第3夢 日常の変化
「んぁ…」
【午前8:00】
小鳥の鳴き声と、騒々しい物音に目を覚ます。
窓から差す太陽の光が、目を擦る夏来に容赦なく襲いかかっていた。
ゆっくりとベッドから起き上がり、おぼつかない足取りで階段を下る。
「おや、夏来殿。今日は良い天気じゃな」
「あ……おはよう」
1階へと来て、まず始めに目に映り込んで来たのは、台所に立つニッ怪の姿だった。
スポンジを片手に、フライパンを洗っている。
「少し挑戦してみての、ほれ食べてみい」
そう言って差し出された皿の上には、少し焦げ目の付いたベーコンエッグサンドが乗っていた。
「料理は出来ないって……無理しなくていいの───」
手に取って口へと運んだ夏来は、あまりの衝撃に言葉を失う。
ふんわりとした感触の中に、ベーコン本来の深い味わいと程良い噛みごたえ。
そして何より、半熟の卵の黄身がトロリと舌を撫でて口全体に広がる。
過去にこれほど美味しい物を食べたことがないと思わせる位に、ニッ怪の作ったベーコンエッグサンドは美味だった。
「夏来殿? 如何した」
「おいしい……」
頰に手を当て、表情を崩す夏来。
そんな姿を見て、ニッ怪は照れながら鼻の下を摩った。
軽い朝食を済ませ、歯を磨いた2人は、ソファーに深々と腰を掛けてテレビの電源を入れる。
画面には、キャスターと一緒に全国の天気予報が映っていた。
「暫くは晴れが続くようじゃな」
「そうだね」
「………」
一言で返す夏来を、ニッ怪は横目で見つめる。
昨日からそうだが余り会話が続かない。
なんとかして伸ばそうと努力している意思は伝わって来るのだが、まだ会って1日しか経ってない上に、そこまで親密と言うわけではないことが、未だに夏来に抵抗を与えているようだ。
「あ……」
ふとそんな事を考えていると、時計を見た夏来が短く声を発して立ち上がる。
「ご……ごめんニッ怪君。 ちょっと出かけるんだけど……どうする?」
「喜んでお供しよう」
勢いよく立ち上がり、夏来から借りた寝間着を脱ぐと洗濯機に放り込む。
そして脱衣所に干してある灰色の服を手に取り、素早く着替える。
「その服すごく汚れてたから……あんまり汚れとれなくてごめんね……」
服をポンポンと叩いて、シワを治すニッ怪。
その姿を見ながら、夏来は申し訳なさそうに言った。
「気にするでない。 さぁ、行くとしよう!」
「う、うん……」
相変わらずの陽気な性格に、夏来は押され気味に頷いた。
それから夏来は着替えを済ませ、財布等を持つと家を後にする。
歩道へ出ると、下町へと続く広めの道路と長い階段が見えた。
「じゃ、行こっか」
道路を挟んで反対側へと駆けてゆく。
長い階段をひたすら下り、行き着いた先は商店街。
土曜という事もあり、平日よりも賑わっていた。
「ニッ怪君……何か欲しいものある……?」
明日はもっと混み合うんだろうな、と夏来は思いながら話し始める。
「夏来殿の欲しいものが、我の欲しいものじゃ」
「え……あぁ…そう……なら、あそこのお店に行くから付いて来て。これ買うから……」
夏来はスマホで時間を確認すると同時に、メモアプリに打ち込んでおいた文字をニッ怪に見せつける。
魚、お肉、根菜や果物などの食材に加え、牛乳やジュース等の飲み物。
そして生活に必要なトイレットペーパーや洗剤などが記されていた。
「ここが夢の世界だって分かっていても……餓死したら元も子もないもんね」
「そうじゃな。幻叶世界で生き延びてこそ、目覚めてからの世界が変わるというもんじゃ。今までと同じように生きればええ」
深く考えさせるような言い方はせず、あくまで夏来が平常心を保てるように言葉を選ぶニッ怪。
そんな思いが伝わり、夏来は顔を綻ばせる。
「あれ、夏来?」
そして、いざスーパーへ入店という時に、背後から透き通るような声が聞こえてくる。
その聞き覚えのある声に、夏来は驚愕に振り返る。
「あっ! ちーちゃん!」
今まで聞いたことのない程の元気のある夏来の声に、ニッ怪はこちらへと走ってくる人影の方へと目線を向ける。
太陽の日差しに遮られていた顔が建物の影へと入ると、腰まで届く程の艶やかな黒髪の少女が姿を現した。
「もう……今から行こうとしてた所だったんだけど。LINE見なかったの?」
ちーちゃんと呼ばれた少女は、右手に小さなレジ袋を下げている。
「え、あっ! ご、ごめん見てなかった……てへへ」
目を瞑り、顔の前で手を合わせて謝る。
こんなに生き生きとした夏来を見るのは、【この世界では】初めてだ。
「全く……っていうか、あんた誰よ」
腰に手を当て、呆れたように言葉を発した少女は、次に夏来の隣に立つ謎の男の正体を暴くべく、ニッ怪に鋭い視線を送る。
その威圧感に押されたニッ怪は数歩後退したものの、気を取り直していつも通りの声のトーンで名を名乗る。
すると身元を明かしたニッ怪に心を許したのか、表情を和らげた少女は同じく自己紹介をする。
「私は幻花 千代、よろしくねニッ怪。夏来のクラスメイト?」
「あ……いや……えっと……」
この複雑な関係をどう説明すればいいのか。
幸いにも、幻花は夏来とは別の学校に通っている。
クラス全員の名前は知らないはずだ。
「(面倒な関係なんだよな……どうしよう)」
しかし、炎条寺の存在が夏来の脳裏に浮かぶ。
なぜなら残念なことに2人は【いとこ】だからだ。
もし炎条寺にでも聞かれたら、後々からめんどくさくなる。
そうならない為にも本当のことを言わなければならない。
1つ屋根の下、生活を共にしているのなら家族と言うべきだろうか?
だがそれでは、逆に変な印象を与えてしまう。
「うぅん……そうじゃな……」
──いや、大丈夫だ。
このお人好しな幸せ人間なら、話に乗ってくれるはず。
炎条寺には、電話等で話を付けておけば問題ない。
「そ、そう! 僕たちクラスメ───」
結論を叩き出し、口にする───その時だった。
スーパーの自動ドアが開き、中から強面の男が出てくる。
「ん? よぉ、お前ら。こんなとこで何してんだよ」
あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”!!!???
まるで計ったかのような、タイミングが良すぎる炎条寺の登場に、夏来は心の中で悲痛な叫びを散らす。
「おい、誰だそいつ」
仲良しな2人の背後に何気無く混じるニッ怪を見て、不思議に思った炎条寺は誰かと問う。
「え? あんた達のクラスのヤツじゃないの?」
「知らねぇよ、こんな目に傷を付けたイカツイ奴は初めて見た」
興味深そうに、ニッ怪を上から下までジロジロと見る。
その傍で、幻花が夏来を不信な目で見つめていた。
目をそらし、ニッ怪に助けを求める視線を送る。
しかし、等のニッ怪は炎条寺を振り払うので手一杯のようだ。
「なんで嘘ついたか、詳しく説明してもらおうじゃない。私たちの間は偽りは無しだよね?」
「あぁ…う、うん…ごめん……あの…えっと……」
幻花に迫られ、言い逃れのできない絶体絶命の中、スマホから鳴り響く9:00を告げるアラーム音が夏来に逃げ道を作る。
「あっ……ごめん2人とも……タイムセールが始まってるからまた後で!」
休日は午前9:00〜12:00、午後4:00〜7:00の時間帯に、お買い得商品が出るようだ。
情報によると今日は卵が出るらしく、競争に負ける可能性を少しでも低めようと、時間に余裕を持って夏来は家を早く出たのだった。
しかし、幻花と炎条寺との会話が長続きしてしまい、その努力は水の泡となってしまった。
「行こうニッ怪君」
「う、うむ……ではまた」
血走った目の夏来は、ニッ怪の手を取り駆け出す。
自動ドアが開き、2人は中へと入っていった。
「ニッ怪っていうのか……中々イカした奴だなっ! 気に入ったわ!」
「はぁ……はいはいそうね」
「クッカッカ!」と高笑いの炎条寺を、幻花は適当にあしらった────
スーパーの中を進む夏来とニッ怪は、一目散にタイムセールコーナーへと急ぐ。
そこに着いた頃には、既に卵のタイムセールを待ち望んでいた主婦達で溢れかえっていた。
「うぐ……もうダメ…」
ただ呆然と、その場に立ち尽くす夏来。
身体と身体が押し合う戦場に、こんな弱々しい身体が入ってしまったら押しつぶされてしまう。
今日はもう諦めよう、そんな事を口に出そうとした夏来に、ニッ怪は「我に任せい!」と言って戦場へと駆り出た。
「あ……まっ……て」
夏来の制止の呼びかけは、主婦達の声に掻き消される。
自分の都合で、他人に怪我でも負わせたら罪悪感が残ってしまう。
声では無理だと悟り、自力で戻らせようと一歩を踏み出す。
だが、暴れ狂う主婦の攻撃が夏来を近づけまいと行く手を拒む。
「に……ニッ怪くん……」
怪我をしていないか、そんな不安に夏来は弱弱しい声が漏れた。
すると、主婦達の足元から卵のパックを握りしめたニッ怪が這い上がってくる。
なんとかゲット出来たようだ。
卵のパックを受け取りカゴに入れ、手を伸ばすニッ怪を引きずりあげる。
荒い呼吸を繰り返すニッ怪の髪の毛は、闘いの激しさを表すかのように酷く乱れていた。
「さて、次は何かの!」
だがそんなことは気にしていないのか、ニッ怪は目を見開いて次の指示を待っている。
「じ、じゃあ……お魚のところに行こ。しらすとか買いたい」
「承知! では行くぞっ!」
「あっ……あまり走らないで……」
先陣を切って走り出したニッ怪の姿は、すぐに夏来の視界から消えてしまった。
いつもの上機嫌さに呆れる夏来だったが、こうして楽しく買い物ができるのも、ニッ怪のおかげだ。
そしてこんな体験をさせてくれている幻叶世界に感謝しつつ、夏来はニッ怪が向かったであろう鮮魚コーナーへと足を運んだ。
両手でパンパンに膨れ上がったレジ袋を持ち、スーパーを後にする2人。
待ち伏せされているかと思っていたが、そこには炎条寺の姿も、幻花の姿さえも見当たらない。
「今のうちに帰ろう……ちょっと遠回りになるけど、大丈夫……?」
しかし、いつまた出会って長話に付き合わされるか分からない。
最短ルートの階段で帰りたいのは山々だが、荷物を持っての急な登りは腰を痛めてしまう。
「うむ、その方が良い」
ニッ怪の承諾を得て、2人は初めきた階段の左手に見える緩やかな坂道へと向かって、重い足を引きずりながら歩いて行く。
「少し良いか夏来殿」
その途中、川の上にかけられた小さな細い橋を渡っている時、不意に背後からニッ怪の夏来を呼ぶ声が聞こえてくる。
「ん……どうかしたの?」
「ほれ、誰か倒れておるぞ」
そう言うニッ怪の視線の先には、河原で上半身だけを水から覗かせながら、うつ伏せに倒れている少女がいた。
「ふぃや……た、助けに行こ!」
「そう言うと思っておった。参るぞ」
その冷静な声と物事の大きさのギャップに、夏来は思わず変な声が漏れた。
来た道を戻り、河原へと降りていく。
少女を水から引っ張り出して、柔らかい草の上に寝転がせる。
ニッ怪) 「安心せい。気絶しておるだけのようじゃ」
そこからの流れるような安否確認を終えた夏来たちは、これからどうするものかと頭を悩ませていた。
「如何致す? ここに放っておくわけには行かん。かと言って付き添うわけにも行くまい」
ビシッと親指で背後を差す。
顔だけを向けた夏来は、近所からの噂で集まって来たであろう十数人の野次馬たちの姿を目撃した。
「そ、そうだね……目が醒めるまで、家で看病しよう」
少女を担いだニッ怪は、そのまま人混みの中を通って橋へと歩いていく。
その背中を追って、夏来も荷物を持って走り出した。