3日目(後)
「折り入ってお話しがあるとは、なんですか兄さん」
琴野ちゃんに相談に乗ってもらった当日の夜。晩御飯を食べ終わった僕たちはリビングで対峙していた。
対峙していたというとやや御幣がありそうなものだけど、いつもの何を考えているか分からないのっぺりとした可愛い顔をした琴乃と僕は、L字のソファに腰かけていた。
琴乃は、テディベアのプリントが複数個所にされている黄色のモコモコパジャマを着用しており、すこし大きめの袖から少し出ている指先がなんとも愛らしい。
「僕としても、こういうことは琴乃から言ってくるのを待つべきなんだと思っているんだがな」
「だから何の話ですか」
「琴乃、僕になにか隠していることはないか」
「……隠していることですか? 山ほどありますけど」
「アウチッ!」
なに当たり前のことを聞いてくるんですか。とばかりに本当に何の戸惑いもなく返答してきやがった。
いや、そりゃ確かにそうかも知らんけどさ! 違うでしょ! そうじゃないでしょうよ!
「違う! なんというか、んー、兄である僕に報告しておかなければならないことがあるだろ!」
「兄さんに報告ですか? 最近胸のカップ数が上がりました」
「嘘言うな! そんなわけないだろ!」
「……何を根拠にそんな失礼なこと言えるんですか」
「だってお前が使っている下着のサイズはまだ変わってないじゃないか!」
「そんなすぐ買い直してほしいなんて言えませんよ。というか兄さん、なに妹の下着のサイズを把握しているんですか」
「うっ、い、いや、そりゃあ琴乃の成長具合は兄としてちゃんと把握しておかないとさ」
「それギルティです」
「ジーザス!」
僕のほうが後ろめたい、隠しておきたいことを話してしまった形になっているじゃないかどういうことだ!
「兄さんがバカなだけです」
反論できないのだから困ったものだ。
「違う違う。そうじゃない」
「何の話なのかさっぱりです」
「僕もこんなに話の誘導が難しいとは思わなかったよ」
慣れないことはするものではないとお天道様が言っているのだろうか。
しかし、できることなら琴乃から言ってもらいたいのだ。兄から聞かれるというより、妹から話したという方が、琴乃も話しやすいはずだ。
だが、ここまで誘導がうまくいかず、というか最早誘導にすらなっていない現状では、それも望めそうもないし、なにより琴乃自身が「彼氏のことを知られている」ということを全く以て警戒していないところでお察しだ。
僕は、ひとつ大きなため息をついて、琴乃に直球で聞くことを今一度決心する。
「琴乃」
「なんですか」
琴乃のジト目からは、若干呆れている様子が見て取れる。これ以上グダグダ話を迂回させている暇もない。
「お前、彼氏できたのか」
「…………」
返ってきたのは沈黙だった。
僕の質問に対して、眉一つ動かさず、眠そうな目を僕に向けながら、琴乃は答えなかった。先ほどまでの会話のテンポが途切れたことで、妙な緊張感が僕を襲った。
だが、微動だにしない琴乃が動揺していないように見えていても、この沈黙は「肯定」と受け取っても問題ない反応であるのは確かだ。
あの琴乃が、この状況で答えないというのは、やはり動揺しているに他ならない。
「……どうなんだよ」
「……兄さんには関係のないことです」
琴乃が目を僕から逸らしながら、答えた。
僕が想定していた反応よりやや辛辣な回答が来た。胸がチクチク痛む。
「関係がない」と言われることがこれほど辛いとは……。僕が妹に干渉しすぎている証明のように思えた。
「まぁ、琴乃の恋愛に口を出すつもりはない。確かに恋愛そのものは僕が関係していることなんてないからな」
「……そうですか」
「でもな、一応、親父と母さんからお前の面倒任されてるんだよ。何かあったら心配だ。一応、妹のことはちゃんと知っておきたい」
「……過保護です……」
実際過保護なのだと思う。それは僕も痛いくらい自覚している。
それに合わせて、今僕の言った理由だって、もちろん全部が全部嘘というわけではないけれど、上辺だけの建前というやつで、ただ僕は琴乃の恋愛関係を知りたいだけなのだ。
自分の汚さを少しずつ再認識しているようで、なんだか息苦しい。
「僕に、その話をしにくいのは重々承知だけど、どういう子なのかとか、話してくれないか」
いくら僕でも、あの夏休みの事があって、飄々と聞けないことくらいわかっていた。琴乃としても話しにくいはずなのだ。
以前、告白したことのある兄に、自分の新しい好きな人のことを話すのは。
「詳しく話すつもりはありません」
琴乃にしては珍しく、僕に目線を合わせないまま話を続けた。
「正直、彼のことが好きかは未だに分かっていません。そもそも好きという気持ちそのものが私にも分かっていないんですから」
「でも付き合ってるんだろ?」
「付き合うというのもよく分かりません。特別なことを何かしているわけでもありませんし」
琴乃の口から特別な何かをしたなんて聞いた時には、僕は果たして平静を保っていられるんだろうか。全く以て自信がない。
「彼は、とても真摯な人です。私も前々から仲が良かったと言える間柄ではありませんでしたけど、彼の評判が良いことくらいは知っていましたし、実際話してみて、私もそれは感じています」
琴乃の瞳が揺れる。視線がいろんな方向に彷徨っている。言葉を選んでいるのだろう。
「それに、一生懸命な人です。一つのことに夢中になって周りが見えなくなるあたりが危なっかしい人ですけど、それでも、どこまでもまっすぐな人です」
えらく絶賛だ。そりゃそうか。絶賛の相手でもなければ付き合ったりはしないか。
「私に告白してきたときも、私は断ったんですが、それでも諦めない人でした。本当に前だけを向いている人でしたから」
そこまで話して、琴乃は口を噤んだ。
話せることはここまで、ということなのだろうか。
少しの間、お互い沈黙が続いたので、僕から話を一旦切り出そうと思ったその時だった。
琴乃は小さく言った。だが、僕にとってはその言葉が一番大きく心に残ることになった。
「なにより、兄さんに似ていました」
☆ ★ ☆
琴乃との会話は、それを最後に終わった。
僕も反応できなかったし、琴乃自身もいたたまれなくなったのだろう。すぐに僕たちは自室に戻った。
クリスマスイブに僕たちは何をしているんだろうか。
聖なる夜の前日。琴乃にとってはサンタさんを迎え入れる準備の日でもある。
僕はそれを思いっきり邪魔してしまった形だ。
琴乃は今年もちゃんとサンタのプレゼント用の靴下を枕元に置いてあるのだろうか。クリスマスプレゼント、しっかり届くといいな。
なんて、そんなことを思いふけってしまうほど、僕は今非常に消耗していた。疲れていた。
まだ時間も午後の9時であり、寝るには早すぎるくらいなのだが、僕の体は完全に布団で寝たがっていた。今目を閉じればすぐに眠りにつけることだろう。
だが、眠ってしまうわけにはいかない。僕にはまだやらなければならないことが残っているのだ。
僕はベッドから机の上に置いてある小さな封筒に視線を向けた。
あの封筒の中にはイルミネーションが一望できるテーマパークの招待券が入っている。ネットで僕が一昨日に急ぎ購入したものだ。
もちろん、それは僕が使うためではない。琴乃用である。
ただ実際行くとなると琴乃一人では難しいだろうから、ペアチケットで僕がついていく予定だったわけだが。
恋人がいるのなら、そいつと二人で行くことも出来るだろう。
……。
なんだか、納得いかないなあ。
どうしたのだろうか。
確かに僕からしてみたら、可愛い可愛い妹がよく分からん男と付き合っているということはなんとも受け入れがたい。
これは完全な偏見だけれど、同じ学校の人とか、近所の人とか、そういう人ならまだ良いのだ。なんというか、「相手のことがわかる」というのは非常に安心感がある。
同じ学校なら、学校での様子を琴乃だけではなく、琴野ちゃんからも聞くことができるし、近所の人なら、あまり仲良くないとはいえ僕が聞くことだってできるのだ。
だけど、今回の人はどうやらそういうわけではなさそうだし、相手のことが結構不確定だ。不安になる。
琴乃が悪い男に引っ掛けられているんじゃないだろうかって、そんな風な不安が募っていくだけだ。
――ピロン
スマホが短い着信音を鳴らした。聞きなれない音だったが、「メールの受信音」だと数拍遅れて理解した。普段メールを受けることがない僕からすると聞きなれない音なわけだ。
スマホを開くと、やはりというか、そんな僕にメールを送ってくる奴は一人しかいない。
『はろー、少年。ちょっとは落ち着いたか? 昨日はほんまあのまま死んでまうんちゃうかなってくらい虚ろな目しとったから、心配やってん。どないや、妹ちゃんとも話せたか? あれなら相談乗るから、いつでも電話しといでや』
持つべきは友だなと、実感する。
ヴァイスとは確かにゲームセンターで長い付き合いだけど、こうしたプライベートの話はしたことがない。それこそ、ついこの間まで、ヴァイスは僕に妹がいることを知ってすらいなかったんだから。
友達が少ない僕にとって、こうして心配してくれる友達は、本当に貴重だ。大事にしないとな。
そういえば、夏休みの時に琴乃にヴァイスの連絡先を消されたんだったな。
今やられたらさすがに僕でも怒るだろうな。
今でいえば、僕が琴乃のスマホの連絡先から彼氏くんの連絡先を消してしまいたいくらいだ。
……ん?
「ははは」
乾いた笑いが漏れた。
なぜかって? 気づいちまったからだよ。
「嫉妬しているだけか。僕は」
琴乃が僕のスマホからヴァイスの連絡先を消した時と同じだ。
僕は、琴乃に彼氏ができたということに、嫉妬していた。
それは、兄として自覚してはいけない感情であることは確かだった。
机の上にあるクリスマスプレゼントが、どこまでも滑稽に思えた。