す、すげぇけど、ここじゃねぇんだよな」
「ぐぬぬ……やっぱり行ったことないから難しいよぉ……よぉし!」
場所を間違えてしまった仙座は、気を取り直して再び瞬間移動の能力を発動させようとする。
しかし明確な場所を分かっていない様子に、幻花はあることを切り出す。
「また変な所に行かれても困るしね、ここからは景色を見ながら行きましょ」
そう言って駅前のバス停へと歩き出した幻花の後を、夏来たちは駆け足で追う。
「あちぃ……」
夏来と幻花が時刻表を確認する中、炎条寺ら3人はベンチに腰を下ろしてグッタリとしている。
「俺、生まれ変わったら鳥になるわ……それで大空飛びまくってやる」
暑さに顔を歪める炎条寺たちの頭上を、1羽の黒い鳥が飛んでいく。
バサバサと懸命に羽ばたきながら、どこまでも、どこまでも高みへ───
決して振り返ることなく飛び続ける姿に、ニッ怪は複雑な思いに駆られる。
「ん? どうしたの、そんな顔しちゃって」
「───いや、なんでもない」
視線を落としたニッ怪の横顔は、どこか悲しみに包まれているようだった。
「ほら来たよ、起きな」
意識が朦朧とし、起きているのか寝ているのか、その区別さえも付かない状況下に聞こえて来た幻花の声。
肩を揺さぶられて目を覚ました3人は、夏来が指を指す方向へと視線を移す。
すると、前方から一台のバスがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「ぁぁ……幻か……愛しの天使ちゃんが俺を迎えに来てくれたみたいだ……」
力の無い掠れた言葉を発しながら、プルプルと震える手を伸ばす炎条寺。
それから十数秒後、バスへと乗り込んだ夏来たちは直結クーラーの真下へ炎条寺を座らせた。
「夏にしか来れないけど……この景色はいつ見ても凄いね……」
山の方へ、左右に田んぼが広がる一本道をバスは行く。
都会では決して見られない、田舎ならではの広大な土地を利用しての水田。
一目見れば、あまりの凄さに言葉が出ないだろう。
実際、仙座も口を開けたまま固まっている。
「ん……ぁ……いって……うえっ……気持ちわりぃ」
それから数分後、小さな橋に差し掛かった時、炎条寺が苦しそうな声を上げて目を覚ます。
そして直ぐに顔色を悪くして頭を押さえると、隣に座る夏来をニッ怪の横へと移動させる。
「お……だ、大丈夫かの」
「ああ……だ、大丈夫だ……問題ない。心配するな」
青ざめた表情で言うからだろうか、その言葉には説得力のかけらもなかった。
故に、心配するなと言われても、心配してしまうのが人間というものだ。
しかしこれ以上、頭痛で苦しむ炎条寺に迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思った夏来たちは、あまり大きな声を出さないようにコソコソと話すようにした。
「ねぇ、あれかなぁ?」
野を越え山を越え、何度かバス停に止まりながら約1時間。
視界がひらけたと同時に、多くの家々が密集する村が見えてくる。
『次は悟河村──悟河村です。お降りの方はお近くの降車ボタンを押してお待ち下さい』
夏来が頷くと同時に、車内にアナウンスが流れる。
言われた通りに降車ボタンを押し、夏来たちは荷物をまとめる。
数十秒後、悟河村前のバス停に降り立つ。
モワッとした熱気とバスが残した排気に身体が包まれる。
「あぁ……クソうるせぇ……」
遠ざかって行くバスのエンジン音が聞こえなくなると、それを待っていたかのように大量のセミの鳴き声が押し寄せて来た。
日差しは何にも遮られることなく首筋を焼いていた。
「あっ……炎条寺君、待ってよ」
一刻も早く目的地に辿り着きたい一心で、身体を無理やり動かして進み出した炎条寺。
その背中を追って、夏来たちは村の中へと入っていった。