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エピソードⅣ

エピソードⅣ


「お願いしますよ、先生」

 わたしはその言葉に返答せず、会議室を出た。

 自然、ため息が漏れる。

 ……わたしだって判っている。このままではいけないことぐらい。だが、どうしようもない、というのが本音だった。

 読者は新たな刺激を求めている。それは誰の目にも明らかなことだ。調べ尽くされた場所を新たに掘り下げていったところで、出てくるのはがらくたばかり。所詮既知の事象しか出てきやしない。あれは墓場だ。すでに墓荒らしによって痛めつけられている、むなしい墓所だ。

 そんな場所に、どうやって新たな刺激を見つけろというのか。別段、宝が隠されているわけでもないのに、どうしろというのか。そもそも読者は何を望む? わたしが調べた事象について? ……違う。

 いや、一部の読者はそうであるのかもしれないが、大多数はそうでないに決まっている。単にその場所の様子を知りたいだけなのだ。そこがどれほど空虚で、病んでいる場所であるのか知りたいだけなのだ。

 そしてその欲求は写真を見れば事足りる。酔狂な読者は実際に足を運び、現物を見る。それですべてが終わってしまうのだ。

 わたしの文章はほとんど見向きもされない。せいぜい、その場所を端的に表している意味もない見出しとして処理されるだけだ。ようはページ番号と一緒なのだ。

 わたしは再度、ため息をはき出した。

 確かに、わたしはこのブームの火付け役として名が通りっている。彼らがまだ興味も持たぬ頃からわたしはそれを求め、全国を行脚していた。あちこちでそれらを発見し、発刊部数の少ない雑誌に一記事として連載をしていた。そんな状態だったものが、今ではそれだけを集めた書物ができあがり、ごく普通の書店にまで流通するほどまでに至っている。

 わたしはそのブームの最先端にいた。

 だが、現在はブームの波に乗り、多くの人間が企画し行動するようになっている。おかげで有名どころは重複しまくり、一部の無法な読者によって荒らされることになった。これは非常に由々しき事態であると思われる。

 それでもわたしにはその流れを止めることはできない。わたしはすでにこの世界にどっぷりと浸かってしまっている。わたしにはほかにできることなどないのだから。

 いずれ、ブームは去る。そうすればわたしなどお払い箱で、こんな悩みに頭を抱えることなく、もっと他の悩み、たとえばどう食いつなぐのかなど、そんなことで頭を悩ませているに違いない。

 しかし残念なことに、まだブームは終わろうとはしなかった。火がついたそれはアンダーグランドで徐々にくすぶっていたが、おもてに出ると一気に焰を大きくした。鎮火する気配は、今のところ見られないでいる。

 読者がいてくれる以上、わたしは新たな記事を書かねばならない。それは理解している。だが、本当にどうすればいいのか、なにをすればいいのか判らなかった。

『そろそろ、新たな廃墟企画を』

 若い編集者はそう言ってきた。

 ……ふん。廃墟に『古い』も『新しい』もあったものではない。そんなことを期待するほうが間違っているのだ。

 なぜなら、廃墟は空虚なものだからだ。そこには何もない。あるのはがらくた、ゴミ、汚物だけだ。

 そのような場所に魅せられた自分がほとほと憎かった。何度もやめよう、足を洗ってまっとうな記事を書こう、と思ったことか。だが、それはいつも失敗に終わっていた。結局カメラマンとどこかの廃墟へ出かけ、写真を撮り、中の実情を探り、由縁を調べ、おもしろ可笑しく記事にしてしまうのだ。虚偽の記事であったことも少なくはない。

 実際のところ、どうして自分がここまで廃墟なるものに惹かれているのか判らない。単に朽ちている空き家、そんなものになぜ心を揺さぶられ、魅せられていったのか解らないのだ。かつてはそれがどういった理由だったのか、ちゃんと知っていたような気もするが、現実として今は忘れてしまっている。所詮、その程度の理由だったのだろう。

 手に持て余している、そう感じざるを得なかった。

「先生! 並木先生」

 自分を呼ぶ元気な声が耳に入り、わたしはおっくうに振り返る。

「……赤井くんか」

 いつものバカでかいカメラを携えた赤井夏生が駆け寄ってきた。

「どうでした、打ち合わせは」

「どうもこうもない。……新しい企画を出せ、その一点張りだ」

「で、その新しい企画ってのはあるんですか?」

「あったらこんなにしかめっ面をしているはずがないだろう」

「そりゃそうだ」赤井くんは元気に笑った。やがて笑い止むと、なぜか周囲を気にしながらわたしの耳に口を寄せてきた。「……実は、いいネタ見つけたんですよ!」

 わたしは、またか、と心の中でため息をつく。

 赤井くんはわたしと行動を共にしてくれるカメラマンだった。彼のその暑苦しく若々しい気力はわたしにとって必要なものとなっていた。相棒、そう言われればそうなのかもしれない。彼はわたしのことを慕ってくれて、わたしは彼を寵愛している。わたしの著作における写真のすべては彼に任せることにしていた。カメラの腕は、少なくともわたしがこれまでに出会ってきたカメラマンの中で最も優れていると思えたからだ。

 彼は廃墟の姿を様々に映し出すことができた。廃墟の表情、と言ってもいいかもしれない。それは我々見るものの主観に過ぎないのだが、彼の撮った写真からは、現実の廃墟に忠実な生々しさ、虚無感を見て取れた。カメラの性能も良いのだろうが、彼はレンズを向ける先、光線やその他のたくさんの条件を考慮に入れ、シャッターを切っている。だが彼はその行動を考えて行っているわけではない、と言っていた。彼は本能でそれを行っている。彼もまた、廃墟に魅せられた者の一人であり、彼が廃墟に持っている愛情がそうさせるのだ、彼はそう説明した。

 そして赤井くんは、時として重要な情報をもたらしてくれもした。

 彼はバイクに乗る。ライダーがツーリング中に廃墟に遭遇し、寄り道をしてみる、ということはしばしば起こることらしい。週末には仲間と、あるいは一人で大型のバイクを乗り回している彼は、実に多くの廃墟を訪れていた。それはわたしが知らなかった場所も含まれており、彼はそんな場所をわたしに教えてくれるのだ。そして後日二人で出かける。なんのおもしろみもない廃墟が多かったが、ごくまれに大物に当たることもあった。大物はそのまま、あるがままを記事にし、おもしろくない場所は適当に味付けしてやった。わたしたちはそうやって記事を作る。

 が、全国の廃墟という物件にも限りがある。おそらくはもう出尽くしてしまっていると言っても過言ではないと思っている。赤井くんは「いいネタがある」と言う。そういうとき彼は、まず間違いなくどこぞで廃墟を発見してきたと語るはずだ。我々はその場にはまだ行っていない、だから次の本で使おう、と。

 繰り返すが、全国の廃墟には限りがある。そして、今はブームのまっただ中だ。わたしたちが行ったことが無くても、おそらくそれは他の出版物にすでに収まっているものか、廃墟ですらない単なる『空き家』であるのか、そのどちらかだ。わたしたちが新たに記事にしたとて、読者はそれではなにも思ってはくれない。……いや、わたしという人間が、所詮その程度だったのか、と見限られてしまうことになりかねない。

 赤井くんは他の書物を調べない。それは唯一わたしが彼に抱いている不満だった。

「……で、そのネタとは?」わたしは半ば諦めにも似た気持ちで彼に問う。「いったいどこの廃墟なんだね」

「あ、いや。廃墟じゃないんスけどね……」

「言っておくが、わたしには他の記事など書けんからな」

「それはわかってますよ」

 わたしは赤井くんを睨め付けた。彼は、「あ」と小さく漏らし、すいません、と加える。

「でも、廃墟関連であることは間違いないです」

「心霊系も御免だからな」

「もう、先生……。違いますよ」

「何だと言うのかね。勿体ぶらずに……」

「『廃墟案内人』ってのがいるらしいんですよ」

「……『廃墟案内人』?」わたしは年甲斐もなく、素っ頓狂な声を上げてしまった。「なんだね、それは」

「オレの知り合いの、そのまた知り合いがネットで見つけた情報なんですけど……」

 赤井くんはまたしても声を潜める。これはそれほどまで極秘に扱わねばならない情報なのだろうか。

「なんでも、とある旅行会社で、裏で『廃墟』に客を連れて行く、っていうツアーを組んでるらしんですよ……!」

「ふん」わたしは鼻で笑う。「……馬鹿な、あり得ないだろう。一杯食わされたんじゃないのか?」

「なんであり得ないんです?」

「なぜ『廃墟』へのツアーなどを企画する必要がある? 客は自らの足で廃墟に行けばいい。そのほうが旅行社へ金を払わずに済み、安上がりだろう。わざわざツアーを組む意味がわからん。それに、裏でやる必要もないだろう」

「……前人未踏の廃墟かも。しかも、相当ヤバい廃墟なんですよ、きっと」

 わたしは苦笑する。「ヤバい、とはどういう場所なんだ?」

「アブない連中が、アブないことに使ってるとか」

「そんなところに、わざわざ金を払って連れて行ってもらうのか? ずいぶん物好きなヤツだな」

「マニアは得てしてそういう生き物なんですよ、先生」赤井くんはなぜか誇らしげに胸を張る。「それに、実は裏を取ってあるんです。確かに情報通りの場所に、一軒の旅行会社がありました」

「ツアーを組んでいるとは限らない」

「火のない所に煙は立たない、でしょう。きっと本当なんですよ。ねえ、先生。新しい企画もないんでしょう? 取材がてら、行ってみませんか」

「……」わたしはうつむいて考え込んだ。

 確かにこのまま赤井くんとじゃれていても事態は好転しようはずがない。ましてやわたしはもはや手詰まりなのだ。ツアーとやらが存在しており、仮に参加できたとすれば、多少の記事にはなるかもしれない。

「ね、先生! オレ、この情報高く買ってきたんですからあ」

「……いくらで?」

「おごり三回」

 わたしは本日何度目かのため息をはき出す。「わかったよ」

「先生!」

「正直、そろそろ普通に廃墟を訪れるのにも飽いてしまっていたところだ。案内人とやらに連れて行ってもらうのも一興かもしれん」

「やった、早速準備しましょう」

「で、どこなのかね。その旅行会社があるのは」

「○○県の外れです。都内からだと車で丸一日、と言っていました」

 もはや、ため息もでなかった。


 自分のことを年寄りだと思ってはいないが、すでに若いと言える歳でもないことは明らかだ。年齢的に言えば、すでに初老の域に達しているのは間違いない。

 ハンドルを握る赤井くんは三十にもなってはいない。わたしは正直なところ、彼のその若々しさが羨ましい。

 これだけ運転していて、疲れた様子ひとつ見せないのだから。

 出発して二時間もすればもはやわたしの身体は限界に近かった。腰が悲鳴を上げ続けていたため、パーキングエリアで休憩した際、後部座席に移動した。助手席のシートを倒し込み、足を投げ出して腰の負担を減らすことしか頭になかった。年寄りはトイレが近いというが、自身の膀胱具合よりも腰痛のほうが耐え難い。再発車してからもずっとわたしはフラットに近い席で足を投げ出してまだ見ぬ目的地への不安を募らせていった。……本当に、到着するのだろうか。

 高速道路を降りてからしばらくすると、突然道が悪くなった。悪路とまでは言わないが、あちこちに補修がなされているのか、段差がこれでもかとやってくる。それはもはや拷問に近い。苛立ちをどうにか発散させたかったが、身近には赤井くんしか見当たらない。彼に当たってもわたしの腰痛が治るわけがないということは明白である。

 やがて周囲の様相が変わり、田園地帯になった。段差の代わりに石ころだとかトラクターがこぼしていったらしい土だとかがわたしを苛む。

 小一時間ほど経つと果てしないと思われた田園地帯もやがて終焉を迎え、街に入ったようだ。赤井くんの車のカーナビが「目的地周辺です」と無機質な声を放つ。わたしは安堵にも似たため息をついた。

 そこは妙な街だった。

 決してノスタルジックな気分にさせてくれるような場所ではない。建物が溢れかえり、生活感で満ちている。都会とは言えないが、背の低いビルがあったり、大きな住宅がたくさん並んでいた。

 だが、奇怪なことに人影がまるで見当たらない。車も走っていない。途中、道路沿いの線路を二両しかない電車が走り抜けていったが、ちらりと見やっても人影は皆無だった。……本当に生きた街なのだろうか。否応にもそんなことを考えてしまう。

 時の流れがずいぶん昔に止まってしまったようだ。そして、その時点ですでに街は廃れきってしまっていた。

 別段、建物そのものが朽ち果てているわけではない。だが、ひとが見当たらないことでどうしても朽ちて見える。それは廃墟と同じだ。廃墟も人々に見放されることにより、加速した時による風化が著しくなる。

 見放された街。それがこの場所にもっともふさわしい謳い文句であると感じた。

 駅前に入りようやく車を見つけたと思ったら、サボっている三台のタクシーだった。それがさも当然のことであるかのように駅前の広場に並んで駐車し、運転手は総じて寝入っている。初めから客など来るはずがない、そうやって諦めているようにしか見えなかった。

「商店街、あります?」不意に赤井くんが声を発す。「おっかしいなあ。駅の真ん前のはずなんだけど……」

 わたしも首を巡らし、あたりを探る。やがて一本の路地を見つけた。自動車一台が通りることができればいいとでもいうような細い道、脇にはアーケード付きの歩道が顔を覗かせている。

「あそこじゃないか?」

 わたしの指し示す方向を見、赤井くんは絶句する。

「……ああいうのも、『商店街』って言うんですか」

「さあな。だが、この街の人々にとっては唯一の買い物場所なのかもしれないよ。たぶん、この街の人間は自動車で買い物なんて来ないんだ。歩いて近所の商店街に買い出しに行くのが普通なんだよ。わたしの子供の頃だって――」

 赤井くんが訝りながら車を商店街に寄せていく中、わたしは昔に思いを馳せる。

「――こういった小さな商店街で買い物をしたものだよ。鮮魚店、青果店、精肉店に玩具店、本屋、文房具屋、あらゆる商店が軒を連ね……」

 そして、わたしは言葉を失った。

「……軒を連ねてはいますが、これは酷いですねえ」赤井くんはその光景を見て、思わず笑ってしまっている。

 そこは見事なシャッター通りだった。ありとあらゆる商店がシャッターを降ろしてしまっている。客が来なくなったから閉めた、と言うよりも、来てもらわなくてもいいから閉めたい、と主張しているように見える。すべての人間を拒んでいる、そんな圧迫感すら感じられた。

「こりゃあ、ゴーストタウンだ」ゆっくりと車を進めながら、赤井くんは独りごちる。

 やはり彼は偽の情報をつかまされたのだ、と思った。こんな場所ではまともに営業できまい。まして、我々が向かっているのは旅行案内所なのだ。大口のお得意様でもない限り、個人客がフラフラと立ち寄るとは思えない。さっさと店を諦めるか、せめてもう少し人通りのある場所で営業せねば、生業として成り立たない。

 そのような商店街を進むうちに気づいたのだが、どうやら三軒の店舗だけが営業しているらしかった。らしかった、というのは、とりあえずシャッターを下ろしていなかったことを意味する。一軒は青果店らしき店舗。一応、軒先には野菜などが少量、置かれているが、総じて生気はなくなり、もはや誰も買い求めるものはいないと思われた。また一軒は魚屋らしき店舗だ。こちらは見る限り、商品はなかった。水槽も水が張られているだけで、何も泳いではいない。あるいは発注があってから仕入れるのだろうか。そのほうが効率的かもしれない。もう一軒は書店だった。一般的な書店らしさを持っているように見えたが、よくよく観察すると、軒先の棚に入った雑誌類は恐ろしく日焼けしている。さらに目をこらすと、それらが最近のものではないことがわかった。古本屋も兼ねているのかもしれないが、古本を店外に列べるなど自殺行為にも等しいのではないだろうか。そうでなければ、あれは新品であり、本気で売ろうとしている、ということか。

 その三店舗ともに、店員の姿は見当たらない。かろうじて店に明かりが点り、営業しているらしい、ということを窺い知ることができる。それはもはや、店主の道楽と言っても過言ではないだろう。

 暗澹たる気分で先へ進んだ。

 やがて、赤井くんは急ブレーキで停車させた。驚きながら前方に目をやると、細い路地と交差しており、その先は民家だった。アーケードも途切れていて、それはここが商店街の終点を意味していた。

「確か、商店街の外れにある、って言ってました……」

 我々はお互い、左右の窓から外を眺めた。

「あ、先生。そこ……」運転席から身を乗り出した赤井くんが指さす。「ああっ ありました、ここですよ、ここ!」

 赤井くんの身体に顔を寄せ、下からのぞき込んだ。一軒のまるで店舗には見えない建物があり、ごく普通の木製のドアには、「open」と書かれたプレートがぶら下がっている。歩道に面した採光窓からは淡い光が漏れている。

 さらに顔を下げ、店舗らしき物件の上を見上げた。そこにはごく控えめな看板があった。

「『天城旅行案内所』、か」

「おお、本当にあったんだ!」赤井くんは嬌声を上げる。

 ……こいつ、信じていなかったのか。

「まったく……。さっさと行くとしよう」

「ああ、先生。待ってください。車をどこかに入れないと……」

「心配せずとも、だれも通りらんよ。もしも邪魔だったらクラクションでも鳴らすだろう」

 赤井くんは数秒考え込み、そうですね、とエンジンを切った。

 何よりも早く、車のシートから離れたかった。そして、わたしは一人でこの店に入りたくないと思っていた。だから赤井くんに車を駐める場所を探しに行かせたくなかった。

 この商店街の店に単独で入ることは、酷く勇気が要ることだった。


 店内にはカウンターにたたずんでいる一人の女性がいた。ほおづえをついて雑誌を読むともなく眺めていた彼女は来客に気づくと顔を上げた。

「いらっしゃいま……」にこやかな笑顔が突如として凍り付いた。

「……?」

 わたしと赤井くんは顔を見合わせる。女性は酷く驚いた顔でわたしたち、あるいはわたしたちのさらに後方を凝視していた。

「あの……」

 突如として立ち上がった女性により、赤井くんの声は止められてしまった。

「……ま、間違っていたら申し訳ありません」女性は震える声で告げる。「もしや、並木先生では?」

 女性はわたしをまっすぐに見つめている。強張った笑顔で、肩は小刻みに震えている。

「きみが言っているのが『並木修』という人物のことならば、確かにわたしのことだ。どこかでお会いしたかな?」

「い、いいえ。そういうわけではないのですが……」

「わたしのことを知っているのかね」

「も、もちろんですわ!」女性はカウンターを回り込み、わたしたちに近づいて来た。「廃墟界の第一人者……。この世界で先生のお名前を知らぬ者はおりません!」

 強張っていた顔がほぐれ、少女のように爛漫な笑顔となった。

 彼女はわたしの顔を見つめながら右手を出し、そして何かに気づくとスーツの裾で手のひらを何度かぬぐった。そうした後、恥じらいながらもう一度右手を掲げる。

「あ、あのう……、握手していただけませんか?」

 わたしは思わず息を呑んだ。

 こういった経験は、まったく無かったと言えば嘘になる。だが、初見の一般人から握手やサインを求められたことは皆無だった。わたしはこれまでどんなメディアにも露出したことはない。著書にあるわたしの経歴はごく簡単なものだし、顔写真など一度も出したことなどない。だがこの女性はわたしのことを知っている。悪い気はしないが、どことなく気味の悪さがつきまとう。

「ああ、構わんが……」

 わたしは彼女の手を取った。わたしの右手と触れた彼女の右手がびくりと震え、腫れ物にでも触るかのごとく柔らかく握りしめられた。

「君はどうしてわたしが並木だと判ったのだね?」

「……わたくしは以前から先生の大ファンなのです。先生の著作は総じて拝見させていただいております」

「だが、どこにも顔は出ておらんかっただろう?」

「今はずいぶん便利な時代になりまして、お調べする方法などいくらでもございます」彼女は小さく笑う。「あ、申し訳ございません。ストーカーのようなマネをしてしまい……。ですが、ファンとしては崇拝するお方のことを知りたくなるのが世の常。尊敬する先生と少しでも近づくことができればと思った次第でして……。本当にすみません」

 彼女は深く低頭した。

 確かに、ネットを使えばわたしの素性を知ることなど簡単なのかもしれない。しかしそんなことをする人間がいるとは思ってもみなかった。なぜならわたしは別段、有名人でもないわけであり、単なる物書きの端くれに過ぎない。芸能界で華々しく輝いている著名人ならともかく、わたしのようなやくざものの素性など、誰が知りたいと思うだろう。

 だが、やはりどんな世界にでもマニアとやらはいるのだろう。わたしのことを慕ってくれることは大変ありがたいことであるが、少しばかり恐ろしくもあるものだ。

 おそらくこの女性もマニアなのだろう。そして、赤井くんがどこかしらから聞いてきた『廃墟ツアー』とやらを企画している。わたしのことを知っているくらいなのだから、どうやらそれも本当のことのようだ。

 彼女からは特にこれといって変わったところは見受けられなかった。どこにでもいるような、普通の女性。物腰は大変柔らかであり、非常に落ち着いているようだ。今は芸能人を目の当たりにした女子高生のように恥じらってしまっているが、その中に見え隠れする彼女は自らの正義を貫く凛々しさを抱いているように見える。わたしのことを調べたのも、本当に、ただ純粋に興味があったからに他ならないのだろう。彼女の目がそう物語っている。

「そうかね。まあ、美人に尊敬されるのは悪い気はしないものだ。顔をお上げなさい」

 彼女は腰を上げ、わたしを上目遣いに見上げる。

「改めて自己紹介をしておこう。わたしは並木修。君もご存じの通り、廃墟関連の記事を書く物書きだ。そして、こっちがわたしと行動を共にしてくれているカメラマンの赤井夏生くん」

「ども、赤井っス」

 赤井くんが差し出した手を彼女は握る。赤井くんが先ほどから鼻の下を伸ばしていることには気づいていたが、彼の若さでこれだけの美人を目の前にしてしまえば仕方のないことだろう。わたしももう十年若ければ、わたしを崇拝するという彼女の気持ちに付け入っていたかもしれない。

「赤井さまのお写真、わたくし大好きですわ」

 女性の言葉が赤井くんの鼻の下をさらに伸ばしていった。

「それで、君は? この店の従業員かな?」

「これは失礼いたしました。わたくし、『天城旅行案内所』オーナーの天城弥美と申します。どうぞお見知りおきを」わたしの驚きを無視し、彼女は再び頭を下げる。

「君のような若い女性が切り盛りしているというのか」わたしはつい口走ってしまった。

「先生、その考え方は古いっスよ」赤井くんが横から小突いてくる。

「ふふ……。まあ、小娘の道楽ですわ。親が高齢で引退しまして、わたくしが店を継いでいるだけですから。大手と契約してツアーコンダクターなども兼ねていますし」

「確かに天城さんみたく美人なツアコンだと、旅行も楽しくなりますもんね!」

「いやですわ、赤井さまったら」天城くんは口元を隠して小さく笑う。「そのようにしてどうにか生計を立てております。このような街の小さなお店にお越しになるお客様などそうそうおられませんから」

「だが、一部で熱狂的な支持を受けているのではないのかね?」

「ええ、お恥ずかしながら……」天城くんは恥ずかしそうにうつむいた。「やはり、そのことでいらしたのですね」

「この敏腕カメラマンの赤井くんが、どこからか情報を入手してきてね。ええと、友達の親戚の隣のうちの猫から聞いたんだったか?」

「なんスか、それ」赤井くんはわたしを横目で睨み付ける。「どうやって猫から情報を仕入れるんスか」

「ともかく、こちらで『廃墟ツアー』なるものを斡旋していると聞いてやってきたのだよ。是非とも参加させてもらおう、と思ってね」

「……」天城くんは黙り込んだ。なにやら迷っているらしかった。

「ダメかな?」

「いえ、そういうわけではないのですが……。わたくしがお客様をお連れする廃墟は、一般の廃墟とは少しわけが異なっておりまして……」

「もしや、取材という名目が気に入らないのかね」

 わたしの言葉を受けた天城くんはまた上目遣いでわたしを見、そして小さく頷いた。

「……その、あまり多くの方に知られたくはないのです」

「なぜだ? 廃墟など、近くを通りかかった者は確実に目を向けていくものだろう。彼らはその事実を第三者に告げ、そこから情報は伝達されていく。もしも君が独自に確保している物件があるとしても、それは決して君が所有していることにはならない。かつてわたしもどこかで書いたが、『廃墟はあらゆる人間に対して平等であり、普遍な存在である』、これは廃墟の原則とも言えるだろう」

「……」

「わかった、ではこうしよう。実際にツアーに参加してみて、取材も行う。記事も作る。だが、その後天城くんに検閲してもらい、許可をいただいた上で流通させる。……これでどうかね」

 天城くんはまだ頷こうとはしなかった。

「確かに、わたしと赤井くんは廃墟を巡り、写真に納め、記事を書いている。だが、それはあくまでわたしと赤井くんの純然たる好奇心に則って行っている。金のためだとか、出版社のためだとか、わたしはそんなことなどまったく考えてはいない。わたし自身が心から納得した場所しか掲載しないことにしているのだよ。わたしがその場所で感動し心を動かされたという事実を、わたしと趣味を同じにする読者にも知ってもらいたい、ただそれだけのためにわたしたちは廃墟を追っている」

「……オレは先生みたいには深く考えちゃいないんですけど、オレにとって『廃墟』ってのは、何ものにも優る被写体なんスよね。陰影、色彩、物体、過去と現在、それに未来。あらゆるものがその場所に混在しているカオスな空間。だが、それは至ってシンプルだ。カオスを感じさせるのは見た者の感情、だから見方はひとによって実に様々になる。そういうのって絵画に非常に近いと思うんです。写真は事実を映し出す。それ以上でも、それ以下でもない。だけど見るひとが加わると幾通りもの作品になる。現物と写真家、視聴者とが作り出す芸術作品。それがもっとも効果を発揮するのが『廃墟』という場所だと思うんです」

 赤井くんは興奮を抑えるために一呼吸置いた。やがて人なつっこい笑みを見せながら追加する。

「……ま、良い写真が撮れれば最高ってことですよね!」

 我々の必死の説得を黙って聞いてくれていた天城くんは、やがて諦めたかのような小さなため息をはき出した。

「……わかりました。お二人を『廃墟ツアー』にご案内いたしましょう」

「やった! やりましたね、先生!」

 はしゃいでいる赤井くんをなだめる。……まったく、なかなか頑固な娘さんのようだ。こうまで説得に骨が折れるとは思いも寄らなかった。

 こういうとき、わたしと赤井くんは抜群のチームワークを発揮する。廃墟に入ろうとして土地の所有者に見つかったときなど、わたしと赤井くんのマシンガントークで相手をねじ伏せ、説得してしまうのだ。語ることすべてが嘘だとは言わないが、ほとんど心にも思っていないことだ。わたしたちが求めているものと、出版社や読者が求めているものはイコールになることはないのだ。わたしたちができるのは、売れそうな物件を見つけることだけ。ただそれだけなのだ。

 天城くんは再びカウンターの奥に回り込み、わたしたちにも座るように言う。引き出しから一枚の書類を出すと、わたしと赤井くんの間にスッと差し出した。

「それではまず、こちらのアンケート用紙にご記入ください。お手数とは思いますが、ツアーの下準備ですのでご協力お願いいたします」

 赤井くんと一緒になって、目の前にある紙をのぞき込んだ。そして顔を見合わせる。

「……先生、書いてください」

「……」自分だけ楽しようというのか、と目線で訴える。

「オレは先生を信頼していますから。先生の行くところは絵になる場所が多いし」

 わたしはため息を一つはき出、再び紙を見る。

 いくつかの項目が書かれており、そこに希望を書き込んでいくようだ。

 まずは『どのような廃墟をご希望ですか?』か。正直なところ、わたしには特に希望はない。だがしかし、どうせならわたしの行ったことのない場所がいいだろう。

 次は『ひと月に何度くらい廃墟に行かれますか』。これは微妙だ。仕事となれば数十件回ることもある。だがプライベートではほとんど行くことはない。……仕事とプライベートの垣根など、すでに崩壊してしまっているが。

『これまでにどのくらいの廃墟に行かれましたか?』そんなこと、いちいち覚えてはいない。たぶん千は超えているんではないだろうか。

『思い出に残った廃墟はどんなところですか』

 ペンを持つ手が止まった。

 ――思い出に残った廃墟。

 ふと、これまでに訪れた廃墟を思い返す。それは実に様々な廃墟。それぞれがそれぞれの持ち味を持っており、様々な記憶をわたしに投げかけてきた。

 だが、思い出に残る廃墟などあっただろうか。素直に言うと、記憶としては頭に残っていても、その場所に訪れて何らかの感動を覚えたことがあっただろうか、わからない。

 ……いや、きっとあったのだろう。あったにはあったのだが、今では完全に失念してしまっている。無いわけがないではないか。

 そうでないと、どうして今までこのようなことを続けてきたというのだ。

 感動したことはあった。だが、忘れてしまっている。

 この事実はわたしに大きな衝撃を与えた。自分自身を否定されたかのような、そんな大きな衝撃だった。

 とりあえず、わたしは記憶に新しい廃墟を書き込んだ。前回の取材にて訪れたアパートの廃墟群。だがそこで何らかの感慨に浸ったという覚えはない。淡々と取材し、赤井くんが写真に納めるのを眺めていたことしか記憶にない。これはもはや、単なる「作業」に他ならない。

 書き込んだアンケート用紙を天城くんに差し出した。受け取った彼女は用紙に目を落とし、じっくりと吟味し始めた。

「……ご希望される廃墟ですが」やがて天城くんがぽつりとこぼす。「『わたしでも知らない廃墟』とありますが、それは先生の著作に掲載されていない廃墟、と受け取らせていただいてもよろしいのでしょうか」

「ああ、それで構わない。実際にはそれ以上の場所に足を運んでいるが、すべてを記事にするわけにもいかないから、そうとは限らないのだが。だが君がどの程度の数の廃墟を押さえているのかもわからないし、そのように書くしかなかった」

「わかりました。……具体的なご希望はございますか?」

「いや、特にない。しかし単なる住宅の廃墟はおもしろくないな。なるべくスケールの大きな、それでいて絵になる場所がいい」

 わたしは赤井くんをちらりと見た。彼もうんうんと頷いていた。

「了解しました。実はすでに、わたくしは先生と赤井さまをお連れする場所を一つ考えております。おそらくそこならば、お二方に充分納得していただけると思います」

「ほう、それはいったいどこなんだ?」

 天城くんは悪戯っぽく笑う。「それはまだ、秘密ですわ」

「……隠すことはないだろう。それに、もしかしたらすでにわたしたちが訪れたことのある場所かもしれない」

「ご心配には及びません。そう易々と足を踏み入れられる場所ではございませんから」

 妙な言い方だ、と思った。険のある言われようにも感じられるが、天城くんの言い方はそれが皮肉ではなく、紛う事なき事実であることを表している。だが、いったいなぜ「易々と足を踏み入れられない」のか。とんでもない僻地にある廃墟だというのだろうか。

「先生、この『思い出に残った廃墟』のアパートの廃墟群、というのは××の市営住宅のことでしょうか」

「ああ、その通り」

 わたしが答えると、天城くんはわたしのことをじっと見つめた。まるで品定めされているかのような感覚を覚えた。わたしは慌てて、嘘を見抜かれないための言い訳をまくし立てる。

「あれはその場所だけでなく、周囲を含めて素晴らしい。周りの町並みは充分に機能しているというのに、その数ブロックだけが朽ちている。懐古主義者が作ったアトラクションのように、町並みに突如として現れる廃墟群は感じ入るものがある」

「昭和の映画のロケに使えそうでしたもんね」赤井くんが口を挟んできた。「ありゃ、確かに絵になった」

「わたくしも行ったことがあります」天城くんが相好を崩し、柔和な笑顔を形作る。「封鎖されていましたけれど、こっそりと柵を乗り越えて中に入りました。まるで数十年昔にタイムスリップしたかのようで、とっても興奮いたしました」

「開いたまま転がっている傘を街灯がライトアップする……、あれはいい写真だった」

「ああいうのを、叙情的って言うのでしょうね」

「へえ。弥美ちゃん、解ってるねえ! 写真とかやらないの? やってみない? なんならオレのカメラ、一つ貸してあげようか」

「ありがとうございます。ですがわたくし、機械には弱くて……。インスタントカメラくらいしか扱ったことがないものでして」

 赤井くんは天城くんに熱心にカメラを勧め始めた。彼はおそらく、天城くんをナンパしているつもりなのだろう。しかしそれは見事に躱されている。しかも紙一重の部分で、だ。赤井くんに気がないことをさりげなくアピールしつつ、それでも悪いようには扱わない。そうすれば相手は傷つくことはない。客としても逃がさぬ、涙ぐましい努力に見える。

 赤井くんの無駄な行為を寸断し、わたしは天城くんとビジネスの話に戻る。

「それで、ツアーはいつになるのだ?」

「いつがよろしいですか?」

「早いほうがいいな。何日も待ってはいられん」

「わかりました。それでは数日中に」

「ああ、頼む」わたしは内ポケットからカードケースを取り出し、名刺を天城くんに差し出した。「ここに書かれた携帯番号に電話をしてくれ、日程が決まり次第に」

「了承いたしました」

「金は多少かかっても構わないから、良いところを頼むぞ。どうやら自信ありげだが、慢心はしないでくれたまえ」

「肝に銘じます。先生のお眼鏡に叶えう廃墟に、この天城弥美がきっとお連れいたします」

 天城くんは三つ指突いて頭を垂れた。

 やがて顔を上げた彼女の瞳。そこには得体の知れない闇が広がっていた。

 住人のいなくなった、朽ち果てた家屋の窓ガラスの奥に広がる闇のようだった。


 天城くんに聞いた駅間のホテルにチェックインしたわたしと赤井くんは、一服すると早速することがなくなってしまった。

 期待など初めからしていなかったが、この街には娯楽施設がなにもないらしい。天城くんの店がある商店街はもちろんのこと、駅周辺にも飲み屋はおろか喫茶店すら見当たらなかった。

 いや、正確には存在はしている。だが、それはやはりどう見ても営業しているようには見えないのだ。『廃墟』とまでは言わないが、ひとの出入りはおろか生活観すら見当たらない。街自体が死んでいる、そんな恐ろしいことが容易に頭をよぎる。

 ホテルにしても同じだった。

 格安のビジネスホテルだが、利用客はいない。わたしたちだけのようだ。行楽シーズンではないからかもしれないが、しかしシーズンだったとしても閑古鳥が鳴いていることだろう。このあたりに観光地などあるはずもないのだから。

 フロントの初老の男性は、わたしたちが三、四泊したいと告げると、「客なんかいないから、いつまででもいてくれて構わない」と恐ろしいことをさらりと言ってのけた。永住したくなるような街ならばありがたい申し出であるのだが、さすがにこの街で骨を埋める気にはなれない。

 何もすることがないのはホテルの室内でも同じなので、わたしたちは少しばかり出歩いてみることにした。ゴーストタウンなのだから、町中、あるいは郊外にそれなりの廃墟があるかもしれない。地の利のない赤井くんによる運転では心許ないので、駅前にたむろしていた客待ちタクシーを拾うことにし、わたしたちはホテルを出た。

 昼寝の真っ最中だった運転手をたたき起こし、わたしたちはタクシーに乗り込む。運転手は見るからに嫌そうに車を発進させた。

 わたしは車窓から街をぼんやりと眺めた。

 改めて見ると、本当に凄い街だった。もちろんこれは誉め言葉ではない。

 まったく機能している様子がないのだ。そもそも街というのは、人々が集まり、生活の拠点としている一定の地域を指す。だが、この地域は街の面影はあれどひとそのものが存在しない。点在はしているが、それぞれがまるで死人のように、その他に無関心でいる。

 ホテルのフロントマンも、このタクシーの運転手も、気力が感じられない。生きているのに死んでいるかのような、独特の虚無感を漂わせている。

 人々に活気がないから、街も死んだように見えるのだ。

 そんな街の中で、唯一わたしたちに現実感を与えてくれた場所、それは間違いなく「天城旅行案内所」だろう。わたしたちの生活環境と同じように彼女――天城弥美は生きている。少なくとも、フロントマンや運転手のように、ひからびた魚のように濁った目などしてはいなかった。

 天城弥美という女性が、この街をどうにか保たせている。そんなことを邪推させられる。

 わたしは確実に、天城弥美という人物から生を感じ取っていた。彼女の独特の雰囲気。それはまるで、初見の廃墟に訪れた時の高揚感に似ていると思った。触れれば壊れてしまいそうなくらいに脆く、だがしかし内奥には非常に危険な牙を潜めている。非常に薄く透明でいるが、しかし鋭利に尖ったガラス片、おそらく彼女を形容するならその言葉が適当だろう。

 彼女はこの死んだ街で唯一生きうる存在だ。街の精力を喰らい、麗容を保持し続けんという、魔女だ。生気を喰われた街はやがて廃墟になる。この街は彼女が育てている廃墟なのだ。そうに違いない。

 そんなことを考えながら、わたしは赤井くんにも運転手にも気取られぬように小さく笑んだ。白昼夢でも見せられているのではないだろうか、そんな気にさせられた。

 赤井くんは運転手に対してあらゆる質問を浴びせかけていた。このあたりに廃墟はないのか、営業している飲み屋はないのか、映画館やレンタルビデオショップはないのか、夜の店はないのか、ネットカフェはないのか。挙げ句の果てにはペットショップはないのか、とも聞いてる。ペットショップに行って何をしたいというのだろうか、赤井くんは。

「……居酒屋でしたら、駅前に数軒ありますが」赤井くんの質問攻めに辟易している運転手がため息とともにはき出す。「まあ、営業しているようには見えませんよね」

 わたしと赤井くんは顔を見合わせる。運転手の皮肉に満ちた物言いはわたしたちの浅はかさを責めているようでもあった。

「あいや、そういう意味では」

 赤井くんの弁明に、運転手の鼻笑いが浴びせられる。

「……わたしたちだって、好きこのんでこんな街にいるんじゃないんですよ」

「そりゃ、どういう意味で?」

 運転手は、逃げ出せないんですよ、と呟いた。そして、それっきり黙り込んでしまった。

 しばらく気まずい沈黙が続いた。どうやらこの地域の人々は客商売には向かぬようだ。久方ぶりに違いない客を目前にしても、愛想笑いの一つも浮かべないのだ。これはむしろ仕事に向いていないと言ったほうが正しいのかもしれない。

 やがて街外れまでやってきた。わたしたちが来た方向とは逆に向かっていたから、首都からさらに離れてしまったようだ。街そのものも色を失い、建物もぽつりぽつりとしか見受けられないような場所。そんなわびしい道沿いに一軒の喫茶店跡が見えてきた。ご所望の廃墟ですよ、運転手は言う。わたしと赤井くんは職業柄か、その建物に向き直った。洋風の古民家を改装したかのようなたたずまい、壁にはツタが縦横無尽に走り回り、扉や窓は板が打ち付けられている。しかし建物そのものはしっかりした造りらしく、比較的欠損は見られない。そしてなによりも、なんのおもしろみも感じられなかった。

「……」

「どうします、一応見ておきます?」言葉の出ないわたしに赤井くんが訪ねてくる。「運転手さん、ちょっと待っててもらえますか」

 喫茶店前で停車させた運転手はひらひらと手をはためかす。「いつまででも待ちますよ」

 気乗りしなかったがタクシーを降り、喫茶店廃墟をぐるりと見て回る。しかし、やはり特筆すべき箇所など何もなかった。一応カメラを携えていた赤井くんであるが、シャッターを押す気にはならなかったらしい。……それも仕方ないことだろう。

 結局わたしたちは早々に引き上げ、嫌々な運転手の尻をひっぱたき、適当なところを流してもらった。

 その後、廃墟らしい建物を見つけてはタクシーを止めてもらい、取材を試みるということを続けた。だが、数軒回ったものの、廃墟らしい建物は廃墟ではなかった。

 廃墟というものはひとの生活史から逸脱していることが大前提としてある。例外は、廃墟をねぐらとするホームレスや、浅はかな若者たち、そしてマニアどもだけ。人間の生きる活動が行われている場所は決して『廃墟』ではないのである。

 わたしたちが取材を試みた物件――それはほとんどが居酒屋や喫茶店だった――には、未だにひとがおり、密やかに営業をしていたのだ。

 落胆以上に、驚愕させられた。運転手が言っていたことは事実だったのだ。「営業しているようには見えない、しかし実は営業している」、これは紛れもない事実だった。商売そのものを生業としているのかわたしには聞く勇気はなかったが、とりあえず店は開いている。開けているだけ、そんな感じだった。

 そしてそのような場所は、当然ながら読者は望んではいない。むろん、このわたしもだ。なんせ『廃墟』ですらないのだから。「営業してなさそうでしている店舗」など、わたしの守備範囲外なのだ。

 初めからそれほど期待してなどいなかったのに、妙に打ちのめされた気分に毒されながら駅前へと戻り、わたしは運転手に代金を支払った。金を受け取った運転手は相変わらずの無表情で去っていった。おそらく、これがこの街のルールなのだ。

 運転手に「営業している」と言わしめた居酒屋は素通りし、ホテルへと戻ることにした。この街に対する赤井くんの愚痴を聞きながらスーパーで食料と酒を買い込み自室へと戻る。すぐさま赤井くんがやってきて、わたしの部屋で酒盛りとなったが、そこで聞かされたのはやはりこの街に対する愚痴でしかなかった。

 午後十時頃。突然携帯電話が鳴った。液晶画面には見慣れぬ番号が表示されていた。訝りながら出ると、落ち着いた女性の声が聞こえた。

 ――夜分遅くに申し訳ありません。わたくし『天城旅行案内所』の天城弥美と申します。

 久々に聞く、赤井くん以外の生気に満ちた声に、わたしは少しばかりの興奮を覚えた。

「おお、天城くんか。……この街はどうなっているのだ。ろくな廃墟がない」

 ――それは仕方ありませんわ。この街は廃墟になることを必死に拒んでおりますから。

 このとき、わたしは天城くんの言葉を意にも介さず、さらりと聞き流してしまった。酔っていたこともあったからもしれないが、別段、なにも不思議な部分はないと思ったからだ。それくらいに彼女の言葉はごく自然に発せられ、清流のごとく清らかだった。

「もうこんな退屈な場所には居たくない、そうやって赤井くんがずっと嘆いているのだ。鬱陶しくてかなわん」

 赤井くんはビールを吹き出し、「言ってないっスよ!」と声を張り上げる。

 ――あら、では赤井さまにとっては朗報ですわ。ツアーの準備が整いましたので、お知らせしようと思いまして。

「ほう、早いな」

 ――先刻申し上げました通り、ある程度プランはできあがっておりましたので。早ければ明日にでも出発できますが、いかがでしょうか。

「ああ、それは願ってもないことだ」

 ――それでは明朝、お好きなお時間にご来店ください。お待ちしておりますので。

 天城くんとの通話を終え、わたしは赤井くんにその旨を告げた。彼は諸手を挙げて喜んだ。それほどまでに、やはりこの街に退屈していたのだろう。

 なにぶん「廃墟ツアー」などという、わたしたち専門家ですら考えもよらぬビジネスをやっている彼女が連れて行ってくれる『廃墟』なのだ。この街によってさんざん裏切られた分、天城くんへの期待が高まるのも無理はない。

 まさに死に行く街に舞い降りた一筋の光明、とでも言おうか。

 果たして明日の我が身は天国か、あるいは地獄なのだろうか。

 宵は静けさとともに深みゆく。


 翌朝、わたしは赤井くんの運転する車に揺られ、寂れた商店街を走り抜けた。

 天城旅行案内所に到着すると、店の前に純白のRV車が止められている光景が目に飛び込んできた。その傍らでは天城くんがすらりとした肢体を直立させ、わたしたちを出迎えてくれていた。わたしたちの姿を確認すると、彼女は大仰にお辞儀してみせる。どうやら彼女はこの街のその他の人間とは異なり、やはりきちんとした躾の行き届いた商売人であるようだ。

「おはようございます。お天気にも恵まれ、本日は良い廃墟日よりですわね」天城くんはにっこりと微笑んでみせる。「よろしければ、店内でお茶でもお召し上がりになられますか? それとも早速ツアーに行かれます?」

 わたしは車を降り、天城くんと対峙した。

「そうだな、君に手間を取らせたくないから、さっさと出発したいというのが本音かな」

「了解いたしましたわ。それでは赤井さま、お手数ですがお車を駐車場にお入れください。店の裏側にございますので」

「え? どうやって行くの?」

「僭越ながら、わたくしの運転で参りたいと思います。粗末な車で誠に心苦しいのですが」 運転席から顔を覗かせる赤井くんは、非常にありがたい、という表情を浮かべる。そのまま一つ返事で嬉々としながら車を走らせていった。

 取り残されたわたしは、傍らにたたずむ女性を横目でそっと観察した。

 深い漆黒のスーツ姿の彼女。それはかなり見栄えのする様相であるが、果たして廃墟探訪に向いているかと言われれば、否だ。

 廃墟は常に危険がつきまとう。腐った床、崩れ落ちた屋根、そこかしこにあるがらくた……。数多の危険要因が存在している。スーツ一着を使い捨てにする勇気があるのならば、それはそのひと個人の自由なのだが。とりあえず、厚手の長袖、長ズボン、丈夫な靴、そして最低限軍手くらいは持ち歩きたいものだ。

 天城くんの姿はまるで若くして夫に先立たれた未亡人のようだった。法事のまっただ中から現れたとしても何の違和感もない。

「……君はいつもそんな格好で廃墟に赴くのかね」沈黙に耐えかねたわたしの口が勝手に言葉を発する。

 すると天城くんは恥ずかしそうにわたしを見上げた。

「……いやですわ、先生ったら。先生の前で失礼な格好をするわけにはいかないじゃありませんか」

 わたしは、そういうものかね、と返す。

「それに本日行く予定の場所は、それほど荒れているわけではございません。先生には物足りないかもしれませんが……」

「いや、別にわたしは荒れ果てた廃墟を求めているわけではない。わたしが求める廃墟は――」

 言いかけて、わたしはハッと口をつぐんだ。天城くんが不思議そうに見つめてくる。

 ……わたしの求める廃墟。それは果たしてどのような廃墟なのだろうか。思い出に残っている廃墟もない、そして求める廃墟もない。こんなことでわたしは、わたしとしての職務を遂行できているのだろうか。

 思えばいつからだろうか、廃墟を単なる商売道具としてしか見なくなってしまったのは。この仕事を始めた頃はまだ、情熱というか、廃墟に対するこだわりを持っていたはずだ。それがいつの間にか、読者のため、出版社のため、金のためだけに廃墟を見て回るようになってしまっているのではないだろうか。

 わたしは今でも廃墟界の第一人者としてのプライドを持ち続けている。だが、それは周りに乗せられて生み出してしまった醜い虚勢ではないのか。ずっと昔に、わたしはその地位を引きずり下ろされてしまっているのではないのか。

「……裸の王様だな」自嘲混じりに呟く。

「はい?」天城くんはやはり不思議そうな顔を向けてきた。

 否、そんなことを考えていても事態が好転するわけなどないのだ。今はわたしの情熱を取り戻してくれる廃墟と出会えることを願うのみ。この天城弥美という不思議な女性に任せておけば、なぜだかそれが現実となりそうな期待がある。

「いや、何でもないよ。ところで、これから行く場所はどちらになるのかな?」

「申し訳ありません。それはお教えできないのです」

 わたしは首をかしげる。「これから実際に行くのに?」

「これはわたくしどもが敢行するツアーの決まりというか、ルールなのですが、行き先は秘密にさせていただいているのです。目的地まではわたくしがご案内いたしますが、道中、先生と赤井さまには、失礼ながらアイマスクを着用していただきます」

「アイマスク?」

「はい。道程をご記憶されることのないようにするには、これしか方法が思い浮かばなかったもので」

「ツアーに参加した者はもれなくそのようにしているのかね」

「ええ」天城くんはにっこりと頷く。

「しかしそれでは、不平が多々出てくるだろう。今一度訪れたいと思っても、客は自らの足で二度と行くことは叶わぬのだから」

「確かに、そうですわね。ですがこれまでのお客様からクレームをいただいたことは、とりあえずありません」

 ……それはどういうことか。目的地が二度と行きたくないような、何のおもしろみもない廃墟だったのか。あるいは素晴らしい場所だが、自分の力では行きたいと思えないような場所なのだろうか。

 腕を組んで考え込んでいると、赤井くんが小走りに戻ってきた。

「それでは参りましょう。どうぞご乗車ください」

 天城くんは後部座席のドアを開け放ち、わたしたちを促した。香のような芳香が漂う、高級感あふれる車内。赤井くんの車とは大違いのクッションに、わたしの腰が歓喜の声を張り上げる。

 エンジンの始動する振動は音もなく、非常に心地よかった。やがていくつも搭載される車載スピーカーから流れる旋律。わたしはアイマスクをする以前に目を閉じ、耳を傾けた。

「これは……、キース・ジャレットだな」

「なんスかそれ」

「有名なジャズ・ピアニストだよ。……君はジャズなど聞かんか」

「へえ、先生がジャズに詳しいとは知らなかったな」

「別段、詳しいというわけでもないのだがな。ただこの曲『Restoration Ruin』は知っている。我々廃墟マニアには縁のある曲だからな」

「縁? どんなです?」

「廃墟は英語で『ruins』と言う。だからだ」

「えっ そんだけっスか?」

「そんだけ、だ」

 赤井くんが呆けた顔でため息をつく中、天城くんはクスクスと笑っていた。

「『廃墟の再生』とは、なんともお洒落ではありませんか。わたくしも特別ジャズに精通しているわけではございませんが、気に入っております」言いながら、彼女はわたしたちに手を差し出した。「早速ですが、出発前にこちらをご着用ください」

 わたしと赤井くんは天城くんからそれを受け取る。

「なんじゃ、こりゃ」

「見ればわかるだろう、アイマスクだ」

「いや、それはわかります。なんでこんなものを渡されるのか、ってこと」

「文句を言わずに着けたまえ。彼女なりの、わたしたちに安らかに眠ってもらうように、という素敵すぎる心遣いだよ」わたしは深く説明する気にもならず、さっさとアイマスクを着用した。

「赤井さま、申し訳ございません。当ツアーの決まり事なのです。どうかご了承くださいませ」

「……むう、わかりましたよ」

 赤井くんがもぞもぞと動く気配がする。

「ご協力に感謝いたしますわ。道中にはこれといって見るべき場所もございませんから、どうぞゆっくりとお休みください。それでは出発いたします」

 我々二人がきちんとアイマスクを着用し、道順を悟られないようになったと判断したのか、天城くんはそっとアクセルを踏み込んでいった。

 心地の良い芳香、穏やかなジャズ、キース・ジャレットの上手くもなく下手でもないヴォーカル。それらがわたしを眠りに誘うことは実にたやすいことであった。


「先生、先生!」

 赤井くんに肩を揺すられ、わたしは覚醒した。

「なんだね、騒々しい」

「起きてください。到着しましたよ」

「失礼な、わたしは眠ってなどいないぞ。赤井くんのいびきがうるさくて一睡もできなんだ」

「そりゃこっちの台詞ですよ。先生の高いびきのおかげでオレはずっと起きてたんスから」

「そうか、それは済まなかったな」何の感情も込めずに呟く。「ところで、今何時だ?」

「さあ。曲が何巡かしてましたから、出発してから二、三時間は経ってるんじゃないですか?」

「ふうん。それで、もうアイマスクは外してもいいのか?」

「オレに聞かないでください。一応、弥美ちゃんの許可をもらったほうがよくないですか?」

 わたしはしばし耳を澄ました。もう一人の人間の気配が感じられなかった。「……天城くんはどこへ行ったのかね」

「ちょっと待っててくれ、って言って降りていきました」

「そうか。まあ到着したのだから、外しても構わないのだろう」わたしはアイマスクを捲り上げた。久しぶりの陽光が視神経に酷く突き刺さる。「……まぶしい」

 細めた目を窓の外に向けた。そこは一面の緑。山深くに入ってきたようだ。

「ここはどこかね」

「だから、オレに聞かないでくださいってば」言いながら赤井くんもアイマスクを外し、外の景色を眺めた。

 深緑を見つめていると、やがて目も陽光に慣れてきたようだ。わたしは天城くんを待たず、自らドアを開けて車を降りた。純白のRVから少し離れ、首を左右に巡らせてゆく。

 それほど高くない山々に囲まれた谷間、そこに作られた集落がある。わたしたちはその集落の入り口に立っていた。車は入れないであろう細い路地が一本、集落を突き抜けており、道の脇に数軒の民家がある。藁葺きの屋根はさほど手入れされていないらしく、雑草があちこちから顔を覗かせている。そのほかは、おそらくかつて田んぼか畑だったであろう平地。斜面を平らにならしているため、棚田のようにも見える。だがその規模はそれほど大きくはない。小さな田んぼがいくつも重なり合っている。田畑と民家の間の小道を辿ってゆくと、他の民家よりも少しばかり立派な屋敷が建っていた。入母屋の屋根は比較的良い状態で保たれているようだった。

 路地の脇には紅色のコスモスや、深紅の彼岸花などが咲き乱れている。濃緑と相まって毒々しさすら感じさせられる。それらを中和するかのように、藁葺きの建物が可愛らしいキノコのようにこぢんまりとたたずんでいる。よくある田舎の原風景、まさにそれだ。

 念のため振り返り、集落と逆の方向も見てみたが、山林が広がるだけで特になにもなさそうだ。ということはつまり、天城くんがわたしたちを連れてきたのはこの集落なのだろう。しかし一見したところ、集落の藁葺きキノコ建築物は廃墟には見えない。もしかするとひとは住んでいないのかもしれないが、それは廃墟らしからぬ姿をしている。

 生前の姿を保っている、とでも言うべきか。廃墟にある空虚感がまるで存在しないのだ。生き生きとした何らかのエネルギーに充ち満ちているかのような、この瞬間にも建物の出入り口から腰の曲がった頬被り姿の老婆がよろよろと出てきそうな予感すらある。コスモスが乱舞する段々畑も、まるで収穫を待ちわびるかのようだ。幻想的な、自然と調和した暮らし、それが今でも保たれているように思えた。

 だが、そこには間違いなくひとはいない。なぜだか解らないが、わたしにはその確信だけはある。

 路地の入り口に目を向けると、地に膝をついて、両手を顔の前で組んでいる天城くんの姿があった。あたかも路地の先にある何かに祈りを捧げているように見える。わたしは首を捻りながら彼女に近づいていった。

「……何をしているのだ?」

「先生、お目覚めになられましたか」天城くんは顔を上げる。「ぐっすりとお休みでしたので、先に儀式を済ませておこうと思いまして」

「儀式?」

「ええ。入る許可を得る儀式ですわ」

「許可を? いったいだれにかね」

「だれというわけではありません。入る相手、そのものです」

「それはつまり……廃墟か?」

「はい」天城くんはにっこりと笑った。「通常は、そうです」

「通常は? すなわち今君が行っているのは、通常とは違う儀式ということか」

「あ、しばしお待ちください。彼が目を覚ましましたので」

 そう言うと天城くんは再度路地の先に目を向けた。そして、彼女の誰に向けてなのかわからないつぶやきが始められた。わたしは彼女の声に耳を澄ませる。

「おはよう、今日もいいお天気ね。……え? ううん、今日は違うの。この方たちは特別なお客様だから、いつもみたいにしちゃだめ。……なあに、お腹が減っているの? もう少し我慢してね、近いうちにごはんをあげるから。……もう、そんなわけないじゃない」

 彼女はまるで目の前にいるだれかと会話しているようだった。いや、まさしく会話しているのだ。それはわたしたちには見ることのできない何者かであるようで、天城くん一人にしか存在がわからないらしい。しかし確実に彼女の目の前に存在しており、彼女はこうやってお話をしている。あたかも稚児をあやすかのように、優しい口調で。

「ん? ……いつもの挨拶は、ですって? ふふ……、わかってるわよ。『ただいま』、これが聞きたかったのでしょう? ……ありがとう、待っていてくれて。寂しかったのね。……うん、もう大丈夫だよ」

 まるで恋人と語らっているかのようだ、と思った。“彼”とはまさに彼女の思い人に他ならない、そうとしか思えない。会話をする天城くんは慈愛に満ちた微笑を浮かべている。その姿は容易に聖母を想像させられる。時にうっすらと目を細め、時には無邪気な笑顔となり、彼女は“彼”に語り続ける。わたしはただ黙ってその姿を見ていることしかできないでいた。

「それじゃあ、わたしのお客様をあなたの中にお連れしてもいいかしら? あなたのことをご紹介差し上げたいの。……ううん、眠っててもいいよ。わたしたちも、できる限り静かにするから。……うん、ゆっくりお休み」

 天城くんが語り終え、再び目をつむると同時にわたしの肩がたたかれる。振り返るとにやけた顔の赤井くんが居た。

「せんせ~、何を見とれちゃってるんですぅ?」赤井くんはわたしの肩を小突く。「弥美ちゃんが美人過ぎるのはよくわかりますけど、こんなところで妙な気を起こさないほうがいいっスよ」

「馬鹿者。そんな気などあるわけがなかろう」

「またまた、強がっちゃって。彼女を襲ったりなんかしたら、ばっちり証拠写真撮っちゃいますからね」

 馬鹿なカメラマンを威嚇するように睨むと、彼は色を失って両手を挙げた。

「ジョークっスよ、ジョーク!」

「どうかなされました?」我々の様子を見つけた天城くんが近寄ってくる。

 わたしは憮然としながら、何でもない、と答えた。天城くんはきょとんと首をかしげる。

「はあ。……では、参りましょうか」小道の先を指して彼女が言う。

 機会を失ってしまったわたしは、ため息をつきつつ歩き出した。

 ……まったく、馬鹿者が。赤井くんのおかげで、天城くんがここで何をしていたのか聞きそびれてしまった。彼女がいったいだれと会話していたのか、何故彼女にはそれが見え、我々には見えぬのか、聞くことができなくなってしまった。

 そんなことを少しも知らないカメラマンは、楽しそうにあちこちにレンズを向けていた。


 天城くんに続いて、わたしと赤井くんは赤茶けた地面がむき出しの路地を歩いていった。カメラから集落の様子を窺っていた赤井くんだが、家屋までの小道には草花しかないと知ると早々にカメラを降ろしてしまった。カメラと共に好奇心も彼の奥底へしまい込んでしまったらしく、饒舌だった彼は何処かへと去っていったようだ。

 確かに、この場所にはこれといって興味をそそられるような部分は見当たらなかった。

 これほどまでに原風景が保全されているのだから、この場所がどれくらいの昔から存在しているのかわたしには判りかねるが、それなりの歴史的価値があると言えるだろう。しかしわたしたちにとって、そのような歴史的価値などさして重要ではないのだ。

 わたしたちに重要なのは、それが『廃墟』としての形を有しているか、ということだけだ。わたしは廃墟ライター、そして赤井くんは廃墟カメラマンで通りっている。我々から『廃墟』を取り去ってしまうと、後には何も残らなくなる。わたしと赤井くんにはそれほど『廃墟』という部分が重要なのだ。

 だがここには肝心の『廃墟』らしさがない。よってわたしたちにとっては意味のない場所なのだ。少なくとも、この時点では。

 わたしは天城弥美という人物についてまださほど詳しく知り得ていない。だが、彼女の容姿、雰囲気、態度などから、ある程度の人物像は想像できる。わたしの中での彼女は、出発前に彼女が自ら発言した「これまでの客からクレームをもらったことはない」という言葉どおりに、顧客に対して失望させるようなことなど決してしない人物である。客の要望は必ず達成してみせる、そんな執念にも似た信念を貫き通している人物のように思える。

 だとすれば、この先にわたしたちの求める『廃墟』が存在しているに違いない。果たしてそれが現実だとすれば、きっとこの世のものではないような光景が広がっているのだろう。深緑に縁取られ、様々な朱色で飾られた、朽ちゆく建造物。それはかつてないほどの麗艶な姿となるだろう。

 正直に言うとわたしは今現在、少なからず落胆させられている。それはもちろん赤井くんも同様だ。しかし、心の奥底で天城弥美という人物に大きく期待する部分もある。

 わたしはそれら二つの相反する感情を密かに楽しみながら、その時を待っていた。

「……こちらには、二十数年前までひとが暮らしておりました」天城くんがゆっくりと語り始める。「しかし現在では、この通り無人の廃村となってしまいました」

「へえ。廃村ときたか。『廃墟』よりもスケールがでかいね!」赤井くんは無理に元気に振る舞っている。天城くんに気に入られるべく涙ぐましい努力をしているらしい。

「しかし、だれか手入れをする人間がいるのではないのかね」

 わたしの質問に、天城くんは首を横に振った。

「馬鹿な、あり得ん。二十年もこのような状態が維持されるわけがない」

 少なくとも、この場所は荒れ果ててはいない。人間が生活している気配は希薄だが、自然による風化の様子も見られない。たとえばこの集落に住まう老人たちが居たとして、彼らがどうにか状態を保っている、それくらいに「新鮮」に見えるのだ。

「……確か君は、『自分が案内する廃墟は他と少し異なっている』と言っていたな。それはすなわち、独自に見つけた廃墟を独占し、自らが好む状態に修復して保持しているのではないか? この廃村も、君が手入れしているのだろう」

 天城くんは含みのある笑みを見せた。……当たりなのか。

 期待感が薄れているのがはっきりとわかった。ここは間違いなくわたしも知らない廃墟、廃村だ。だが、知ったからといって、特になにも起こらない。感動も、欲求も、なにも沸いてこない。そんな無意味な場所だ。

 やがて一軒の家屋の前にやってきた。路地入り口からもっとも近い家屋、入り口から百メートルくらいの場所だろうか。赤井くんはようやく出番がきましたと言わんばかりに、我先にと建物に近寄っていった。わたしと天城くんも、ゆっくりと後に続く。

 まるで小屋のような民家だった。土塗りの外壁はあちこちひび割れ、一部は剥がれ落ちて内部の藁のような素材が顔を覗かせていた。屋根の藁葺きは幾重にも折り重なっているが、何十年も葺き替えはされていないのだろう、ほとんどが腐って黒く変色してしまっている。住人が居らず炊煙も上がらないためか、虫食いも酷い。昆虫にとっては充分すぎる寝床なのだろう。路地に面した壁に控えめな入り口が設けられている。安っぽい木の引き戸は固く閉ざされ、内部を窺い知ることはできない。

 建物の右側に回ってみた。後に改築されたのか、他と比べて新しそうな壁だった。木を打ち付けただけの棚がこしらえてあり、くわやすきなどの農機具がそのまま残されていた。ガラス窓もあり、煤けているが中の様子がうっすらと見えた。十畳ほどの囲炉裏の間が見える。手前は土間となっているようで、おそらくはこの窓の下が炊事場なのだろう。年老いた住人がかまどに火をくべ、目の前の田畑で採れた菜を調理している姿が目に浮かぶ。ふと気づくと、透視度の悪いガラスから畳の取り外された板間が見え、埃の化粧をまとったその姿を見せられると、それが夢の光景であることを認識させられた。

 ……状況に呑まれるな。自分にそう言い聞かせる。

 確かに天城くんの言う通り、この建物の内部は二十余年の長きにわたってひとの手が入れられたことはないようだ。

「……こちらのお家にはかつて、一人のおばあさんが暮らしていました」背後から穏やかな声が届けられる。「ご主人に先立たれ、お子様もいらっしゃいませんでした。いわゆる独居老人です」

 わたしの隣に並んだ天城くんは、土壁の間にある木の柱にそっと手を置いた。

「ですが、おばあさんは少しも寂しいと感じておられませんでした。この村に暮らす少ない仲間たちとともに、助け合い、支え合いながら生きてこられました」

「……」

「とてもお元気な方でした。御年八十にもなろうというのに、そちらにありますくわやすきを片手に、ご自身の畑へと毎日お仕事に行かれていました。雨の日も、風の日も、大雪の日も、一度も欠かさずに畑へと出向き、農作物の手入れをされておられました。

 ……この村に住んでおられた方々は、ほとんど独立した生活を営んでいました。自給自足によって糧を得、ご自分で食すよりも多い作物は他の住人の方々と、彼らの収穫物と交換するのです。収穫の少ない、あるいはまったく無かった住民の方々にも、笑顔で作物を分け与えた。ここではそのような穏やかな暮らしが行われていたのです、ほんの二十数年前までは」

「近代化の波に乗り遅れた集落か……」

 天城くんは首を振る。「そうではありません。当時はその必要がなかっただけのことです。……ここに住まわれた方々は、先進的な技術など必要とはしなかった。昔ながらの方法が彼らの性格に合い、好んで受け入れていました。それらを楽しんでいたのです」

「なるほどな。自ら望んで、生き方を貫いたわけだ。そこには不幸を感じる余地などなかっただろうな」

「幸不幸の概念は、決して他人から押しつけるものではない、とわたくしは考えます。こちらにお住まいの方々は幸せだった、ここにはそんな記憶がたくさん残されています」

 わたしは首をかしげた。天城くんのこの口ぶりは、まるで当時を見てきたかのようだ。

「あちらをご覧ください」

 彼女の指し示すほうに目を向ける。同じような民家がぽつんとあった。

「あちらにはおじいさんが住まわれておりました。こちらのおばあさんととても仲がよろしくて、どちらかのお宅の軒先で座り込み、日が暮れるまでたわいもないお話に興じておられました」

 ふとある仮説を思いつき、わたしは思い切って彼女に尋ねてみた。

「……ここは、なんと言う村だったのかね」

 天城くんはわたしに向き直り、穏やかに微笑んだ。お気づきになられましたか、とでも言うかのように。

「ここはかつて、『天城村』と呼ばれておりました」


 コスモスと彼岸花が咲き乱れる小道を行く。なだらかに上るその小道は、未だに人々が歩いているかのように生々しい土が露出している。道の脇は様々な雑草が繁茂しているのに、小さな雑草一つ生えてはいなかった。

 やがて小道の脇に二本の柱が見えてきた。それはとても質素な造りであり、荒削りの丸太が地面に突き刺さっているだけのものだ。天城くんは柱の手前で足を止め、奥をじっと見つめた。柱の間を行く小道の先にある、他の建物よりも一回り大きな屋敷。

 丸太の表面に、一カ所かんなで削り取られているかのような滑らかな箇所があった。土埃が付着しており、わたしは何も考えずにその場所に触れてみた。乾いた土がぱらぱらと落ちる。その奥に、薄く掘られた文字があった。

「天城……」わたしはぽつりとこぼす。

「……わたくしの生家ですわ」

「生家? つまり君はここで生まれ育ったのか」

「ええ。……どうぞ、お入りください」

 わたしと赤井くんは天城くんに続いて柱を抜けた。

 天城弥美という女性はこの村で生まれた。先ほど彼女が語ったのは、やはり彼女自身が体験してきた「記憶」だったのだ。村入り口付近に住まう老婆の話、その老婆と仲の良い老翁の話、それらは彼女が幼い頃にその目で体験した事実だったのだ。そして彼女はなんらかの目的をもって、わたしたちをこの村へと連れてきた。わたしと天城くんを繋ぐもの、それは『廃墟』でしかありえない。彼女が廃墟にどういった思いを抱いているのか、それがわたしにどのように関係してくるのか、これから明らかになるのだろうか。

 小道は曲がりくねり、上へ上へと続いていた。いつの間にか色鮮やかな花々は見当たらなくなっていおり、名も知らぬような雑草だけが元気に葉を広げている。道は相変わらず乾いた土が踏みならされているだけだが、これまでよりもさらにきめ細やかになっているように感じた。この村のもっとも高い位置にある屋敷、それは間違いなく村の実力者が住まう家だ。家人の性は「天城」、そしてこの村は「天城村」と呼ばれていた。開村者が天城という、すなわち天城弥美の先祖だったのか。

 小道を上りきると屋敷の正面に出た。白い土壁に、ずんぐりとした入母屋の屋根。左手にはわずかながらの縁側も見える。建物は石積みにより一段高くなっており、下側は更地となっている。倉庫か離れか、脇に小さな小屋もあった。井戸らしき小さな屋根も見えた。

 その姿はこの村に存在している他の住居よりもさらに生々しい感覚があった。土壁はひび割れているが、何度か修繕がなされたようにも見える。村の入り口から見えたように、屋根の藁には雑草の一本も生えてはいない。多少苔むしてはいるものの、それは逆に生きているという事実をまざまざと示しているかのようだ。縁側の柱も床板もしっかりとした形を残している。屋根の下にあって比較的雨風をしのげるといっても、多湿な山中では考えられない保存状態だ。

 赤井くんはこの光景に芸術を見いだしたのか、わたしたちに構うことなくカメラを構えながら勝手に裏手に回り込んでいった。わたしと天城くんははその姿を黙って見送った。

 ふと、懐かしいような感覚に襲われた。わたしはその感覚の出所を探る。

 やがて気がついた。わたしはかつて、いくつかの廃墟でこれと似た感情を持ったことがあった。『廃墟』というほど朽ちてはいないが、ひとの手が加わった形跡もない、そんな場所だったはずだ。自然の圧力になんらかの方法で抗い続けている、そんな思いを持った。

 そういった場所では往々にして、わたしはある種のエネルギーを感じずにはいられなかった。ひとの営みがある、ない、ということではない。建物そのものが持つエネルギー。それがいったいどういうものなのか、わたしには到底解り得ないが、存在だけは確かに感じられた。

 この屋敷にもそのエネルギーが満ちている。朽ちてなるものか、とでも言わんばかりの気力が溢れかえっている。自然の摂理から逸脱した、別次元をさまよう大いなる力。生きる意志。

 わたしの頭に天城くんの姿が甦ってくる。村と外部とを隔てる境界線にて、彼女が独りごちていた言葉の数々。あれは間違いなくだれかに向けられていた言葉だ。そして、そのだれかは天城くんに言葉を投げ返し、彼女とだれかは会話を行っていた。

 もしかすると彼女が会話をしていた相手というのは、その大いなる力なのではないだろうか。『廃墟』が廃墟へと堕ちてゆくことを拒む存在、彼女はそれを知っているのではないだろうか。

 わたしは天城くんを見つめた。彼女は愛するわが子を見守るような優しい目つきで屋敷を見上げている。

「天城くん、君は――」

「先生」わたしのほうを見ることなく、彼女が言葉を発す。「先生は、『廃墟』というものに何を求めておられますか?」

「わたしは……」言葉に詰まる。わたし自身、それがもはや解らなくなってしまっている。

「わたくしは、生きる糧と趣味の両立、だと思っております。わたくしは廃墟をお好きな皆様を廃墟に導いて差し上げることで、糧を得ています。そしてなにより、わたくし自身が皆様を廃墟にお連れすることを楽しみにしています。わたくしが大好きな場所を見て喜んでくださる皆様のお姿、それがなんとも言えぬ喜びをもたらしてくれるのです」

「商売人の鏡だな、君は」

「正直に言いますと、わたくしは『糧』に関してはそれほど重要視しておりません。お金ならば、ある程度は他のお仕事で事足りますから。ですがこのお仕事は何よりも楽しいのです。商売を抜きにしても、きっとわたくしはこのツアーを続けていくことでしょう」

「……」

「ときに先生は、『廃墟に魅入られた』という感覚を持ったことはございませんか?」突然顔を上げた天城くんがわたしに聞く。

「魅入られる? それはいったいどういう感覚かね」

「そうですね……。

 かつて一度赴いたことのある場所に再び訪れ、そしてそこで先に発見できなかった廃墟を見つける。その廃墟は特別に変わった様子もなく、しかしなぜか妙に気になる。今にも扉から何者かが顔を覗かせる気がする。窓から誰かが見ている気がする。

 そのような感覚でしょうか」

 わたしはしばらく押し黙った。それはまさに、先ほどからわたしが味わっている感覚だった。いや、この村に訪れた時からつきまとう、「憑かれた」という気配。

「ない、と言えば嘘になる」

 わたしの答えに、天城くんは少し顔を明るくさせた。

「それは明らかに妙な感覚だった。これまでに何百件と廃墟を回ってきたが、そのような感覚を味わったのは数軒に過ぎなかった。

 たとえば幽霊の出る屋敷とうわさされる廃墟があったが、確かにそこは陰気な空気に満ち、暗闇のあちこちに何者かが潜んでいそうな雰囲気があった。しかしそれは単なる錯覚だ。恐怖と好奇心からわたしの脳が勝手気ままに作り出したビジョンに過ぎない。

 ……だが、君の言うその感覚はまったく違った。何も潜んでいるような隙間はないのに、あふれんばかりの気配がつきまとう。だが嫌なものではない。むしろある種の心地よさすらもたらしてくれた。今の今まで忘れきってしまっていたが、そういった場所では、必ずと言ってよいほどわたしは満たされていた」

「ええ、その感覚。わたくしはそれを、『廃墟に魅入られた』と表現させていただいております」

「言い得て妙だな。確かにあれは廃墟そのものに気に入られたかのような陶酔感があった」

 実際にそうなのですよ、と彼女は言った。

「廃墟は内に入れる者を選定するのです。彼自らが許可を下せば、その人間は内部へと入ることができる。しかし許可が降りなければ見つけることもできない。廃墟は実に気まぐれな存在なのです」

「ちょっと待ってくれ。君はまるでひとにたとえているようだが……」

「申し訳ありません。ですがこれは事実なのです。廃墟は生きている、この考えは一般的にみてもずいぶん突飛なものでしょうが、彼らにしても、わたくしにしても、公然の事実なのです」

「廃墟が、生きている?」

「正確には廃墟そのものではありません。それが実際はなんであるのか、わたくしにもよく解っておりません。しかし彼らは廃墟に居て、廃墟として暮らしています。生きるための糧を得、死ぬのを拒んで命にしがみついている。それはまさしく生きていると言えるのではないでしょうか」

 彼女の突然の発言にわたしは混乱させられた。頭がくらくらと回り、視界がいびつに歪んでいる。胃の奥から刺激的なにおいが立ち上ってきた。わたしは強制的な深呼吸により、それらをどうにか押しとどめた。

「……済まんが、もう少しゆっくりと説明してくれないか」

「ではこうしましょう。廃墟を一個の人間であると考えてください。

 わたくしたちはもちろんのこと、すべての生物は体外の環境から栄養を摂取しなければなりません。それは生命を維持し、子孫を残すためであると言われています。動物は口を通して物質を取り入れ、植物は根から養分を得ます。同様にこの廃墟も――一個の人間として考えると――生きるためには外からエネルギーを摂取せねばなりません。エネルギーを得られなくなった廃墟は命を失います。屍と化すのです。そこにはもはや魂は宿っておりません。生物同様、単なる物質へと戻るのです」

「確かに、生物はそうだ。そうだが……」

「お考えの通り、建物は生物ではありません。明らかに無生物に分類される存在です。ですが、それは機械論的な考え方から導き出している思考であるのです。生命を論じるもう一つの考え方、すなわち生気論によると、生命現象は物理や化学といった現象とは異なる次元から成り立っています。生命現象が生物特有の原理に基づくのであれば、先生もお感じになられた気配から廃墟も生命であると言えます」

「それは暴論だ。二つの理論は互いに相反している。一方に基づかないのであれば他方に分類されるのは必然だ。しかし、特に生命などという未だ神秘的なジャンルにおいてそれがどのように原理するかを断言するのは不可能なことだ」

「ええ、その通り。ですからわたくたち生物と、廃墟のような無機物を分類することはナンセンスであるとも言えます」

 わたしははたと気づかされた。わたしの言葉、それは自らの思考を真っ向から翻す言葉に他ならない。生まれてからこれまでの長きにわたってすり込まれてきた機械論によって、わたし自身はやはり生物とそれ以外というジャンルを頑なに分類し続けている。

 生きているものは生きているし、そうでないものは生きてはいない。これは当然のことだ。我々の世界においては。

 建物は我々にとって『生き物』ではない。しかし、それはあくまでも我々の見ている世界のことでしかあり得ないことも確かなのだ。

 仮に別次元の存在というものがあるとすれば、天城くんが語ることも起こり得るのかもしれない。

 しかし、それらを許容することは、とてもではないがわたしには生涯不可能なことだ。

 なぜならわたしは、彼女の言う『廃墟が生きている』ということを信じられないからだ。それらから生物らしさを受け取ることができないからだ。姿も見えぬし、声も聞こえぬからだ。

「かねてから、日本には付藻神という信仰が存在しています。付藻神は長い年月を経たものに神々や霊魂が宿った存在であり、人々に禍や幸いをもたらすとされてきました。それらは道具や家畜などを丁寧に扱うことを暗に含んだ民間伝承だとも言われております。

 もっとも人間の身近にある道具は『家屋』です。ひとが生まれ、死んでいく場所。もっともたくさんの、濃い念がさまよっているはずです。もしも付藻神なる存在があるとすれば、そのようなものに真っ先に宿るのではないでしょうか。

 ……わたくしは彼らのことを、密かにそのような存在であると考えているのです。ですが先ほど申し上げた通り、彼らが実際にどういったものなのかはわたくしには解りかねます。生物であるのか、無生物であるのか、はたまたその両方でもない存在なのか、わたくしに知る手段はございません。それは彼ら自身も知らないことだから」

「わかった。君の言う通り『廃墟は生きている』としよう。そんな廃墟がなぜ中に入る者を選定するのだ?」

「彼らの内部に入るということは、つまり捕食されることを意味します。

 生物はこの世界で唯一自分だけの環境をもつ存在です。細胞という、薄い膜一枚で覆われた独自の世界。そこはその生物そのものであると言えるでしょう。生物は環境を体内に作り出すことで誕生しました。それはまさに、生と死を隔てる、無生物と生物を隔てる大きな現象です。生と死を司っている根源的な部分、それが『独自の環境の有無』であるのでしょう。

 そして、生物一個の環境内に他の物質が入り込む、これは栄養分を取り入れている時でしかあり得ません。すなわち捕食。

 ……わたくしたちも彼らも、自らの体内にほかの種を招き入れる理由など食事のためでしかないのです。わたくしたちも食物に好みがあるように、彼らにも好き嫌いがあるようです。彼らは気に入らない食べ物は一切受け付けません。そのためですわ」

「ちょっと待て。君の口ぶりは、まるで彼らの食べ物が人間であるかのように聞こえるぞ」

「事実、そうなのです。と言いましても、人間そのものではございません。我々の持つエネルギー、ようは生命力とでも言いましょうか、彼らはそれを糧としているのです」

「すなわち君は、腹の減った廃墟へ客を連れて行き、廃墟のエサとしているというわけか」

「悪意を込めた言い方をすると、まったくその通りです。先ほど申し上げた通り、わたくしは廃墟から糧と快楽をいただいています。これはわたくしから廃墟へのお礼と言いましょうか、代価とでも言うべき供物なのです」

「君は自分の客を贄としていると言うのか!」わたしは思わず声を荒げてしまった。

「お気持ちはよくわかります。ですがご安心ください、決して命に関わるようなことはございません。わたくしと廃墟は、もはや共生の関係を築いております。廃墟そのものにはひと一人などどうとでもできる力を秘めておりますが、それをわたくしの許可無く振るうということは間違いなくあり得ません」

「……なぜそう言い切れる?」

「彼らがわたくしに依存しているからです。彼らはわたくしなくしてはその生をつないでおくことができない。わたくしがエサを与えているからこそ生きながらえることができているのです」

「納得できると思うかね」

「無理もありません。ですがせめてもの償いとして、わたくしはツアーにご参加されるお客様には事前にそのことをお伝えします。廃墟に入るためにはそれなりの対価を払わねばならない、と。お客様は総じて首をかしげられますが、そこでツアーをキャンセルする方はおられませんでした。むしろ対価を支払うことにより、皆様はよりいっそう廃墟と親しんでおられます。それこそ、廃墟が来訪者を歓迎したからに他なりません。喜んで迎え入れてくれた、お客様はそのことを本能で感じ取っていらっしゃいます。そして、そこで体験したことは素晴らしい思い出として、皆様ご記憶くださっているようです」

「具体的には、どのようになるのだ」

「『廃墟』と言いましても、廃墟の存在する敷地が彼らと言えます。つまりは彼らの体内は敷地のすべて。

 外界と彼らの体内との境界――すなわち敷地の境界線をまたぐ際にお客様は強烈な虚脱感に見舞われます。背後から何者かに覆い被さられたかのように背中が重く感じてきます。浅薄な呼吸が続きますが、数秒から長くても数十秒で収まります。その後はすっきりと回復し、むしろ以前よりも体調が良くなったと言われる方がほとんどです」

「なるほどな、快く迎え入れられたほうが心地がいいことは間違いない」

 確かに、そんなことが巻き起こると記憶に残ってしまっても無理はない。地獄を見た後に到達する天国、あるいはムチを喰らった後にもらうアメの味、それらは極上のものであるはずだ。

「だが、わたしはそのような感覚を廃墟に入るときに感じたことは一度もないぞ。それにこの村に入るときもなんともなかった」

「彼らは無為にひとを襲うことはありません。立ち入る者が自らに仇なすと判断した場合はその限りではありませんが。こちらの村に入る際は、わたくしが事前に『今回は必要ない』と断りを入れておいたのです」

 村の入り口で見せられた天城くんの姿を再び思い起こした。『今日は違うの。この方たちは特別なお客様だから、いつもみたいにしちゃだめ』彼女はそう呟いていた。

 すなわち、いつもは連れてきた客の生命力を供物として捧げており、その後客に素晴らしい光景を見せつける。しかし今回の我々は彼女にとって特別な客であるため、そんなことをさせるわけにはいかない。だがそうすると素晴らしい姿を見せることができない。

 混乱する頭の片隅で、わたしはズキリと嫉妬を覚えていた。天城弥美に連れられてきた他の客たちは、いったいどのような光景を目にし、どのような思いを抱いたのであろうか。

「断りを入れた、ということは、通常のツアーにおいてはそのようにはしていないということだろう? ……天城くん、君はなぜ、わたしをここに連れてきた?」

 天城くんは複雑な表情で屋敷を見上げた。楽しいような、嬉しいような、しかし悲しくもあるかのような、はっきりとしない顔だった。確実なのは、何事かを憂いている、ということだ。

「……先生には、わたしのことを知っていただきたかったのです」

 その声には、愛するひとへの思いを吹っ切ったかのような色があった。


「君のことを知る? それはどういうことだね」

「正確には、わたしと彼ら――廃墟たちとのこと、ですわ」

「君が先ほど語った存在と、君がどのような関係であるのか、ということか」

 天城くんはコクリと頷いた。

「……わたくしがこのお屋敷で生まれたとき、彼はすでに死にかけておりました。わたしも正式なことは判りかねますが、村が開かれてからかなりの年月が経過しているようですので、それは寿命とも言える終焉であったのかもしれません。……彼だけではありません、この村そのものが死にゆこうとしていました」

 わたしは背後を振り返り、村の全景を眺めた。花が咲き誇り、生気に満ちた村。その光景は『死』という概念すら忘れさせてしまうかのように生き生きとしている。そんな村が、数十年前は滅びようとしていたらしい。それは現在の状態からはにわかには信じられないことだった。

「わたしには幼い頃からずっと、悲鳴のようなものが聞こえていました。当時はそれが何なのか判りませんでしたが、幾分悲しく思えたことを記憶しております。その声はわたしを大層不安にさせました。ですが、常に聞き続けていたわたしは次第に慣れてしまいました。――いえ、理解したと言えるかもしれません。わたしはそれらがどこから発せられているのかに気づくことができたのです」

「それが、この屋敷からだったのか」

「ええ。ですがこのお屋敷だけからではありません。村に存在するすべての家屋から、わたしはその悲鳴を聞き取ることができました。

 わたしがその存在を理解すると、彼らもわたしのことを理解してくれました。それからわたしたちの交流が始まったのです。

 わたしはこの村で一番最後に生まれた者になります。同年代の子供はおらず、周りは大人たちばかりでした。わたしにとって彼は唯一のお友達でした。姿は見えずとも存在は常に身近に感じられる、それはわたしに大いなる安らぎを与えてくれた。わたしはそれだけで満たされていたのです。

 当然、それまでに多くの苦難がありました。わたしはもちろんその悲鳴のことを両親や祖父母、村のおじいさんやおばあさんに話しました。ですが彼らは皆、信じてはくれませんでした。大人たちはわたしを気味悪がり、両親は二度とそのようなことを口にしないようにと叱りました。わたしはそれ以降、彼のことを他のひとに言わないようにしました。

 それは確かにつらいことでしたが、わたしはある種の優越感も持ち得ていました。自分は他のひとたちとは違う、特別な存在なんだ、と。

 この村のようにごく小規模の集落では、異物を排斥する傾向が特に強くなるものです。身体が不自由になってしまったお年寄りならば丁重に保護され敬われますが、たとえば欠損を持って生まれた子供などはすぐに排除されてしまいます。たかが数十年前でもこの村にはそのような風習が残っていたのです。ですからわたしも、捨てられ処分されてしまわぬよう、彼のことを隠し通すしかなかったのです。優越感をだれかにひけらかすことも、わたしと同じような体験をしている人間を探すことも叶えわなかったのです」

 わたしは酷く納得させられた。彼女の優雅な物腰、言葉遣い。それらは充分な教育のたまものであるのかもしれないが、それ以上に彼女自身が自らを一般世界から隔絶しているかのように感じられる。慇懃な態度で周囲の人間と接することにより、自らと他の人間の間に溝を築く。自分自身のこと深く知られぬようにするためだ。彼女は、幼少の頃からそうやって生きてきた。独自でそうせねばならぬことを学習し、生きるために必死になってきた。それは酷く孤独な世界であったに違いない。

 ……いや、そうではない。

 彼女には『彼』が居てくれた。だからこそこうやって天城弥美は立派に生きてくることができた。彼の庇護下に置かれることにより、彼女はより強固な自我を形成した。此岸と彼岸の合間にたたずむ、希有な存在として。

「わたしが村の人たちへ心を閉ざすと同時に、彼の言葉が理解できるようになりました。正式にはそれは言葉と呼べるものではありません、彼の思考がわたしの中に流れ込んでくるのです。彼が見てきた記憶、それらを経験したときの感情、痛みや苦しみ、そして喜び、楽しみ……。わたしはそれら彼の記憶を、映画を楽しむかのように鑑賞しました。わたしが求めると、彼は様々なストーリーを見せてくれた。わたしは村の人々以上に、彼から生きることを学びました。

 わたしが成長すると共に、彼の悲鳴の意味も少しずつ解るようになってきました。それはまさしく生への執着。彼はなによりも生きたがっていた。しかし残酷にも自らの死期が迫っていることを気づかされている。死を恐れるということに関しては、わたしたち人間と彼らになんら違いはありません。

 ……いえ、長い年月を生きながらえた分、彼らのほうがより生に固執していると言えるかもしれませんね。

 ですが、生きようとするものはやはり美しいものです。わたしには彼の慟哭が光り輝いて見えた。彼を助けてあげたいのはもちろんですが、正直に言いますと、生にすがり藻掻き苦しむ彼の様子をずっと見ていたかった、というのが本音かもしれません。

 わたしはそれから、彼をどうすれば助けてあげられるのかを調べました。彼が死にゆこうとしているのは紛れもなく寿命でした。ですが、彼は命さえあれば何度でも踏みとどまることができました。人々が生活を送る活力、それはすなわち彼の命となります。どうにか人間のエネルギーを与えなければならない。

 ですがこの村ではもはや不可能なことでした。住人たちは皆年老いていますし、いくら愛しているといってもこのような辺鄙な村では生きていくこともやはり難しい。少しずつひとが減ってゆくばかりで、新たな住人が来るということもありません。わたしの家族はどうにかこの村に残っておりましたが、一つの家庭だけでコミュニティーが成り立つわけもなく、押しつぶされるように街へ出ることになりました。もちろんわたしも一緒に、です。……ですが、街に出てからもわたしはどうすれば彼を救えるかずっと考え続けました。

 やがてわたしは、彼の影響もあって『廃墟』というものに興味を持ち始め、深くその世界に入り込んでいきました。もちろん、先生の著作も勉強させていただきました。各国の廃墟を訪ねて周り、それらを見てきました。そこでふと気づいたのです。いくらかの廃墟では、彼のような声が聞こえてくる、ということに。それはほんのかすかな声でした。耳を澄まさなければ聞き逃してしまうような、微細な悲鳴の断片です。

 ですが、その声に気づくことができたのが幸いでした。わたしは小さな声と心を通わせた。するとその彼は、独自の形になっていましたが、かつてはこのお屋敷の彼と同じだったことが解りました。おそらく彼は、各地の廃墟がまだ廃墟でなかった頃に転々と移動し、そこで自らの一部を残していったのでしょう。残された彼の断片は建物と一体化し、独自に成長していく。建物で生活する人々から生命を分けてもらい、やがて死んでゆく……。

 彼は詳しいシステムを語ってくれないので、彼がいつそうして子孫を増やしていったのか、なぜ今となってはこのお屋敷に定着しているのかは、解りません」

「……自らのエサ場にわが子を置き、自らは新天地を求めていった」

「そうかもしれません。そうやって彼という種の生活圏を広げていくのかもしれません。

 わたしが彼の子孫に出逢ったことは本当に幸運でした。わたしがかすかな声と呼応すると、ここに居る彼にもそのことが伝わったようです。彼から彼の子孫へネットワークが形成され、彼らは再び混ざり合いました。

 そういったことを全国各地で行うことにより、彼は子孫を残したすべての場所と繋がることができた。そこに人々が訪れると、彼は生命力を得ることができる。ですからわたしはツアープランナー兼コンダクターとなり、お客様を彼の居る廃墟へと導いているのです」

 天城くんは一呼吸置き、小さく息を吐いた。わたしも彼女を見習い、軽く深呼吸をする。

 ……未だ、彼女の言葉すべてを信じたわけではない。天城くんの語る内容の大前提、すなわち『廃墟が生きている』ということが何よりも信じられないのだ。一般的に考えると、やはりあり得ない話なのだから。これはわたしが既存の概念に囚われている証拠なのかもしれないが、概念を取り払ってみても信じることはできないだろう。わたしには『彼』が見えないし、『彼』の声も聞こえないのだから。

 そっと天城くんが移動し始めたので、わたしも無言で続いた。屋敷の玄関――他の建物と同じように、粗末な板造りの引き戸のもの――の前まで来ると、彼女は足を止める。

「ひとが死んでも、数ヶ月間は髪の毛や爪が伸びると言います。建物、特に木造建築においても同じようなことが起こるのかもしれません。しかし、これは明らかに違う」

 そう言うと天城くんは玄関を囲む柱を指さした。柱自体は磨き上げられた直後であるかのように直線的なのだが、そのうちの一カ所だけがいびつに盛り上がっている。

「何だ、これは?」

「わたくしが幼い頃、悲鳴のことを大人たちにわかってもらえなかった頃、苛立って付けてしまった傷ですわ」天城くんは恥ずかしそうに説明する。「……当時、こちらの箇所は深く削り取られていました。それが修復され、今では補強されたかのように頑強になっております」

「馬鹿な……、角材が未だ生を宿しているというのか」わたしは色を失って後ずさった。

 そんなわたしを、天城くんはニコリと笑って見つめる。

「……傷つけた時、普段は温厚だった祖父にとても怒られました。わたくしは怒られた恐怖で泣いていましたが、慰めてくれたのはやはり彼でした。『これくらいの傷、心配するな。きみだって、転んだら怪我をする。けれど、しばらくすれば直るだろう?』と優しく諭してくれました。……その言葉は、とても嬉しかった」

 恐る恐る盛り上がった部分に触れてみた。脈動も、なにも感じられない。当然だ、これは単なる木材であって、ひとや動物の手足ではないのだから。だが、間違いなくその部分は他と異なっている。明らかに修復した痕がある。しかしそれは人為的な補修ではない。材料となった木材そのものが自らを修復した、そのようにしか見られない。それがたとえば生きている木――常識的に『生きている』木ならばわたしも不思議には思わない。だがこれは、この木には根も無ければ葉も無いのだ。生から切り離された単なる物質に過ぎない。人間の死後しばらくは髪や爪が伸びる、それは死後もなお体細胞は活動しているからであり、エネルギーが枯渇すると細胞そのものが死滅する。それほど長い期間ではないのだ。

 だがこの箇所は、その程度の痕ではない。生きるものが時間をかけて壊れた箇所を修繕した、そのようにしか見えないのだ。これは……。

「こ、これが君の言う、『廃墟が生きている』ということなのか……」ぞくりと身震いしながら、どうにか声を出した。

「彼――廃墟は、何よりも生きることを望んでおります。ですから、わたくしはツアーを通じてお客様を彼に繋がる廃墟にお連れいたします。そこで少しばかりのエネルギーを分け与えていただく。彼はそのエネルギーを用いて、このように自らを修復したり、生命維持の活動源としているのです」

「ほ、ほかの廃墟はどうなる?」

「……彼は人間の習性をよく理解しています。『廃墟』は『廃墟』であったほうが、ひとも集まり易い。修復は考えていないようです。

 このお屋敷はどうやら、彼にとってかなり心地の良い場所であったようです。相当お気に入りで、いつまでも離れたくないと言っています。ですから彼は本体をここに置き、あちこちの廃墟に枝を張っているのです。このお気に入りのお屋敷を守り、いつか安らかに朽ち果てる。それが彼の夢であるらしいのです。……少なくとも、わたくしよりも先に逝く気にはならないようですわね」

 天城くんは微苦笑して見せた。わたしはもはや、何を言って良いのか判らなくなってしまっていた。

 目の前で起きている現象は明らかに常識では考えられないことだ。現象を説明するとしたら、天城くんが語る内容こそ唯一の答えであるように思える。だが、それはわたしには、わたしたち一般人には理解し難い答えだ。

「このお屋敷がこの状態のまま保持され、そして村も風化しないでいるのは、彼が生きていることの現れなのです」

「……そうか」わたしは小さく呟く。「君がさきほど訪ねた、『廃墟に魅入られた』という感覚。どうやらわたしの勘違いだったようだ」

「先生……?」

「少なくとも、わたしは『廃墟に魅入られ』てはいない。それはたぶん、これからも起こり得ないことなのだろう」

 ズキリ、と心臓あたりに痛みを感じた。これは嫉妬の痛みだ。わたしは、この天城弥美という女性に嫉妬心を抱いている。真に廃墟に魅入られたこの女性に対し、わたしは心から嫉妬を抱いている。

「わたしは、君のことを羨ましく思う」

 思い出した気がする。廃墟に心酔し始めた頃の熱い気持ち。確実に抱いていた、廃墟への愛情を少しだけ取り戻した気がする。

「……わたしは自分の無知を恥に思うよ。廃墟のことを単なる朽ちた建物くらいにしか思っていなかったし、その一面しか見ようとしなかった。奥深くに息吹く命を探ることもせず、表面だけを見てただはしゃいでいた」

「そんなことありませんわ」天城くんが言う。「先生は廃墟への大きな愛情を持っておられます。著作から、それが伝わってきますもの」

「よしてくれ。君と彼との深すぎる愛の前では、わたしのそれなど路傍の石にもならん。心底、君が羨ましい。廃墟に愛され、廃墟を愛した唯一の存在。わたしは………、かつてのわたしは、そうなりたいと願っていた。だが結局は、わたしは相手のことも考えずに、一方的に求愛していたのだな……。そのような男に相手が振り向いてくれるはずもない。まるでピエロだ」

 大丈夫、と天城くんは呟く。

「先生は、ここで彼を認識してくださいました。近いうちに彼のほうから近づいてくることでしょう。あの子は……、とても人見知りなんです」

 天城くんはにこやかな笑顔を見せた。自分がもっとも大切にしている、愛するわが子をひとに自慢する母親のように、朗らかで、柔和な笑顔。それはこの世のものではないほどに美しい姿だった。

 心臓が高鳴った。

 わたしは彼女に嫉妬すると同時に、淡い恋心も抱いてしまったようだ。

 世代も離れているこの女性に、年甲斐も無く恋をしてしまった。それは肉欲などとは無縁の、甘酸っぱい初恋にも似た感覚だ。天城弥美という『廃墟に魅入られた』唯一の人間を、もっともっと深く知りたい。そんな欲求がわたしの奥底からわき上がってくる。

 だが、彼女の柔らかな笑顔はわたしのその欲望をも抑え込んでしまった。

 ……どうやら、何の行動も起こさないうちからわたしは失恋してしまったようだ。無理もない。彼女は、わたしのようなちっぽけな人間などとは比べものにならないほどの、大きく深い愛情をすでに持ち得ているのだから。

 その時、穏やかな風がわたしのほおを打った。透き通る風の音の中に、何者かの声にも似た音が紛れ込んでいるような気がした。

 それはわたしにこう言った。

『おかえり』と。


 赤井くんと合流したわたしたちは路地を下った。

 若きカメラマンはわたしと同様、かの屋敷をずいぶん気に入ったようであり、たくさんのいい絵がとれた、とはしゃいでいた。彼のその素直さが、肉体的にも精神的にも老いてしまったわたしにはとてもまぶしかった。

 村と外界を区切っていた境界線から一歩足を外に踏み出すと、急に寂しさのような感情が胸に去来した。幾日にもおよんだ楽しい旅が終わってしまったかのようなもの悲しさ。わたしは名残惜しむかのように、もう一度集落のほうを向いた。

「……」

「先生? どうかしました?」赤井くんが顔をのぞき込んでくる。

 視線の先にある村は初めて見たときと同じく、やはり廃墟には見えなかった。うつろでもないし、色あせてもいない。弱々しくも生にすがる命の灯火が存在している。

 わたしは悩んだ。この村のことを記述すべきか、否か。

 書くとすると、天城弥美という人物のことをどうしても記す必要が出てくる。だが、果たしてそのことに意味はあるのだろうか。

 わたしは廃墟のありのままを読者に伝える、という責務を勝手に背負ったつもりでいる。それは読者に、実際にその廃墟に居るかのような臨場感を味わってもらいたいからに他ならない。そういった意味では、わたしはジャーナリストであるのかもしれない。しかしわたしは、彼らが喜びそうな場所を選別して手元に届ける、という仕事も持っている。その面から言えば、読者が目にするのはわたしの目を通した廃墟に過ぎない。となればそれはもはや現実ではなく、あくまでわたしの世界を映し出した虚構となる。ノンフィクションではあるが、読者にとっては現実ではないのだ。

 この廃墟は、これまでのわたしの文章以上にフィクションになる。読者はおそらく、そのようなわたしの作品など受け入れてはくれないだろう。

 なによりも、わたしは個人的にこの村のことを書きたくないと思っているらしい。単に金にならなさそう、という理由もある。しかしそれ以上に、天城弥美という希有な存在を読者に知られたくない、という思いがあった。天使とも悪魔とも判別が付かぬ、不可思議な彼女、わたしは彼女を独占したいとしている。

「……先生」

 穏やかに呼びかけられ、わたしはゆっくりと振り向いた。

 天城くんが軽く手を組み、わたしを正面に見つめている。

「可能であるのならば、こちらでのことは内密にお願いしたいのですが……」

「ええっ 弥美ちゃん、そりゃないよ! ここはとても素晴らしい廃墟だよ。歴史的にも、芸術的にも素晴らしい。きっと写真は見栄えすることだと思うよ!」

 天城くんの要望を受けた赤井くんがまくし立てる。自らの撮りためた芸術作品をどうしても発表したいのだろう。だが、彼は天城くんの語った彼女と廃墟との契りを知らない。

「『廃墟案内人』ってだけで充分いいネタなのに、この廃墟は弥美ちゃんの神秘的さとマッチして、とっても絵になるんだ。できるなら村をバックに、弥美ちゃんのグラビアを撮りたいくらいさ」

「まあ、赤井さまったら。でもわたくしはしがないツアーコンダクター、こんな見窄らしい女の写真などを撮られては、赤井さまのお名前に傷が付くことになってしまいますわ」

 赤井くんのナンパは、やはりやんわりと躱されてしまったようだ。

 わたしは苦笑しながら、赤井くんの攻撃を受け流す天城くんを見た。今はもう屋敷で見せた憂いに満ちた表情ではなくなっており、年相応の落ち着いた女性にしか見えない。普通に暮らし、普通に遊び、普通に恋するオフィスレディー。その気はまるっきりないが、客なので酷く扱えない赤井くんに対し、手慣れた男捌きでもって応対している百戦錬磨の大和撫子。

 その姿は実に愛おしい。

 わたしは赤井くんに忍び寄ると、彼のカメラを奪った。

「わあ! ちょっと、何するんスか、先生」

 メニュー画面を呼び出し、削除を選択する。そして「全件削除」を実行した。

「うわあああ! せせせ先生」赤井くんは手足をバタバタと動かした。「先生がご乱心だあ! 弥美ちゃんも見てないで、止めてくれよお」

「うるさいぞ、赤井くん。決めた。ここは記事にせん。というかできない」

「……どういうことですか」涙目の赤井くんが詰め寄ってきた。

「君はここの絵を高く評価しているようだが、振り返ってみたまえ。……この風景のいったいどこに『廃墟』がある? わたしたちが求めるのは『廃墟』だ。そうでない物件の写真を撮ったとて、意味があるまい」

「でも……、どうするんですか」

「なに、わたしの廃墟ストックはまだまだたくさんある。それに君もツーリングで見つけた場所があるはずだろう。隠さずに申告したまえ」

「そりゃ、あることはありますが……」

「秘密にしておこうったって、そうはいかんぞ。次は赤井くんの秘密の廃墟で決まりだ」

 膨れっつらの赤井くんをどうにか押さえ込んだ。彼は背を丸くして天城くんのRVへととぼとぼと歩いていった。

「……先生、よろしいのですか?」

 わたしは天城くんに笑顔を向けた。ここ一番の、頼りになるおじさんをアピールする豪快な笑顔だ。

「構わんさ。君の話は非常に興味深いが、しかしやはり現実離れしすぎている。いや、君にとっては現実そのものであることは重々承知だ。だが読者が望むのは、一般的な現実なのだ。気を悪くせんでほしいが、君たちの関係は『オカルト』に思えてくるのだ。重ねて言うが、わたしは充分に理解しているが、な」

「ありがとうございます。……わたくし、先生にお会いできて幸せです。わたくしと彼をご理解いただくことができて、本当に感謝しております」

「ふん、礼を言うのはこちらのほうだ。君には忘れていた大切なものを思い出させてもらった。どうやらわたしは、目的を見失っていたらしい。しかしそれを取り戻した今、わたしはより良い『廃墟』を読者に届けることが可能だろう。……いつか君の元へも届くことだろうから、楽しみにしておいてくれ」

「フフ、お待ちしております」

「……天城くん」わたしは背筋を伸ばし、襟元を正した。

「はい?」

「また、逢えるかね」

 一瞬、彼女は目を丸くさせた。すぐさまその目は細められ、極上の笑みとなった。

「……もちろん、会えますわ。いつでも、ツアーに申し込みくだされば」

 わたしは声を上げて笑った。

 やはり、わたしの恋心は天城くんに届かないようだ。わたしも赤井くん同様、ナンパに失敗してしまった。

 おそらく人生で初めての経験に違いない。

 フラれたにも関わらず、こんなにも気分が良いだなんて。


「それではお願いします、先生」

 若い編集者にひらひらと手を振り、わたしは足取り軽く会議室から出た。と、そこへ声がかけられる。会議室の前で待ち構えていた赤井くんだった。

「先生の嘘つき」

「失礼な、わたしがいつ嘘をついた」

「次はオレの廃墟でいく、って言ったじゃないスか。なのに企画そのものを変更しちゃうんですもん」

「ああ、そのことか。済まんな」

「まあ、いいっスけど。……でも大丈夫なんスか、先生が小説を書くだなんて」

 わたしは目の前の若造に胸を張ってみせた。

「馬鹿にするな。これでも物書きの端くれだ、文章を書くことには覚えがある」

「でもいつもの廃墟の本と小説とでは勝手が違うでしょう。ストーリーも必要なんでしょ?」

「むろん、ある程度はすでにできあがっている。たった今、企画が通りったところだ」わたしは再度胸を張り上げた。

 仕事を失ったカメラマンはその事実に大層驚いたようで、呆然と口を開け放っている。

「ちょっとちょっと! 先生とオレは一蓮托生じゃないんですか? オレの仕事はどうなるんです」

「心配するな、君にも意見を聞くことになるだろう。呼び出したら出てきてくれたまえ」

「それじゃ金になんないじゃないスか!」

「冗談だ。いくつか写真を載せることになると思う。君はイメージに見合った廃墟の写真を探すんだ。なければ廃墟そのものを探してきて、撮りに行ってもらわねばならん」

「よかった……、首がつながった」赤井くんは胸をなで下ろした。「って、『廃墟』? やっぱり廃墟関連の小説なんですか?」

「当然だろう。このわたしが書くのだから」

「まあ、確かにそうっスね。先生から廃墟を取ったらただのおじさんしか残らないですもんね」

「馬鹿者。ダンディーなおじさんだ」

「はいはい。それで、どんなのになるのか決まってるんですか?」

「具体的な内容はまだ固まってないので言えんが、タイトルは完成している」

 きらきらと輝く赤井くんの目がわたしに向けられる。「なんていうタイトルなんです?」

 わたしは彼に不敵な笑顔を向けた。脳裏に彼女の姿を思い浮かべながら、彼に言い放つ。

「……『廃墟案内人』、だ」


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