私立K中学の夏の記録
以前書いていた話です。パソコンフォルダを整理していたら見つけたので投稿します。
国語
テーブルの天板を右手の人差し指でトントントントンと不定なリズムで叩いているのは、今年四〇になる畑中宗平である。
考え事をする時には、必ずと言って良いほど宗平は天板を指で叩く。学生の時についてしまった癖だ。その当時付き合っていた彼女から止めるように注意されることもあったが、一度ついてしまった癖は直ることがなかった。
開け放たれた窓からは、風の代わりに蝉の鳴き声が攻め入ってきていた。不快な音だと彼は思った。ミンミンゼミの可愛らしい鳴き声ならまだ許せるが、梅雨明け宣言を待っていたかのように泣き出したクマゼミのジーワジーワという鳴き声は、気温を一度か二度上昇させているかのように、宗平の後退し始めた額に汗の球を作った。
目の前のテーブルに広げられているのは、生徒たちの作文である。
私立K中学の国語の教師である宗平は、夏休み前に生徒に作文を書かせた。大きなテーマは『自分の将来』である。何故、彼が作文を書かせたかというと、表の理由、つまり生徒に示した『ねらい』は、『作文を書くことによって構成力や書く力、推敲の能力を身につける』であった。しかし、真の理由は、予定していた単元が早く終わって、次の単元に行くには時間が足らず中途半端な時間が余ってしまったのだ。それに、どういう原因なのか分からなかったが、彼の受け持ちの二年生の教室がある三階の空調設備が故障してしまって、クーラーが全く効かなくなったことも理由に付け加えられる。もともと暑がりの彼は、もうそれだけで生徒の前で話したり板書したり説明したりする普段の授業をやることを苦痛に感じ、そこで一計を案じて作文を書かせることにしたのだ。
しかし、作文を書かせた以上は読まなければならない。読んで一応の評価はしなければならない。もし、読まずに適当な評価をしたりすると、後々面倒な事になりかねない。そうなると自分への評価も下がってしまう。プライベートな別の仕事もしたかったが、それは後回しにすることにした。
彼の受け持ちの生徒は二学年の百六十名。四百字詰めの原稿用紙に一人あたり三枚の作文を書かせているから、単純に計算すれば四百字×三×百六十で、トータル十九万二千字を読まなければならない。それに字がきれいな生徒ばかりなら良いのだが、女子生徒の中には虫眼鏡を使いながら書いたのではないかと疑いたくなるようなミクロの文字を書く者や、男子生徒の中には砂漠の中でその暑さにのたうち回っているミミズのような文字を書く者もいる。そんな生徒の作文を読み進めていると、まるで自分が暗号を解読しているような錯覚に陥ってしまう。そして暑さによる不快感も伴って、「あー」と声を出し、頭をかきむしってしまう。もしかすると髪が抜け始めたのはそんなことも原因しているのではないかと宗平は思う。
気分を落ち着かせるためもあって、宗平は立ち上がりキッチンにある冷蔵庫に向かった。彼の借りているマンションの部屋は2LDKで、独り暮らしの身分としては充分すぎる広さである。家賃は月十二万なのでちょっと高いが、最寄りのバス停に近くて利便性が良いので宗平はこの部屋が気に入っていた。
冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出すと、宗平はその場でリングプルを引っ張り、缶に口をつけた。よく冷えた苦みのある液体が喉を潤す。
「夏はこれだな」
口に出して言ってみて、冬場にも同じようなことを言ったなと宗平は思い出した。
三百五十ミリリットルの缶を一気飲みした彼は、新たに一本を手に取ったが思い直して元に戻した。
これまで読んだ作文は二十一人分、字数に換算すると、およそ二万五千字ほどしかない。今日中に後五万字は達成したいと宗平は思っていた。すると後四十人分の作文を読まなければならない計算になる。たったビール二本で酔うことはないとは思ったが、アルコールに脳内が支配されたら、暗号解読に頭にきて、その作文用紙を破ってしまうとも限らない。 点検するためとはいえ、管理職の許可も得ずに生徒の作文を学校外に持ち出すのは御法度である。宗平は持ち出しの許可手続きをすることを面倒に思って、大きめの紙袋二つに百六十人分の作文を入れ自宅に持ち帰っていた。だから、生徒の作文を紛失したり損傷してしまう事態だけは避けなければならなかった。
宗平はテーブルのある場所に戻った。テーブルは円形のローテーブルで、天板まで床上五十センチほどしかない。その一角に四角いちょっと厚めの座布団を敷いている。そこに宗平はどっこいしょのかけ声と共に尻を降ろした。
歳を経る毎に「どっこいしょ」のかけ声を無意識に発していることが多くなった。「先生っておじいさんみたい」。そんな風に生徒にからかわれ、それからは気をつけているつもりだが、やはり声が出てしまう。そんな時、自分も歳をとったなあと感じてしまう。そして母親の言葉がリフレインする。「あなたも歳なんだから、独り身でいるのもいい加減にしたら」。帰郷するたびに言われ続けてきた言葉だ。しかし、それを解決するためには相手が必要になる。私立K中学の教師という仕事をしていると、適齢期の女性との出会いはほとんど無い。なにぶん狭い世界である。年若い同僚達が、どこで一般女性と知り合ってつきあい始めているのか、根掘り葉掘り尋ねてみたいぐらいだ。もしかすると彼らは、合コンや婚活パーティなどに出かけているのかもしれないが、自分はとてもそんな場所に出かけていく勇気はない。しかし、まだ自分は四〇歳ではないかという思いも宗平はもっている。男性のみならず、女性の結婚年齢も年々上がってきている。焦る必要はない。
宗平は生徒の作文の続きを読み始めた。
読み手の気持ちを考えて、自分が書ける最大の丁寧な文字を書きなさいと指導しているのに、約半分の生徒が、これがお前の精一杯の丁寧な文字か! と怒鳴りつけたくなるような文字を書いてくる。宗平は額に汗をにじませながら、難読文字の読解に取り組んでいった。
窓から入り込んでいた五月蠅いほどの蝉の声が、少しは緩和されたのに気づいて、宗平は腕時計を見た。
「お、もうこんな時間か」
時計の針は7時を少し過ぎたところをさしていた。
「今日は、これくらいにしておくか」
誰に言うともなく宣言して、宗平は立ち上がった。冷蔵庫に向かう。長時間あぐらをかいていたので、少し脚が痺れていた。
冷蔵庫から、先ほど我慢した今日2本目の缶ビールを取り出す。ずっと水分を補給していなかったので、ビールが喉にしみる。
「プハァ」
声に出してみて、誰がこの単語を広めたんだろうと宗平は思う。たった三文字でビールを飲んだ瞬間の爽快感を端的に表している。他の飲料には、この単語は当てはまらないとも思う。お茶を飲んで言ったりはしない。同じアルコール飲料でも、ウイスキーや日本酒などにも使わない。最も近しいアルコール飲料で、酎ハイやハイボールなどがあるが、やはりプハァという単語はしっくりこない。
「うん、うまい」
プハァという単語がうまいのか、ビールがうまいのか自分でも判然としないが、宗平は続けてゴクゴクゴクと喉を鳴らした。
マンションの外に出ると、辺りは少し薄暗くなってきていた。日中の暑さも今は穏やかになっていた。外に出てからハンカチを持ってきていないことに気付いたが、歩いていても汗ばむことはないだろうと思われた。
宗平は、このところほとんど毎日通っている定食屋に向けて歩き出した。
空きっ腹にアルコールを入れたので、ほんの少し酔っ払った感があった。それがかえって気持ちいい。
宗平のマンションから、その定食屋までは直線距離にして約百メートル、途中から旧道を通ることになる。某の街道だったというその旧道沿いには、昔からの店が建ち並んでいる。しかし、所々にシャッターが閉まったままの店があり、この一帯が寂れつつあることを物語っている。
そんな一角に、最近宗平が贔屓にしている定食屋がある。屋号は『花木や』といい、屋号だけ聞くと、花などの植物を販売している店に思えてしまう。なぜ、『花木や』なのか当初は不思議に思ったが、今となってはそんなことはどうでもいいようになった。
宗平は贔屓にしているこの店のメニューの中で、特に好んで頼んでいる品がある。鯖の味噌煮込み定食だ。宗平は、今日もそれを頼もうと道すがら思っていた。
『花木や』に近付いて、宗平は店の雰囲気がいつもと違うのに気が付いた。そして、その違いにすぐに思い当たった。『花木や』と白で染め抜いた深緑色の暖簾が出ていない。代わりに広告の裏紙に黒いマジックで、「本日、急用のためお休み致します」と書いたものが張り出されていた。
「えー、休みかよ」
宗平は呟くように毒づくと踵を返した。そして五メートルほど戻った所で、宗平は立ち止まった。
そうだ、あの店に行ってみよう。
宗平が思いついたあの店とは、今いる場所から更に百メートルほど先にある居酒屋だ。
前に一度だけ覗いたことがあったが、その時はその店で宴会でもあったのか、中年の親父達でごった返していた。何人かが同じ野球のユニフォームを着ていたから、察するに草野球の試合後の打ち上げがあっていたのかもしれない。宗平の姿を目にとめた店員らしき前掛けをつけた男性が、「いっらっしゃいませ」と声をかけてきたが、宗平は人の多さに辟易して、「また今度」と愛想笑いを返した経験がある。
今日は大丈夫だろうと宗平は思った。あの店がいつも宴会状態で人がごった返しているとは思えなかった。最悪、『花木や』と同じように店休の可能性もあるが、よほど運が悪くない限りそれもあるまいと思った。
宗平は、その居酒屋の名前は覚えていなかったが、店の入口に暖簾がかかっていた。どうやら休みではないらしい。宗平は、暖簾に染め抜かれている紺の文字を見た。『から亭』とそこには書いてあった。
ふうん、この店はから亭というのか。店の主人が空手でもやってたのかな?
そんなことを考えながら、宗平は暖簾をくぐった。
果たして店の中には数人の客がいるだけだった。以前のような喧噪はない。宗平は安心して店内に入った。テーブル席を避け、4、5人ほどしか座れないような狭いカウンター席に座った。注文をとりに来た若い店員に、取りあえず生ビールと数本の焼き鳥を頼んだ。
カウンター席と言っても、対面が厨房になっているわけでは無かった。カウンター席の目の前は棚になっており、その棚にはマンガの単行本が雑然と並べられていた。その中の一冊を手に取ってみたが、店内を漂う空気に混じった油性分が長年の間に蓄積されたのか、その本の表紙は少しべたついていた。宗平は慌ててその本を元に戻した。
「畑中先生じゃないですかぁ」
背後から親しげに声をかけられて、宗平は振り返った。そこには宗平と同じ私立K中学の同僚の猫山孝史が立っていた。
理科の教師をしている猫山は、宗平よりもちょうど一回り下の二八歳であるが、先輩後輩の関係性という感覚が希薄なのか、ともすればタメのような口の利き方をすることもある。
宗平はこの猫山が苦手だった。決して人が悪いわけでは無い。口の利き方を抜きにすれば、人当たりも良い。いつも笑顔で対応し、生徒からの受けも良い。以前、宗平がもっていた卓球部の顧問をしているが、その指導にも熱心である。遅くまで部活の練習に付き合っているのに、その後に教材研究を行って学校に遅くまで残っている。若いのに頑張っているなと感心することもある。しかし、苦手なのである。
その理由の一つは猫山の視線である。たまに気付くことがあるが、猫山が冷めた眼で自分の方を見ていることがある。
二つ目の理由は猫山の服装である。学校で授業があっている期間は、猫山は白衣を着ている。その姿は、いかにも理科の教師然としている。しかし、その白衣の下は、夏場はTシャツにハーフパンツなのである。彼に言わせると、放課後すぐに部活の指導が出来るようにらしいが、宗平はとてもそんな格好で授業をしようとは思わない。きちんとした身なりでいないと、悪い印象をもたれてしまうと考えている。同僚の中に、だらしない者がいることは嫌だったので、宗平は猫山に対して一度だけ、それとなく彼の服装のことについて注意をしたことがあったが、猫山にはその忠告が分からなかったみたいだった。その後も相変わらず猫山は白衣の下はラフな服装だった。それを知った宗平は、深いため息と共に、それ以降猫山に対して服装のことを言うのを止めた。
今、宗平の背後に立ってニコニコ笑顔を作っている猫山の服装も変だった。上のTシャツは良いとしても、下に穿いているジーンズは至る所が破れている。さすがに宗平も、その破れたジーンズが、ダメージジーンズという呼称で呼ばれているファッションの一つだと知ってはいる。しかし、何を好きこのんで破れたジーンズを着る必要があるのだと思う。「隣、いいですか? 」
そう言った猫山は宗平の返事も聞かずに宗平の横の椅子を引き出すと、そこに座った。「畑中先生は何を頼みました? 」
不躾な質問を唐突にしてきた。
「生ビールと焼き鳥だよ。それから猫山君。学校以外では先生と呼ばないようにしてくれないか」
不快感を最大にして言ったつもりだったが、猫山はやはり気付かなかったらしく、「はい、了解」とおどけたように敬礼した。
店員が宗平が頼んでいた生ビールと焼き鳥の入った皿を持ってきてカウンターに置いた。
猫山は、それをチラッと見てから、「俺もこの人と同じ物。生ビールは至急ね。乾杯するから」と店員に言った。
おいおい、お前と乾杯する気なんか、僕には毛頭無いんだぞ。
宗平はそう思ったが、水滴がたくさん付いたジョッキに手を伸ばさずにいた。
乾杯をすると言った猫山を目の前にして、それに口をつけるのは大人げない行為だと思ったからだ。そんなことをすると、あからさまに猫山を拒否していると表明していることになってしまう。
よく冷えていると思えるビールがぬるくなるのが嫌だったが、幸いにも店員がすぐに生ビールを持ってやってきた。
「乾杯! 」
ジョッキを持った猫山が言った。
「あ、ああ。乾杯」
乗り気はしなかったが、ジョッキを合わせた。
喉にビールを流し込むと、よく冷やされていたのか喉にしみた。
「夏のビールは美味しいですねえ」
先にジョッキを空にした猫山が、宗平に同意を求めているような気がした。
「ああ、そうだな」
軽く肯いて、残りのビールを飲む。
「お兄さん、生ビール2杯追加ね」
「おいおい、僕はもうビールはいいぞ」
宗平が言うと、猫山はニカッと笑って「もう一杯付き合って下さいよ」と言った。
ビールが運ばれてきて、2回目の乾杯を仕方なく行った。この店に来る前に家で飲んできていたので、ビールだけで腹が膨れるような気がした。
「ところで畑中さん。偶然、ここで会ったのも何かの導きかもしれません。俺の話を聞いてもらえませんか」
何かの導きかも、というのは大げさな感じもしたが、いつになく猫山が真面目な表情で言ったので訊く気になった。
「なんだい? 」
「聞いてくれるんですね。ありがとう」
そう前置きしてから、猫山は声の音量を落とした。
「俺のクラスの美橋凉花という生徒を知ってますよね? 」
宗平は、記憶の引き出しの中から美橋凉花の顔を見つけ出した。どこかのアイドルグループにいそうな、そこそこ可愛らしい娘だ。他の教科の成績のことは知らないが、宗平が受け持っている国語に限って言えば、テストでいつも九〇点以上をとっている聡明な娘だ。確か漢字検定試験の三級を受けて合格していた。
宗平は肯いた。
「でね、その美橋からラブレターをもらったんですよ」
宗平は、口に入れたビールを思わず吹き出しそうになった。教え子が担任教師に恋を告白するというシチュエーションは、少女が好む物語の世界ではよくあるパターンのようだ。それが、現実社会でもあり得るということなのだろうか?
でも、こいつがねえ…
宗平はまじまじと猫山を見た。
お世辞にも、もてるタイプには見えない。服装もダサいし、いくら猫山が二十八と若くても、中学生の娘が好きになる対象になるとは思えない。
美橋って目が悪かったかな?
宗平は改めて猫山を見た。
「いやだなあ、そんなにジロジロ見ないで下さいよ。僕の顔に何か付いてます? 」
猫山がそう言って、自分の顔を手でなで回した。名前の通り、猫そっくりの仕草だと宗平は思った。
「で、その恋文をもらった猫山君が僕に相談とはどういうことだい? 」
「さすが、国語の教師ですね。恋文とは言い方が洒落ている。でも、相談じゃないんです。話を聞いてもらうだけで結構なんです。その上で何かアドバイスをもらえれば」
宗平は深くため息をついた。
「猫山君、そういうのを相談と言うんだよ」
「え、そうなんですか? 俺、相談というのはもっと深刻なことを話すんだと思っていました」
「十分に深刻だろう? 中学生から好きだと告白された担任教師が、どうすればその生徒を傷つけずに断ることができるだろうという相談だろう? 難しい問題だな」
「いえ、そんな話じゃないんです」
「なにっ、まさかとは思うが、君は年端もいかない娘と付き合うつもりじゃないだろうな? そんなことをしたら犯罪だぞ」
「まさかあ、いくら俺でもそんなことをしませんよ」
猫山が笑った。
「じゃあ、どんな話なんだ。全然話が見えないが」
宗平はビールをあおった。
「たまたま、ここに美橋からのラブレターを持っているんで読んでくれませんか? 」
そう言って猫山が尻ポケットから半分に折りたたんだ封書を取り出した。
何でこいつ、わざわざ手紙をポケットに入れて持ち歩いているんだ?
訝しく思いながらも、手紙を受け取った。
「しかし、いいのかい? 仮にも私信だぞ。僕に見せたりしたら個人情報を漏らすことになる」
「生徒のためですよ」
猫山の言葉からは、空虚な臭いがしたが、宗平は封書から便せんを取り出した。便せんには何か香水のスプレーでもしてあるのか、甘い匂いが漂った。
手に持った手紙に目を落とす。美橋という生徒の字には見覚えがあった。中学二年生にしては大人びた整った字を書く。書道の有段者じゃないかと思えるほど綺麗な文字だ。彼女みたいな字を書く生徒が増えてくれたら、読み手としても楽なのにと思う。そう言えば、今日読んだ作文の中に美橋のは無かったなと宗平は考えた。このような達筆な文字で書いてある作文なら読みやすいはずだ。
宗平は手紙を読み始めた。
『もうすぐ夏休みですね。楽しみです。あっ、でも、先生は一学期の終わりだから色々忙しいですよね。お仕事ご苦労様です。』
ここまで読んで、宗平はあることに気付いた。なるほど、これは美橋なりの時候の挨拶なのだと。大人びた字だが、文章はまだまだ子供だ。
『突然こんな手紙を書いてしまって申し訳ありません。驚かないで読んで下さいね。私、先生のことが好きです。大好きです。先生は私のことどう思っていますか? 先生は私のこと好きですか?
でも、困ったことがあります。この前あった二者面談で話したとおり、私の夢はアイドルになることです。
実は先生にも話していなかったけど、あるアイドルグループのメンバーにスカウトされたんです。エヘン! (腰に手を当てて威張って立っている女の子の絵が小さく描いてある)
日本全国のみんなが知っているようなメジャーなアイドルグループではないけれど、夢が叶うんです。
それで、困ったことと言うのは、私が入るアイドルグループも恋愛禁止なんです。私はアイドルグループに入ってアイドルになります。ですから、恋愛が出来なくなります。でも、安心して下さい。私は二十六歳になったらアイドルグループを卒業しようと思っています。ですから、先生、私が二十六になるまで待っててくれませんか。お願いです。先生に私の思いを伝えたくて手紙を書きました。返事はメールでお願いします』
その後にメールアドレスが書いてあった。
宗平は便せんを丁寧に折りたたむと封筒に入れ、猫山に返した。
「で、僕にどんなアドバイスをもらいたいんだ。というより、猫山君はこの手紙が真面目に書いてあると思っているのか? 」
「美橋は、俺のクラスでも普段の生活態度も良く、しっかりした生徒です。あの子がふざけてこんな手紙を書くとは思えません」
「誰かにそそのかされて書いたとしたらどうだ? 」
「それもないと思います。芯が強い子ですから」
「じゃあ、猫山君は美橋が書いたこの手紙の内容を全面的に信じているわけだ」
猫山が「ええ」と言いながら力強く肯いた。宗平は半ば呆れながら猫山の顔を凝視した。 おまえ、まじか?
そう問いたくなったが我慢した。
「では、何が問題なんだ? 」
「俺は美橋の期待に応えたいと思っています。今は教師と生徒の関係ですが、美橋が二十六歳になったら、何の問題もありません。大人同士の関係になりますから」
宗平はビールを口に含んでいなくて良かったと思った。もし、ビールを飲んでいる途中だったら、吹き出していただろう。
こいつ、アホだったのか……
「でね、美橋は今はまだ十三歳です。美橋が二十六歳になるまでには後十三年かかります。その十三年間、俺はストイックに過ごすべきなのか、男としての欲望は我慢せずに風俗で処理した方がいいのか、それを悩んでいるんです」
宗平は椅子から転けそうになった。
もしかして、こいつは美橋と組んで僕のことをからかっているのか?
もう一度、宗平は猫山の顔をまじまじと見た。しかし、猫山の額に、嘘ですという文字が書いてあるわけでもなく、猫山の真意は分からなかった。
「それは、困った問題だな……」
宗平は一応考え込むふりをした。そして三十秒ほどして顔を上げた。言うことは三十秒前には決まっていた。
「僕には、答えが出ない。というより、これは猫山君自身が答えを見つけるべき問題だ」
重々しく言った。
「そうですかね」
猫山が肯いた。
「ただ、問題なのは、十三年間の間に美橋君の気が変わるかもしれないということだな」「それは心配してません。美橋は良い子ですから」
それを聞いて宗平はため息をついた。
から亭を出た時には、すっかり辺りは暗くなっていた。それもそのはずで腕時計を見ると時計のデジタル数字は九時三十二分を表示していた。結構長く店にいて焼酎のハイボールも何杯か飲んだが、あまり酔えなかった。全部猫山のせいだ。猫山は、その後、美橋凉花という生徒の事ばかりを話した。いくら担任とはいえ、美橋という生徒の生年月日まで覚えていることが信じられなかった。
こいつ、アホのうえに危ないヤツだったのか……
考えてみれば、好きと告白されても手を出さない、いや出せない状況下にこいつが置かれているだけマシか。
宗平は、ちびりちびりと焼酎のハイボールを口に運びながら、そう考えていた。
「今日は先輩に、こうして会えて、貴重な、アドバイスをもらえて、俺は、俺は幸せ者でした」
店の前で、少し呂律が怪しくなった猫山が頭を下げた。
僕はおまえと会って不運だったよ。
宗平は、心の中でそう毒づきながら、「じゃあ、これで」と右手を軽く挙げた。
宗平は、自宅に向かって歩きながら、猫山も十三年たったら四十一か。男の結婚適齢期は何歳だったっけ。四十一歳ならまだ大丈夫か。などと考えた。
そして、未だ独身の自分の年齢が四十歳だったという事を思い出した。
宗平は、自分の額の髪の生え際に左手を当てた。
禿げてしまわないうちに、相手見つけないとな。
ぼんやりとそんなことを考えたりもした。
どこかでニャアと猫が鳴いた。
数学
香坂利香は、利香という名前がついているが私立K中学の数学の教師である。
利香は夏休みが嫌いだ。生徒は夏休みだが、一応、教師の勤務形態は夏休みになっても変わらない。
利香の場合は、朝六時には起床し、まず最初にシャワーを浴びる。それからトーストとカフェオレだけの簡単な朝食をとる。二十分程度で化粧を施し、レディーススーツに着替えて、いつもと同じ時刻にアパートを出る。学校の門を通過するのは始業前の午前八時ちょうど、それから午後四時四〇分までが労働時間となる。昼休みに、近くの店に食事に出かけることは普段とは違うが、ちゃんと学校に来て、生徒がいる時には出来ないような仕事をこなす。それは、他の教師もほぼ同じだ。
とは言っても、この夏休み期間中に、いつもなら取りにくい有給休暇を使おうと考える教師は多いらしく、今日も職員室の中は数名しかいない。もっとも、ここに居ない教師の中には部活動の大会の引率で出ている者もいるはずだから、この場に居ない教師全員が有給を使っている訳ではない。つまり、空いている机の主は、有給をとって休んでいる者と、部活動という仕事をしている者の二択に分かれる。利香の左隣の机の主は前者だった。その机の主の名は畑中宗平といって、利香と同じ二年の生徒の国語を担当している。彼は、夏休みの間は有給をとることが多く、よく机が空いている。
「先生は、休みの間は何をされてるんですか? 」
利香は、夏休みに入る前に学年であった飲み会の時に、さりげなくそう訊いてみた。
「執筆をしてますよ。小説を書いているんです。どこかの小説大賞に応募しようと思ってね。自信はあるよ。でも、未だ誰も僕の才能に気付いてくれないけどね」
飲んで気分が良くなったのか、いつになく饒舌になった畑中が教えてくれたのを思い出す。
きっと、今頃は、畑中先生は執筆されているんだわ……
利香の空想の中の畑中は、紺の作務衣を着てあぐら座に座り、右手に太めの万年筆を持ち、左手で頭を掻きながら、ちゃぶ台の上に置いた白い原稿用紙と格闘していた。
今日で畑中と会えない日が三日続いている。畑中と会えないとせつなくなる。その原因は分かっている。つまり、利香は畑中に恋をしている。その恋心に気付いてから、利香は畑中と会えなくなる夏休みが嫌いになった。
しかし、畑中がずっと休みの筈はない。有給休暇にも限度がある。連続してずっと使い続ければ、すぐに定められた日数に達してしまう。それだから利香は、畑中と会えることを信じて、自分は休みも取らずに学校へと出向いているのだ。だからといって、ただ単に学校に来ている訳ではない。出勤したからには、ちゃんと仕事もしている。
中学二年生の二学期からの数学には、一次関数がある。この一次関数でつまずいて数学嫌いになってしまう生徒も多い。一次関数でつまずくと、当然のように三年生で習う二次関数も出来ない。だから、どのように一次関数を生徒に理解させることができるか、教師の力量を問われることになる。利香は、どう教えたらいいか、その方法を模索していた。
一次関数はY=AX+Bという式で表される関数である。YとXの関係の式をグラフに表すと直線になる。青臭い時の恋愛に似ている。お互いが幸せになると信じ、疑いもせずに、未来に向かって真っ直ぐに伸びていく。この時、男、つまりXがどうしようもないマイナスな男だったら、未来は真っ直ぐに下降線をたどる事になる。利香は、高校の時につき合っていた男のことを思い出した。この男は、どうしようもないマイナス野郎だった。利香が妊娠したことを知ると、別れてくれと泣き、自分の親を持ち出してきて堕胎するように迫った。その時、生まれて初めて殺意をもった。この男を殺して、自分も死のうかとも思った。でも、それは出来なかった。
結局、利香に残ったのは、二〇〇万円の慰謝料と、長きに渡っての男に対する不信感だった。
どうして、中学では二次関数までしか教えないのだろう、と利香は思う。YとXの関係を表すグラフが、紆余曲折していることが分かる三次関数や四次関数の方が人生に似ている。良いこともあれば悪いこともある。運気は常に上下する。そのことをグラフで理解させることが出来るのだ。そう考えると、数学という教科は、何と素晴らしい教科なのだろうか。
そうか、今この時期だから一次関数なんだ……
と、利香は思い直す。馬鹿正直に未来を信じれる、中学二年のこの時期だからこそ一次関数なんだ。三年になって習う二次関数では、落ち込むこともあるが努力すれば報われるというネバーギブアップのグラフを目にする。発達年齢に合わせて、段階的に教授するようになっているのだ。
では、自分と畑中との関係は、何次の関数で表すことができるのだろう? と利香は考える。座標が交わる共有点は幾つかある。同じ私立K中学の二年生担当の教師だということ。飲み会の時に訊いて知ったが、畑中と自分の星座が蠍座だということ。同じ干支だということ。ただし、この干支に関しては同じだが少しの違いがある。畑中の方が一回り年下だ。
十代のあの事をきっかけにして、男性不信に陥り、ずっと独身を通してきた。畑中にとっては迷惑なことかもしれないが、畑中の生真面目な人柄にふれることで、やっと恋心をもつことに前向きになれた。彼なら人を簡単に裏切れないだろう。
一方的な思いでも構わない。
でも、夏休みの間に一度だけ勇気を振り絞ろう。
利香は、そんな決意をしていた。
「やあ、香坂先生。今日もまじめにお仕事ですか」
背後から声をかけられ、利香が振り返ると、そこには笑顔の畑中がいた。
胸がキュンと高鳴った。
社会
歴史の中に戦国時代という時代区分はない。諸説あるが、室町時代の終期から安土桃山時代にかけてを戦国時代と呼称することが多い。
尾田雅人は、社会科の中でも、歴史を教えるのを好んでいる。その中でも特に、戦国武将が群雄割拠している時代を教える時に熱が入る。戦国時代は、下克上の時代だからだ。
雅人は下克上という言葉が好きだ。下にいた者が上の者を討つ。何とも痛快ではないか。
雅人は、小学校から中学校に入るまで、いじめにあった経験をもっている。小学三年生になった時から唐突に始まった雅人に対しての数人の同級生からのいじめは、担任の女性教師の指導も効果無く、徐々に他の者へと拡大していった。
雅人は甘んじていじめを受け続けていた訳ではなかった。いじめる側への教師の指導は全く役に立たないことを悟り、自分が強くなろうと決意した。自分が圧倒的な力を持てば、いじめは無くなると信じた。
そこで、雅人は密かに空手を習い始めた。雅人が習いに通ったのは、個人の師範がやっている空手道場で、実践的な技も教えてくれた。
中学に入って間もない頃、最初に雅人をいじめ始めた首謀者の同級生が、雅人を呼び出し、雅人に対して難癖をつけて金品を要求してきた。遊ぶ金が欲しかったのかもしれない。雅人は、それを断った。すると、その同級生は怒りをあらわにして殴りかかってきた。その頃には、雅人は空手が上達していた。同級生の拳をこともなげに避け、殴ってきた右腕を掴んで逆にひねり上げた。同級生は「いててて」と言いながらも、「てめえ、離せよ。殺すぞ」と虚勢をはった。雅人は、その言葉を聞いた途端、ひねり上げていた腕の間接を、もう一段階、上にひねった。ボキッと音がして、腕の骨を折られた同級生は「ぎゃあ」と悲鳴をあげた。「殺される前に、殺してあげるよ」同級生の耳元でそう囁くと、同級生は「ひい」と小さい悲鳴をあげて、ズボンの股間に染みを作った。
それ以来、雅人は変わった。恐れるものが何も無くなった。
幸いにも、雅人に腕の骨を折られた同級生は、教師にそのことを言わずに、自分で転んで骨を折ったと報告したので学校から何のお咎めも受けなかった。おそらく彼は、弱いと周りから認識されている雅人に勝負を挑んで負け、雅人の脅しに失禁までしてしまったことを恥ずかしく思ったのだろう。廊下ですれ違う時も、怯えたように目を伏せ、身体を小さく震わせながら通り過ぎていった。雅人が以前していたようにだ。力関係が逆転していた。それはまさに、下克上を雅人が体感した瞬間だった。
それ以来、雅人の学校生活は快適なものとなった。自信に満ちあふれた雅人のオーラを感じるのか、誰も雅人をいじめようとしなくなった。余計な心配や不安感で頭に入らなかった勉強も、面白いように進んだ。一年の間に、雅人は学年のトップクラスの成績をとるようになった。
中学二年の時に歴史で習って下克上という言葉を知った。その時、雅人は、この言葉は自分のために作られた言葉だと感じた。下克上=尾田雅人という式が成り立つと思った。そして下克上という素晴らしい言葉を、もっと世の中に知らしめるべきだと思った。自分が変われたのは、力と自信をもったからだ。力と自信さえもてれば、上にのさばっているやつらも一蹴できる。そのことを子どもたちに知らせる伝道師になる。雅人が職業として社会科の教師を選んだのは、こんな単純な動機からだった。
しかし、いざ社会科の教師になってみると、歴史のいわゆる戦国時代の部分ばかりに時間をかけることが出来ないことが分かった。中学の一年生から三年生までの間に、地理と歴史と公民を教えなければならない。どこかに時間をかけすぎて、教えてないところが入試に出たりしたら問題になる。熱を入れて教えることがあっても、時間配分は間違えてはいけない。
「尾田先生、夏休みが始まったばかりというのに、もう二学期の準備ですか? 」
午前中の部活動の指導が十一時に終わり、その後、昼食をとるのも忘れて社会科資料室で教材づくりをしていると、部屋にのそりと入ってきた田沼利勝がテーブルの上に広げていた資料をのぞき込んだ。
雅人は、この田沼利勝という英語教師が嫌いだった。いつも好き勝手な振る舞いで休みも多く、生徒からの信頼も乏しかった。雅人にとって尊敬に値しない男だった。今が戦国の世なら真っ先に切り捨ててやるのだがと思ったこともある。
田沼は髪の毛はふさふさで、目立つ白髪もほとんど無く若く見えるが、確か来年、還暦を迎えるということを飲み会の席で聞いた覚えがある。つまり、ちょうど雅人は三十歳年下になる。年上だからといって、そんなに気を遣う必要はないと雅人は思っているが、社会人としては、そうも言っていられない。
「ええ、なかなか普段は忙しくて出来ないですから。夏休みに準備しておこうと思って」
雅人は資料の方から目を離さずに言った。僕は忙しいんですから話しかけないで下さい、という気持ちを態度に込めたつもりだった。
「ところで君は、猫山先生のクラスの美橋凉花という生徒を知っているか? 」
雅人は頭を上げた。もし生徒指導上の大事な話なら、聞き逃す訳にはいけないからだ。雅人は田沼の方に向き直った。
「その美橋という生徒がどうしたんですか? 」
雅人は美橋の顔を思い出しつつ訊いた。顔が浮かんで、「ああ、あの娘か」と思った。確か、自分はアイドルになると周りに吹聴している娘で、確かに可愛い娘だ。可愛さの中に聡明な雰囲気も含まれており、他の教科の成績は知らないが、雅人が教えている社会科の期末考査の点数は九〇点以上を取っていたはずだ。
「その美橋がな、転校するんだそうだ。東京の方に」
「どういうことですか? 美橋という生徒が転校することに何か問題でもあるんですか? 転出手続きなら、僕は彼女の担任でもないから遠慮しますよ。猫山先生にお願いしてください」
「そんなことじゃない。美橋が転校する理由が変わっているんだ」
「保護者の転勤か何かでしょう? 」
「いや、転校する理由は、彼女自身のことだ」
「何か生徒指導上の問題でもあったんですか? 」
「いや、一応、そんな問題はない」
じゃあ、何なんだよ!
そう思ったが、口には出さなかった。
「美橋はアイドルグループに入るんだそうだ。そのために上京するので転出するということだ」
美橋という生徒が、自分の夢が叶って東京に行くことは分かったが、そのことを何故話す必要があるのか。
雅人は、話かけてきた田沼の真意が計りかねていた。
「それで、美橋の転出理由は分かりましたが、そのことを先生が僕に話したのは何故なんですか? 」
「深い意味はない。だがな、生徒たちの間で妙な噂がたっているんだ」
「妙な噂? 」
「美橋と付き合っている教師がいるらしいという噂だ」
嘘でしょう。そんな噂を信じるんですか? 相手は子供ですよ。ましてや中学生と付き合うようなことをしたら身の破滅だ。そんな教師がいるもんですか。
そう思ったが、言うのを止めた。もしかするとあり得るかもしれないと思い直したからだ。火のない所に煙は立たないという言葉があるとおり、そんな噂が出た以上、真実か、真実に近い何かがあるのかもしれない。
「だからな、あくまでも噂だから直接美橋を呼んで訊くこともできないだろう。その噂がアイドルになる美橋を妬んで、美橋を貶めるために仕組まれたものだったら、こちらもその悪巧みにまんまと乗せられたことになってしまうからな」
「そうですね」
「だが、もし、この噂が本当だったら、後々色々と大変なことになる。美橋は転校してこの学校からいなくなるが、そのことでかえって噂に悪い尾ひれが付くかもしれない。そこでだ。尾田先生に頼みがある。この噂が本当かどうか確かめてもらえないか。幸いにも君のもっている部活は女生徒が多い。明日も午前中は部活動で生徒が集まるだろう? 生徒たちにそれとなく探りを入れてくれないか? 」
「えっ? 」
雅人は、突然の依頼に驚いた。そして、そんな頼みをした田沼の顔を呆れた顔で見ながら。田沼が生徒指導の係をしていることを思い出した。
自分の仕事なのに、やっかいなことを人に押しつけやがって……
少し、怒りの感情がこみ上げ、それを押さえ込もうとして深呼吸した。深呼吸したせいか空腹だった胃に影響があった。
腹が、グウと鳴った。
理科
猫山孝史がなりたかったのは、本当は理科の教師ではない。子供の頃の最初の夢は宇宙飛行士だった。
小学校の高学年になると宇宙飛行士にどうやったら成れるかを調べ、自分に宇宙飛行士の条件に欠かせない体力面に難があると分かって、早々とその夢を諦めた。
次に孝史が成りたいと思ったのは、ホーキング博士みたいな宇宙の仕組みを紐解く科学者だった。でも中学生になって読んだホーキング博士の本はちんぷんかんぷんで、全く理解できなかった。それでも勉強していくうちに分かるようになるだろうと思って、理科の勉強を続けたが、宇宙を解明するために必要な学問である理論物理学に対する興味は、徐々に薄れていった。ただ、今まで学習し続けてきた理科の学習を無駄にしたくないと孝史は考えた。孝史が、最終的に選んだのは、何かの足しになるかと思って単位を取っていた教職課程が生かせる教職への道だった。運が良いことに、知り合いから、この私立K中学を紹介され、面接を受けたところ、採用されて教師になることができた。
ただ、当初は教職を目指していたわけではないので、教師としての使命感は持ち合わせていなかった。生徒に理科という教科の学習を教え、その代償として給料を貰う。その日々を過ごしてきた。クラス担任も任されたが、クラスの生徒に対して特別な思い入れもなかった。孝史が勤めている私立K中学は、名門ではないがそこそこの進学校で、生徒指導上の問題もあまりなかった。楽と言えば楽な職場である。
しかし、生徒たちと関わってきた日々が、孝史の気持ちに変化をもたらした。教えることへの喜びを感じるようになり、教師としての仕事が楽しいと思えるようになった。
教材研究を毎日遅くまでするようになって、孝史の受け持っている理科の授業が分かりやすいと生徒たちからの評判も良くなった。
そして、何故かしら女生徒たちからもてた。考えられる要因としては、先ず孝史の年齢が若いことと、男性アイドルグループの誰それに似ているということがあげられた。部活動の指導にも熱心で、部活顧問をしている卓球の指導法にも優れていた。ただ、学校に着てくる服装には無頓着で、どちらかと言えばだらしなかったが、そのことも女子達の母性本能をくすぐるのか、孝史のファンが増えていった一因となった。
孝史自身も、自分が女生徒たちから好意をもった眼で見られているのは分かっていたが、なにぶん相手は中学生であり、自分の恋愛の対象になり得ないことは十分承知していた。 夏休みも近い七月の初旬に、孝史の勤務する私立K中学では、全学年の生徒を対象に二者面談が行われた。孝史も二年五組というクラス担任をもっているので、約五日間、放課後にクラスの生徒の二者面談を行った。進学校というだけあって、生徒たちの悩みは主に進路や学習についてのことだった。
そんな中で、美橋凉花という女生徒の相談は変わっていた。自分はアイドルになる夢があって、その夢が叶いそうだと嬉しそうに一方的に話した。何か相談するようなことはないのかと、孝史が尋ねると、美橋という生徒は自分の顎にグーの形にした右手を当てて、少し首を傾げ、「うーん。事務所の方針で恋愛禁止なところかな」と言った。孝史が、「それは相談されても困る問題だな」と苦笑いしながら言うと、彼女は、「先生にも関係する話かも」と笑った。孝史は彼女が言った意味が分からず、それを問うたが、その時は曖昧にはぐらかされたのだった。
孝史が、美橋涼花が言った意味が分かったのは、それから一週間後のことだった。
さて帰ろうと職員玄関の自分の下足箱を開けた時、その手紙に気付いた。女の子が好んで使うようなキャラクターのついた封筒が、孝史の下足の上に置いてあった。封筒の裏表を何回も見たが、宛名も差出人も書いてなかった。孝史は訝しがりながらもそれを自分の鞄に入れ、自宅に持ち帰った。
孝史の自宅は、学校の近くのバス停からバスに乗って六停目の停留所で降りて約五分も歩けば着く。小高い丘の上に建つワンルームマンションが、彼の住まいだ。坂を上らなければならないので、マンションに着くまでに必ず軽く汗をかく。
部屋に入ると、孝史は先ずシャワーを浴びて部屋着に着替えた。彼の部屋着はスウェットの上下だ。夏でも冷房を効かせてスウェットを着る。その格好でいることが、孝史は一番くつろげると思っている。
独り身に不相応な大容量の冷蔵庫から、三五〇ミリリットルの発泡酒を二本まとめて取り出す。部屋の窓際に置いた一人がけのソファーに腰掛け、一本目の発泡酒を喉に流し込んだ。一分もかけずに一缶を飲み干すと、続けざまに二本目に手を伸ばしたところで、ふと思い立って孝史は立ち上がった。玄関に行き、壁の横に置いてきた通勤鞄から、あの封筒を取り出した。もう一度、封筒の裏表を見る。さっき見た時、職員玄関が薄暗かったので見落としたかもしれないと思ったからだ。だが、やはり宛名も差出人も書いてなかった。
ソファーに戻る前に、キッチンに置いてあるハサミを使って封筒の端を丁寧に切り中から便箋を取りだした。微かに香水の匂いがした。ソファーに腰掛けると、畳んであった便箋を広げて読み始めた。
翌日、孝史は学校に行くと、自分の担任クラスの家庭環境調査簿を職員室前方に置いてあるキャビネットから取り出した。自分の席について、家庭環境調査簿のページをめくる。 美橋涼花のページを開くと、そこに記載されている美橋凉花の生年月日を頭にたたき込んだ。365分の1確率で、偶然当たってしまう可能性を避けるためだ。その後、元あった場所に家庭環境調査簿を返しに行った。
返すがてら、孝史はチラと国語の教師の畑中宗平を見た。本日の授業の板書計画でもやっているのだろうか、まじめな表情で何やらノートに書き込んでいる。孝史は彼の服装に注目した。いくら職員室内がクーラーが利いているとはいえ、今日も長袖のワイシャツにきちんと紺色のネクタイを締めている。
クールビズという言葉を知らないのか?
孝史は、あまりにも生真面目すぎる格好の畑中を心の中で嘲笑した。今日は、畑中にとって、とても暑い一日となるはずだ。それにつき合わなければならなくなる二年生の生徒たちは可哀相だが、それは畑中が二年生の担当だったという運命だと諦めてもらうしかない。
まあ、理科棟での理科の授業の時は、クーラーが利いているから良しとしてもらおう。 孝史は、畑中から視線を外し、口角を上げた。
教室の空調設備については、職員室内で一括管理されている。生徒が勝手にクーラーを起動させたり、温度調節を自由に設定することをさせないためだ。特に温度設定を自由にしてしまうと、北極並みの温度にしてしまう生徒も出てきてしまう。そのため、孝史が務めている私立K中学では、一年前から、一括管理が出来るようにと、業者に頼んで工事をしてもらった。つまり、一括管理をしている職員室内にあるコントロールボックスに何かしらの不具合が起きると、フロアによっては空調が効かなくなってしまう場合もある。理科の教師である孝史にとって、そのコントローラーにちょっとした細工をするぐらいは造作もないことだった。昨日学校を出る前にその作業を行った。学校を出るのが一番最後だったので、誰にもその作業を見咎められることはなかった。
孝史にとって、畑中という教師は尊敬に値しない人物だった。いや、尊敬に値しないというだけではなく、嫌いだった。
まず、畑中は部活動の顧問を何もしていない。五年ほど前は、今、孝史が受け持っている卓球部顧問をしていたみたいだが、個人的な理由ということで辞めていた。孝史の務める学校は、部活動の数が少なくて顧問の人数も事足りていたので、畑中が辞めたことでの弊害はなかったみたいだが、その年にこの学校に勤めることになった孝史にとっては、大きな支障となった。
孝史は学校に勤めることになったら、部活動の顧問を持ちたいとかねがね望んでいた。自分の好きなことを生徒と一緒に楽しめると思っていた。中学、高校時代に硬式テニスをやっていた孝史は、中学校としては珍しく硬式テニス部があるこの学校で、硬式テニス部の顧問になれるとばかり思っていた。ただ、硬式テニス部には、すでに以前から顧問をしている三年職員の橋田教諭がいたので、副顧問という形になるかもしれない。まあ、それでも良いかなと思っていた。
部活担当の係の教師から、卓球部の顧問をやってくれないかと打診されたとき、新採ということもあり、仕方がないと諦めた。それが月日が経って、畑中が元顧問ということを知り、何で彼が卓球部の顧問を辞したのだろうと疑問に思った。身体的な事情か、もしくは家庭的な事情があるのだろうと思っていた。それが周りからの噂で、彼が執筆活動の時間を確保するために顧問を辞めたらしいと知った。真意のほどは確かではなかったが、最近あった学年の飲み会の席で、畑中がそういった話をしているのを聞いた。ただ、その時、畑中は応募に出す小説を書いている云々を話していたが、小説というのは虚偽で本当は畑中が書いているのは、中学教師を対象とした教育論文だということを何人かの若手の同僚から聞いて知った。
畑中が小説と言ったのは、おそらく畑中の見栄だろう。教育論文と小説では、それが採用される確率は、小説の方が格段に低いと孝史は思う。つまり、教育論文が採用されなかったら恥だが、小説が選ばれないのは、最初から狭き門であるのだから仕方がないという言い訳が立つからだろう。
では、何のために畑中が教育論文を書いているのか。ここから先は孝史の全くの憶測でしかないが、畑中は中学の教師でいることより、上級学校への転職を考えているのではないだろうか。例えば、何年か前にこの学校の教師から某大学の准教授になったというF先生のように。
F先生も、彼が行ってきた『生徒が夢をもてるための学級集団づくり』という実践的な教育論文が元で、大学側に誘われたと聞く。その二番煎じを畑中が狙っているのではないのかと思う。
F先生が研修会の講師として招かれて来た時、そのF先生を見ていた畑中の表情には、確かに羨望と妬みの感情が宿っていたと孝史は思う。
畑中がどのような野望をもって活動しようが、それは彼の自由だ。それについては孝史も重々理解している。しかし、何か腑に落ちない。畑中の自分勝手な行動が、自分に不利益を与えたという感は拭えない。
何がと誰かに訊かれでもしたら答えに窮するだろうが、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』ということわざもあるように、最近は畑中の一挙手一投足までもが嫌悪の対象になってきていた。
畑中はいつも白いワイシャツに紺色のネクタイというスタイルを崩さない。そこにも畑中の考える教師像というものが見てとれる。教師はこうあらねばならないという思いこみが根底にあるのだと思う。孝史には、それが、形式にはまってしまって抜け出せない、面白味のない人間に見えてしまう。そんな面白味のない教師に育てられる生徒を気の毒に感じる。
その形にはまった畑中の行動は、孝史が空調設備に細工を施し、二年生の教室でクーラーが効かなくなったこの日も表れた。
他の二年担当の教師が、クーラーが効かない教室での授業を早々と諦め、クーラーが効く他の階の空き教室や図書室などへ、生徒を移動させての授業に切り替えたのに、彼の教科の国語だけは、そんなことをせずに、暑い教室で行われた。放課後、生徒たちが不満を口々に言っていた。大半が、クーラーが効かなかったことへの不満ではなくて、他の教師がクーラーの効く場所へ生徒を移動させたのに、くそ暑い中、作文を書かせた畑中への非難だった。
それを聞いて、孝史は、昨日思いついた、もう一つの計画も実行する気になった。畑中を陥れることは、ひいては生徒のためになると思った。
その計画には美橋涼花という生徒をダシに使わなければならないが、彼女は夏休みに入ったら転出するので、彼女に被害が及ぶことはないだろうと孝史は思った。
彼女が書いた手紙をちょっと利用させてもらうだけだ。事が済んだら燃やしてしまえばいい。証拠を無くしてしまえば、知らぬ存ぜぬで通してしまえる。美橋自身も手紙を焼却処分することを望んでいる。
あと必要なことは、偶然を装って校外で畑中に接触するために、彼の生活パターンを把握することと、ちょっとした噂を生徒たちへ発信することだけだ。
いつもなら部活の指導を行うのであるが、今日は休部することを生徒たちに伝えた。そして、畑中に続いて退校した。
孝史の目の前、五〇メートル先ぐらいを畑中が歩いていた。孝史は、畑中に気付かれないように後をつけた。
歩道に植えられた木々から蝉の鳴き声が聞こえていた。
本格的な夏も始まったばかりだというのにもう力つきたのか、一匹の蝉が孝史の足下に落ちてきた。そして地面で激しくグルグル回転した。
力尽きる前に、蝉がビーーと鳴いた。
英語
ネイティブの人間には、どうあがいても勝てはしない。発音でもそうだし、スラングを含む英単語の語彙量でもだ。
「まったく不公平すぎる! 」
英語教師の田沼利勝は、授業をする時、いつもそう思う。利勝の務める私立K中学も英語のチームティーチング、通称TTが行われている。メインの授業者である利勝と、その補佐的な役割として、英語が母国語の外国人、通称ネイティブスピーカー(NS)のジェシカで英語の授業をしている。
一応その日行う授業の組み立ては利勝が行うが、授業のほとんどはジェシカ主導で行われていく。
NSのジェシカは、アメリカのカリフォルニア州出身で、歳は確か二十五・六と若く、陽気で明るく、とても愛くるしく可愛いので、生徒たちに人気があった。おまけにどこで覚えたのか知らないが、日本語をとても流暢に話し、生徒の日本語での質問にも難なく答えることができた。平たく言えば、形式的にはTTの形をとってはいるが、ジェシカ一人で授業を行っても何ら支障はないのだった。事実、利勝が有給を取った日には、ジェシカが一人で授業を切り盛りしていた。
利勝は来年還暦を迎える。利勝の務めている私立K中学も、公立にならって六十歳が定年になっている。ただ、定年で仕事を辞めてしまうと、年金がもらえるようになるまでの生活が大変になる。利勝は再雇用をしてもらう腹づもりでいたが、それが出来なくなるのではと危惧していた。それは、ジェシカがNSとしてではなく、正規の英語の教師として教壇に立っても良いのではないかと、学校の経営者である理事長が、校長に話していたというのを小耳に挟んだからである。
定年までは解雇されるようなことはないだろうが、再雇用となると危うくなる。
しかし、生徒指導のような大変な仕事は、俺しか出来ないぞ
そう思い込むことで、利勝は自尊感情を唯一保っていた。生徒指導の仕事を完璧にこなすことで、自分の価値を再認識させることができたら、再雇用という道も容易に開けると思っていた。が、それが他の教師の目からは、今のこの中学なら誰が任されても問題ない係分掌だと認識されていうことには気付いてなかった。
そんな時、利勝は、生徒の噂話を偶然耳にした。
ある週間漫画雑誌の発売日に、利勝はコンビニにいた。いつものようにキャップを被り、マスクをして、その日発売された漫画雑誌を立ち読みしていた。一週間に一度の習慣である。大学の時から読み続けてきた漫画雑誌であり、続きをチェックしなければ気が済まなかった。かといって、いい年をした大人が漫画雑誌を購入することには抵抗があった。それに、漫画雑誌に使う金を、近年高くなったタバコ代に回した方が得策だと思っていた。
コンビニは午後一〇時を過ぎていたので、お客もそんなにいなかった。利勝は気兼ねすることなく漫画雑誌を読み進めていた。
すると、見覚えある制服を着た学生たちが、話しながらコンビニに入ってきた。K中学の生徒だった。なぜ、こんな所のコンビニにこの子たちがいるんだと一瞬思ったが、おそらくこの近くにある大手の学習塾に通っているのだろうと察しが付いた。その帰りなのだろう。帽子とマスクで変装しているとはいえ、生徒に見付かると何かと面倒だと思った利勝は、そそくさとコンビニを出ようとした。
その時、生徒の噂話を聞いたのだ。
「えー、それって本当」
「本当らしいよ。うちの学校の生徒が先生とつき合っているらしいって」
「どこからの情報? 」
「私は、ミホから聞いた」
その後は、生徒たちもそんな噂話をすることがやばいと思ったのか、ひそひそ話になったので聞き取れなかった。
でも、これが事実なら大変なことになる。もし、この話が公になったら、この学校は大打撃を受けてしまうだろう。社会通念上、絶対に許されることではないし、世間からのバッシングもあるだろう。そうなる前に、この事案を解決することができれば、理事長たちは自分に感謝し、彼らに恩を売ることによって、再雇用の道も開けるに違いない。まさに自分を救うために、天が配慮してくれた道筋だと思った。
利勝は、その噂について調べ始めた。利勝が生徒指導係という立場であることは、生徒たちにも認識されている。節目に行われる全校集会の時に、生徒の前に立って学校生活全般について訓示を垂れるからだ。生活指導という立場を利用すれば、生徒から話を聞くことは容易かった。それに、生徒たちは、自分に利害関係がないことについては、隠し立てすることなく素直に話してくれる。むしろ、興味津々に、自分が知らなかったことを利勝から聞き出せるのではないかと思っているのか、目を輝かせて話す生徒もいた。
夏休みに入って、その噂話に真実味が帯びてきた。教師とつき合っているらしいという生徒の名前が分かったからだ。その話をしてくれた生徒によると、スマホのライン上に、噂になっている生徒の名前が書き込まれたからだという。教師の名前は書き込まれていなかったが、生徒の名前はリョウカというらしい。
それが分かると、利勝はパソコンで、学校のデータベース上に保存されている生徒詳細を閲覧した。検索すると、リョウカという名前は一件だけヒットした。二年五組に在籍している美橋涼花という女生徒だった。彼女は学校の部活動には所属していなかったが、校外活動でダンススクールに通っていた。進路の希望では、最終的に芸能界で活躍することだった。生徒指導で問題にあがったこともない。生徒写真を見ると、彼女が望むとおり、芸能界での活動も期待できそうな可愛い娘だった。
利勝は、すぐにでも美橋という生徒を呼びだして話を訊こうとして思いとどまった。もしこれが、美橋という生徒を貶めるために仕組まれた質の悪いイジメだったら、自分もそのイジメに加担してしまうことになる。それは避けなければならない。どうすればいいか考えあぐねているうちに美橋という生徒は転出してしまった。彼女が転出してしまうと、このスキャンダラスな事件も雲散霧消してしまう可能性が高かった。
しかし、週末に男が会いに東京へ行くという場合もある…
あくまでも、自分がこの事案を解決しなければならないと焦っていた利勝は、無理な理由付けをして、更に調査を続けようと考えた。
利勝は、生徒本人に訊けないなら、教師に探りを入れてみようかと思った。
最初に思い浮かんだのは、美橋という生徒の担任である猫山だった。若い猫山は女子生徒にも人気があり、充分に恋愛の対象としての範疇にあると考えた。しかし、猫山にへたに話をして、彼を怒らせてしまった場合、事態は悪い方へ向かうことが予測できた。最悪の場合、その話が美橋という生徒の保護者に伝わり、学校へクレームがくることも考えられる。それは避けなければならなかった。
次に思い浮かんだのは、社会を教えている尾田だった。教科の授業を行っている以外には、美橋という生徒ととの関わりはなさそうなので大丈夫だと思った。しかし、彼も年若い教師なので、美橋の恋愛の対象としてなりうることは考えられた。
その時、利勝は良いアイデアを思いついた。自分が直接動くのではなく、尾田が噂になっている教師ではなかったときには、彼に真相を探させるのだ。そうすれば、考えられる色々なリスクを減らすことができる。
利勝は、尾田が教材づくりをしている社会科資料室に赴き、彼に声をかけた。
「尾田先生、夏休みが始まったばかりというのに、もう二学期の準備ですか? 」
そう声をかけた後、利勝は尾田の反応を見ながら、少しずつ鎌をかけながら話をしていった。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
話が済むと、利勝は片手を挙げて社会科資料室を出た。
廊下を歩いていると、夏休みに入るとすぐに県外出張に出た教務がスイッチを切り忘れていたのか、チャイムのスイッチが入る僅かな機械音がした。
それは、生徒のいない校舎内に空しく、キンコンカーンコンと鳴った。
道徳
「やっぱりね」
美橋涼花は、自分の部屋のベッドの上にうつ伏せになって、スマホを見ながらそう呟いた。予想していたとおりで、やっぱりねと思う反面、ちょっとシャクに障る。自分の告白に対して、猫山が大人としての冷静な対処をしてきたからだ。しかし、告白といっても、自分も計算尽くでやった偽の告白なのだから、ある面仕方がない。
涼花は、夏休みに東京の学校に転校することになっている。涼花をスカウトした芸能事務所が、転校先の学校も紹介してくれた。今、涼花が通っている私立K中学は進学校で、その中で上位の成績を収めていたので、難なく転校できることになった。新しく入ることになる学校は私立の中高一貫校なので当分の進路の心配はない。芸能活動をしている生徒も何人かいて、そのような活動にも理解を示してくれているという。また、スポーツ関係にも力を入れていて、地方から優秀な生徒を集めている。そんな地方から上京した生徒のために、寮も完備している。涼花も、その女子寮で親元から離れて一人暮らしを始めることになる。少しセンチメンタルな気分になるかもしれないが、自分の目標のためには仕方がないと思う。
涼花は、自分が芸能界で有名になれると確信していた。ただし、ピンの活動ではなくてグループとしての活動なので、グループ自体が有名にならないといけないのだが、涼花は自分がそのグループに所属していることで、グループも有名になると思っていた。 涼花は、自分がアイドルとして有名になった後のことも妄想した。有名になって、色々なテレビ番組に出演している自分がそこにいた。
もしかするとバラエティ番組で、懐かしい人との御対面企画があるかもしれない…
そう思いついた涼花は、その相手を初恋の人にしようと考えた。
実際には、まだ涼花は初恋を経験していない。将来、アイドルになる自分にふさわしい相手は周りにいないと思っていたからだ。
初恋の相手は、片思いだったことにしておこう…
その方が、将来の自分のファンの人たちに余計な心配をかけなくて済むと考えたからだ。しかし、もし相手に番組に出演してもらうとなると、同級生や、あるいは先輩の中から、その相手を選んだとしたら、後々面倒なことが起きないとも限らない。
誰かいい人いないかな…?
そんなことを考えていた時、小学校からの友人と学食で偶然隣り合わせになった。お昼を一緒に食べながら話をしている時に、その友人が「いいなあ、涼花は猫山先生のクラスで、私なんか畑中が担任だよ。堅苦しくて息詰まりそう」、と言った。その時、涼花は自分の担任の猫山が女子から人気があることを思い出した。
そうだ、猫山にしよう…
クラス担任に初恋をした生徒の自分。めっちゃ可愛らしいく思える。おまけに猫山はルックスも良く、テレビに出ても、そこら辺の芸能人と比べても見劣りしないだろう。
その時にまだ猫山が独身の方が良い。なぜなら結婚していれば、猫山に生活臭が感じられてしまうからだ。自分の父親を見てもそう思う。家庭生活につかれてくたびれている。だから、猫山が独身でいることが望ましい。
「なるほど、涼花ちゃんが片思いしたのも頷けるよね」
そう言っている司会者の声が聞こえた気がした。
更にエピソードの一つとして、上京する前に思い切って告白したことにしておこうと思いついた。そのためには真実味を出すために、実際に告白しておかなければならない。それに、結婚しないで待っていて欲しいとお願いすると、そうしてくれるかもしれない。涼花は神的なアイデアだと思った。
ただ、面と向かって告白すると、それが演技だと言うことが猫山にばれてしまうかもしれない。あと考えられる方法としては、メールやラインだったが、自分が書いた告白文が拡散してしまう恐れもある。それにくわえて涼花自身が、メールやラインでくだらないやりとりするのを好んでない。夜遅くまで、そんなやりとりをしているのか、寝不足の顔をしている同級生を見ると、「馬鹿みたい」と思う。だから、涼花はどのライングループにも入っていない。
そんな理由もあって、古風な手紙という手段をとった。そして、その手紙には、「読んだら必ず燃やしてください」という付箋を貼り付けた。
手紙を猫山の下足箱に入れた翌日、手紙の最後に書いていたメアドに、猫山からの返事が来た。もう一度、読み返してみた。
『手紙ありがとう。とても丁寧な字で書いてあって感心したよ。ところで僕の返事だが、僕も美橋のことが好きだ。でも勘違いしないで欲しい。好きだというのは生徒として好きだということだ。美橋は素直で良い子だと先生は思っている。だから、美橋に対して好感をもっている。ただ、その好きは恋愛の対象にはならない。ごめんな。美橋もこれから色んな人との出会いがあり、素敵な男の人とも巡り会うだろう。そんな時、なぜ、僕みたいな男を好きになったのだろうと思うかもしれない。だけど、それが青春なのかもしれないな。美橋にはこれから芸能界に入って活躍するという目標があるのだから、しっかりと自分の目標に向かって頑張ってください。先生も応援するよ』
「チョーむかつく」
涼花は声に出して言った後、スマホの電源を切った。
リモコンを使って部屋の照明を消すとベッドの上に仰向けになった。
眠るために目を閉じる。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
総合的な学習の時間
*
「尾田先生、あなたのとった軽率な行動が、保護者の間で話題になっていることを知っていますか? 」
夏休みも後半にさしかかった頃、尾田雅人は教頭の立川薫から校長室に呼び出された。校長は長期の出張に出ていて不在だったので、校長室には尾田と立川教頭しかいない。
立川教頭は、この学校で教頭になる前は、民間の会社で課長職を務めていたというやり手の女性だという。前の教頭が退職した昨年の春から教頭としてこの学校に勤めている。彼女の管理手腕が買われてヘッドハンティングされたという。ただし、それは建前の事由で、流れてくる噂では、彼女は前の会社でリストラの対象者にあがっていたそうで、彼女の伯父にあたるこの学校の経営者である理事長が、それを見かねて教頭に抜擢したというのが実情らしい。
下克上の精神を好む尾田にとっては、何の苦労もなく教頭の地位についた立川教頭のことが、以前から気にくわなかった。それが応答にも表れた。
「何のことでしょう? 意味が分かりませんが? 」
パイプ椅子に浅く腰掛けていた尾田は、校長室の横の壁にかけてある、学校を空撮した写真を見ながらぶっきらぼうに答えた。
「本当にお分かりになりませんの? 」
立川教頭は、尾田のふてくされた態度に気付きながらも、淡々とした口調を崩さない。「ええ、問題があるなら早く言ってくれませんか。僕は今日は午後から休みなんですから。有給休暇の申請は、以前からしています。午後に用事があるんですよ。忙しいんです」
尾田のイライラした感情が、強い口調になって表れた。
「まあ、そうでしたわね。申請があったことを失念していましたわ。あ、でも、お時間はとらせませんから。いいかしら? 」
尾田が感情を高ぶらせているのに、それを無視するかのように声のトーンは変わらない。
「話が見えませんので、単刀直入に話してもらえませんか」
「尾田先生は、先生がお持ちの部活の生徒に、個別に質問をされていたそうですね? 」
ああ、あのことかと尾田は思った。しかし、立川が言い出すまで、黙っておこうと思った。もし違っていたら墓穴を掘ることになりかねない。
「僕が生徒にしたという個別の質問とは、どんな事でしょう? 」
「保護者からの情報では、先生がなさった質問とは、生徒の間で噂になっていることは本当なのかという質問だったらしいのですが、それで間違いはありませんか? 」
そこまで分かっていて小出しにしてくる立川を、あきれた表情で尾田は見上げた。
「ええ、確かにその質問はしました。でも、その噂というものがどんなものか、僕も詳しくは知らない」
「えっ、知らないことを生徒に尋ねられたのですか? 」
「頼まれたんですよ。生活指導の田沼先生から。そういう噂があるから調べて欲しいと。ですから、訊くのなら田沼先生に直接聞かれた方がよろしいかと思いますよ」
そこまで言って、尾田は椅子から立ち上がった。
「もう、良いですか? さっきから言っているとおり、僕は今日の午後は用事があって忙しいんです」
不快感をあらわにして言った。
「あ、え、ええ。もう結構です」
尾田の剣幕に少し怯んだのか、立川が小さく肯いた。
*
「田沼先生、あなたが尾田先生に調査を依頼したことについて、私に詳しく話してもらえませんか? 」
昼食を外食で済ませて戻ってきたばかりの田沼利勝は、職員玄関で立川教頭から呼び止められて、校長室にいた。
「何のことでしょう? 意味が分かりかねますが? 」
尾田のやろう、どこまで喋ったんだと思いながらも、田沼は一応とぼけてみた。
「生徒の間で噂になっている、あのことです。先生は、ずいぶんと情報をお持ちなんでしょう? 」
「ああ、あのことですか。私も生徒の間で噂になっていることを7月下旬に知りました。でも、あくまで噂ですから、慎重に事を運ばなければならないと思いましてね。それで、尾田君に調査を頼んだんです。噂の真相が分かり次第、報告しようと思っていました。で、それで何か問題でも起きたんでしょうか? 」
「尾田先生の生徒への訊き方が悪かったのでしょうかねぇ。尾田先生が生徒に質問したことによって、かえって噂が本当らしいと生徒達が思ってしまったみたいですね。それが、保護者にも伝わってしまいました。今、保護者の間には、危険な噂が広がりつつあります。私達としても困った状況になりつつあります」
立川教頭の口調は淡々としていて、本当に彼女が心配しているのか、田沼には判断がつかなかった。もし、彼女が本当に心配しているなら、その原因をつくった田沼に責任を押しつけてくるかもしれなかった。それは避けなければと田沼は思った。そんなことになれば、再雇用の道が途絶えてしまいかねない。
「尾田君には私から注意しておきます。彼の安易な調査の仕方が今回の事態を招いたのでしょうから。こんなことなら、私が初めからやっておけば良かった。私のミステイクです。ところで、教頭先生が把握されている、保護者の間に広がっているという噂の内容について教えていただけませんか」
「噂の内容ですか……、口に出すのもおぞましいことですが、我が校の生徒と教師がつきあっているというものです。その噂が事実だとしたら由々しき問題です。もしマスコミにリークされでもしたら、我が校にとって致命的なスキャンダルになります。そうなる前に解決しなければなりません」
「つきあっているという生徒と教師の名前は噂されていませんか? 」
「それが、分かっていたとしたら、すでに学校にPTAの人たちが抗議に訪れているはずです。現状では、名前など具体的なことは何も分かっていません」
田沼は、ここで自分の情報収集能力の高さを、立川教頭に知らしめておくことが最善の策だと考えた。
「私が最近手に入れた情報によりますと、噂にあがった生徒の名前は分かっております。夏休みに入ってから転出しましたが、二年五組に在籍していました美橋涼花という女生徒です。もっとも、噂の中ではリョウカという名前でしかあがってきていませんが、私が調べたところ、リョウカという名前の生徒は美橋涼花だけでした。猫山君のクラスになります」
「そのことは猫山先生はご存知なのかしら? 」
「さあ、おそらく知らないと思います」
「そのミハシとかいう生徒が転出したのは、噂のことが原因でではないでしょうね? 」
「美橋が転出したのは、彼女が芸能事務所に入るためです。噂が転校の理由では決してありません」
「そう、それは良かったわ」
田沼は、立川教頭の安堵の表情から、彼女が美橋という生徒のことを心配して言っているのではないことを悟った。
「で、ミハシさんと言ったかしら、彼女は本当に我が校の教師の誰かと付き合っていたのかしら? 」
「それは、分かりません。美橋の名前があがっていますが、それもあくまでも噂です。デリケートに調べないといけませんので、美橋本人には確かめるようなことはしていません。今後も彼女に対して訊くようなことはしないでしょう」
「あら、本人に訊くのが一番手っ取り早いでしょう? 」
田沼は、立川教頭のデリカシーのなさに、思わず溜め息をつきそうになったが、かろうじて堪えた。
やっぱり、この人は教師ではなくて一般人だ。
噂の中で名前があがっているに過ぎない生徒に直接訊いたりしたら、その生徒が傷つくかもしれないと何故気付かないのか。
田沼は、自分のことは棚に上げて、そう思った。
*
「私のクラスの美橋涼花ですか? もう転出してしまいましたが、とても良い子でしたよ。成績も良かったですね」
「彼女が転出した理由ですか? 東京の芸能事務所に入ってアイドルグループの一員になるんだそうです。彼女の夢がアイドルになることでしたから、その夢を実現させたことになりますね。デビューはまだのようですが」
「そうですね。アイドルになろうと思っていたぐらいですから、可愛い子でしたよ」
「彼女がもてていたかって? 確かに男子に人気はありましたが、誰かと付き合っていたというようなことはなかったと思いますよ。立川教頭もご存知と思いますが、今のアイドルグループは事務所の方針として恋愛禁止なんだそうです。美橋はアイドルになるつもりでいましたから、アイドルになる前からそれを実行していたようですね」
「えっ? そんな噂が立っているんですか? それは酷い。私が思うに、その噂は美橋がアイドルグループに入ることを妬んだ誰かが流したものでしょうね。立川教頭はそんな噂を信じているんですか? 」
「そうですよね。安心しました。でも、そんな噂が保護者の間にも広がり始めているのは問題ですね。早急に事態を収束しないといけませんね」
「分かりました。美橋の元担任として、私も協力します。何か分かりましたら、すぐに報告しますから。では、私はこれで失礼します」
猫山孝史は一礼して校長室を出た。
なるほど、自分が流したあの噂は、やっと保護者まで伝わったか。あとは畑中さんがどう動くかだな。
猫山は、今後のことを考えながら口角を上げた。
夏の終わりが近づいているのを知らせるように、ヒグラシが何処かで鳴いていた。
特別活動
『人の口に戸は立てられぬ』という諺があるとおり、職員間にも生徒や一部の保護者の間に広がっていた噂が伝わっていった。
「へえ、そんな噂話があるんですか? 」
畑中宗平は、自分の傍らに腰掛けている香坂利香に向って言った。
二学期の始まりが後三日後に迫った日の放課後、宗平は香坂利香に食事に誘われた。休みの間中、執筆していた教育論文が完成に近付いたことで、宗平の心には余裕があった。ちょっとした気分転換に誘いに乗ってもいいかと考えた宗平は、それを了承した。
念のために携帯番号を交換し、利香が指定した駅前で待ち合わせをした。
香坂利香は職員の中でも評判の美人であり、なぜ彼女が自分のような男を食事に誘ってくれたんだろうと思いながらも、利香が食事の場所に選んだフレンチレストランまで、並んで歩いた。
高級感漂うその店は、出てくる品すべてが美味しかった。リーズナブルな値段のワインも美味しかった。
それに加えて、食事を美味しく思わせている一つに、目の前に座る利香の美しさがあった。
学校内で何故か『美魔女』という称号をつけられている香坂利香は、フレンチレストランの薄暗い照明の中で、ひときわ妖艶な雰囲気を醸し出していた。周りの席にいる男性客が、時折、香坂利香の方をチラ見しているのに気付いた宗平は、そんな女性と一緒にいる自分を誇らしく思った。
誘ったのだから私が払いますという利香を押しとどめ、宗平は食事代の全額を払った。全部で二万円近く払うことになったが、惜しいとは思わなかった。その代わり、この後飲みに行きませんかという宗平の誘いに利香が首を縦に振った。
宗平は、一度だけ入ったことのあるスコッチバーに利香を誘い、利香にカクテルを勧めながら、自分はフレーバーな香りのするモルトウイスキーのロックを飲んでいた。
最初の内は、好きな小説やテレビ番組のことなどのたわいもないことを酒のつまみとして話していたが、知らぬ間に少しずつ学校の話題にスライドしていった。
そこで初めて、宗平はそんな噂が生徒の間にあることを知った。
「それで、その噂は本当なんですか? 」
三杯目のロックを口にしながら、宗平は尋ねた。
「さあ、私もその噂が本当かどうかは分かりかねますが、生徒の名前は噂にあがっているそうですよ」
利香が囁くように言った。
「ほう、そんなに具体的なんですか。それでその生徒の名前をご存知ですか? 」
「確か、二年の美橋さん……、だったと思います」
宗平は思わず口に含んでいたウイスキーを吹き出しそうになった。
「もしかして、猫山先生のクラスの生徒ですか」
「ええ、噂ではリョウカという名前だけですが、生徒の中でリョウカという名前の生徒は美橋さんだけなのだそうです。でも美橋さんは転出したらしいので、猫山先生のクラスではなくなりましたけど」
「そうですか……、猫山君のクラスの……」
そう言ったきり何か考え込んだ宗平の横顔を利香はうっとりと眺めていた。
ふと、利香は、何かの本で読んだことを思い出した。
「ねえ、畑中さん。私、シェリー酒を頼みたいんだけど」
もし、宗平がシェリー酒の酒言葉を知っていたなら、はしたない女と思われてしまうかもしれない。でも、そう思われてもいいと利香は思った。むしろ宗平が、シェリー酒を女が男にねだったら、『今夜は私を好きにしていいのよ』と誘っているという酒言葉を知っている方が望ましかった。宗平を誘うための、その他の手段は思いつかなかった。
「いいですよ」
酒言葉を知ってか知らずか、宗平が利香を見てニコッと微笑んだ。
宗平が飲んでいたロックグラスの中の氷が、ピキッと鳴った。
相対評価
「どこの誰が、そんなことを言ったんですか! あまりにも失礼すぎます! そんな噂話を信じて、教頭は俺を疑っているんですか! 」
語気を荒げて、猫山孝史は立川教頭に迫った。こういう場面が訪れることは想定済みだった。あとは、憤慨している演技を上手くこなすだけだった。
校長不在の校長室の中で、そんな孝史を目の前にして立川教頭はタジタジとなっていた。 話のもっていき方次第では名誉毀損にもなりかねない事態に、どう対応すればいいのかを立川教頭は考えあぐねているように見えた。
「全くもって不快極まりない。何で俺が教え子と付き合っていることになるんですか! 相手は中学生ですよ。俺がロリコンに見えるとでも言うのですか! えっ、どうなんですか! 」
「い、いえ、私は先生を信じていますわよ。ええ、信じていますとも。ですが、先生から聞いたという方が……」
「だから、どこの誰なんですか、そいつは? 」
さらに語気を強めたので、ほとんど怒鳴り声に近くなった。
「ひっ」
立川教頭が小さく悲鳴をあげた。
「は、畑中先生です……」
怯えたような小さな声で立川教頭が言った。
「そうですか、畑中先生が俺のことを言っていたんですね」
少しだけ、語気を弱めて言う。
「え、ええ。確か先生と飲まれた時に、先生からそんな話を聞いた覚えがあるとおっしゃっていました。なんでも、先生が美橋という生徒の誕生日までも諳んじられていると」
「そんな馬鹿な、いくら私が美橋の担任でも生徒の誕生日まで正確に覚えていることなんて出来やしない」
「でも、畑中先生もおっしゃっていましたが、その時に先生から聞いた美橋さんの誕生日は、八月一日ということで覚えやすくて、 」
「違いますよ。八月の初めに美橋の転出書類を作成したので覚えているんですが、美橋の誕生日は十一月だったはずです」
孝史は斜め上を見上げて少し考えたふりをした。それからゆっくりと話し出した。
「そう言えば夏休みの最初の頃、七月下旬ですね、畑中先生とある店で偶然お会いして、一緒に飲んだ記憶があります。でも、その時に美橋について話したことは、美橋がアイドルグループにスカウトされて、そのために転出するということぐらいです。もしかすると私が、アイドルになるという夢を叶えた美橋のことを嬉しそうに話したことで、誤解されたのかもしれません。畑中先生もずいぶん酔われていましたから、誕生日のことも他の話との記憶がごっちゃになったのでしょう。仕方がないかもしれませんね」
「そうだったんですか。分かりました。先生には御迷惑をおかけしましたね」
立川教頭が少し頭を下げた。
「いいえ。私も冷静にお答えできなくて、すみませんでした。それから畑中先生に対して私が抗議するようなことはありませんから、そこはご心配なく」
「あ、はい。本当に先生には不愉快な思いをさせたことをお詫びします」
立川教頭が、今度は深く頭を下げた。
自分が怒る姿を見せたことで、立川教頭がこれ以上、畑中にこの件について話を訊くことはないだろう。それに、立川教頭の頭の中には、畑中を軽率で思い込みが激しい人物としてインプットされたに違いない。今回の件は彼女を通じて、校長にも伝わるかもしれない。彼女自身が作り上げた畑中への悪い評価とともに。
孝史がしたことは畑中にとっては理不尽な仕打ちだろうが、畑中はずっと以前から嫌悪すべき対象者であり、少しでも畑中にダメージを与えることができたことが喜びだった。
笑みが出ないように気を付けながら、孝史は校長室を出た。指をポキッと鳴らしながら。
絶対評価
一夜を共にしたベッドのサイドテーブルに、香坂利香は、わざと自分の財布を置き忘れた。
二人一緒にホテルを出ると、そこを誰かに見られるかもしれないからと時間差で出ることを利香が提案し、宗平もそれに同意した。
しかし、利香が時間差でホテルを出る提案をしたのは、別の思惑があったからだった。財布をわざと置き忘れるためだった。几帳面な宗平のことだから、きっと財布があることに気が付くに違いない。そして、それが利香の財布だと分かるだろうが、一応念のために中を確認するに違いない。そこで、宗平は見つけるのだ。そこに免許証があることを。 利香は、ベッドの上での宗平との話で、宗平が自分の年齢のことを知っていないのではないかと、ふと気付かされた。そして、不安になった。もし、宗平が自分の年齢を知ったら、身体を重ねながら聞いた甘い囁きも、全てが夢幻になってしまうのではないかと。宗平の自分に対する評価が大きく変容するのではないかと。
だから賭に出た。
免許証に記載されている生年月日を見ても、宗平がまだ自分とつき合うことを拒まなかったら……。
利香がホテルを出てからちょうど十分後、利香のバッグの中の携帯が鳴った。
行事的活動(始業式)
「えー、ここで、みなさんにお知らせがあります。二学年を中心に、国語科の指導を熱心に行ってくださっていた畑中宗平先生が、しばらくの間お休みをされることになりました。それにともない、代理の先生が来られることになります。代理の先生は、以前本校に勤めていらっしゃった……(以下略) 」
校長のうんざりするほど長い話の途中で、講堂の中にチャイムが鳴り響いた。
評定(総括的評価)
職員室・それぞれの席での雑談
美術・・・・「畑中先生がお休みになる理由、校長と教頭からの説教が原因らしいわよ。 何でも、あの噂の教師が猫山先生らしいってガセ情報を、自慢げに報告し にいったんだって」
音楽・・・・「うそぉ、あの猫山先生がそんなことするはず無いじゃない」
技術・・・・「そうだね。いくら猫山君が女生徒にもてるからといって、そんなことは ありえない。確か猫山君には、大学の時からつきあっているという彼女が いるから」
家庭・・・・「えー、それ本当ですか? ショックゥ。やっぱりイケメンはもてるのね。 あ、それより、畑中先生が休む理由、他にもあるらしいって噂よ。大きな 声では言えないけど、女性がらみだって」
保健体育・・「あの堅物の畑中さんが? それこそ信じられないな。香坂先生は何か知 っていませ、…あれ? 今日は美魔女は休みなのか? 」
学食・オレンジジュースを飲みながらの会話
理科・・・・「たったあれくらいのことで休むのか。イレギュラーに対応できないなん て、やっぱり畑中さんは形にはまりすぎだ。あれじゃあね。まあ、生徒に とっては結果オーライかもしれないけど」
社会・・・・「校長と教頭にW説教されてたもんな。精神的に参ったんだろうな。立場 なんか関係なく、猫山君のようにスパッと言うべき時は言った方がいいの にな。猫山君の校長室での立川教頭とのやりとり、偶然廊下で聞いていた けどカッコ良かったぜ」
休憩室・タバコを吸いながらの呟き
英語・・・・「誰か、英語科の教師も休まないかなぁ。で、そのまま辞めてくれたりす ると助かるんだけどな」
場所不明・状況不明
数学・・・・「許さない。絶対に許さない! 」
国語・・・・「………」
遠くの空で、稲光と共に雷が鳴っている。
了
合沢時男は、合沢時が文学的な傾向の作品を書くときの分身です。