彼への扉
「だいぶ寒くなってきた……、透まだかな」
そう呟きながら紅葉の美しいとある公園のベンチで私は透を待っていた。
透とはつい最近付き合い始めたばかりの新米カップル。でも元から仲良かったから周りからも公認のカップルと言われていた。
今日がその記念すべき初デートの日だったのだ。
だけど、透は待っても待っても来る気配が無かった。携帯にも着信は無かった。
一人で待っている時間は寂しくて早く来て欲しいと何度も願った。約束の時間からだいぶ経っても私は透を待ち続けていた。
すると、待ち望んでいた着信が入った。すぐに携帯を開けて電話に出る。
「もしもし、透?」
少し怒った声音で私は言った。だけど、透ではなく相手は透の母だった。
慌てて謝り、どうかしたのかと尋ねた。すると、電話の向こうで透の母は泣き出した。
「透、家を出てすぐに交通事故にあったの……」
突然の話に私は何が何だか分からなくなった。
「あの子、救急車の中でも貴方の名前をずっと呟いていたらしいわ。責めて最期に会わせてあげたかった」
「……透は」
「逝っちゃったのよ、私達を置き去りにして」
時が止まったかのように私は身動き一つ取れなくなった。
透が居なくなった。
毎日入っていたメールもぷっつり来なくなった。
だからもう彼は何処にも居ないと分かっているはずなのに、ずっと携帯を見つめてメールを待つ私。
認めたくない。だってまだ私も透も中学生。まだまだ先は長かったはずなのに。
将来、透は建築家になりたいと言っていた。私は具体的な夢を持つ透を影で応援していた。
でもその夢さえも叶わないまま透が居なくなってしまうなんて……。
「どうして、どうして透がこんな事にならなきゃならなかったの?」
家の近所では子供達が無邪気に遊んでいる。この日がずっと続くと確信しているかのように。
本当はそんな幸せも脆く崩れ去ってしまうと言うのに。
事故を起こした車の運転手は酒気帯び運転だった。つい居眠りをしてハンドル操作を誤り事故になったと。
その時、透は一体どんな思いだっただろう。そう思うと自分が代わってあげられればと強く願ってしまう。
自分の命を捧げて構わないから、彼にもう一度会いたいと。
もちろんそんな願いは叶うわけも無かった。だから彼の死を認めたくなくて葬式にも行けなかった。
彼の居ない学校に行っても意味が無い。もう一週間は学校を休んでいる。それ程私のショックは大きいものだった。
もうこんな日々どうでもいい。どうせなら、私もあの世へ連れて行って欲しい。一度眠ってその眠りから覚めなければいい。
でも次の朝には必ず目を覚ましてしまう。起きたくなくても現実へ引き戻されてしまうのだ。
触れ合う事も、話す事も永遠に出来なくなってしまった。もう彼への扉は完全に消えてしまったのだ。
涙が頬を伝う。雫が床へ零れ落ちる。
――私を置いていくなんて、酷いよ透!
私は自分の部屋で泣き叫んだ。
その日の夜、私はあの頃の透に夢で会った。
こげ茶色のさばさばした髪、丸い灰色の瞳。全てが懐かしく感じる。まるでもう何年も会っていないような感覚だ。
何も言わずに透は手を差し伸べた。私はそれに応えるように抱きついた。
生きている温もりは感じる事が出来なかった。ああ、やはり彼は魂のまま私に会いに来ているのだと確信した。
少し背の高い透を見上げて私は言った。
「透、私をこのまま一緒に連れてって。一緒に居るって約束したじゃない。なのに、その約束を破るなんて卑怯よ。だから」
私の言葉を制するように透は掌で私の口を軽く塞いだ。まるで、そんな事聞きたくないとでも言うように。
どうして?
どうして私を連れて行ってくれないの?
私がどんなに辛い思いをしているか、分かっているはずなのに。
彼の表情が悲しそうに歪んだ。今にも泣きそうな顔だった。
何故、そんな顔を見せるのかその時の私には分からなかった。
やがて、深い闇が私の意識を奪っていった。彼の姿も闇に呑み込まれて見えなくなった。
夢から覚めて、私は起き上がると一階のリビングに向かった。
私の姿を見た両親は少し驚いていたが、前みたいに穏やかな表情を見せてくれた。
「お早う」
「お早う、今日はいい夢でも見たの?」
「……あのさ、頼みごとがあるんだけど聞いてくれる?」
「何?」
母は朝食の皿をテーブルに運びながら聞く。父は新聞で顔を隠していてどんな表情をしているのか分からない。
私は二人から視線を逸らして静かに告げた。
「私、海岸へ行きたいの。塩野海岸」
その名前を聞いた両親ははっとして顔を見合わせた。塩野海岸、そこは自転車で二十分ぐらいの所にある海岸で、デートとは言えないけどよく透と学校の帰り道に寄った海岸だった。
彼が居なくなってから思い出のある場所には行かないようにしていた。だから突然行きたいと言い出した娘に戸惑いを隠せないのだろう。無理も無い。
私は母が淹れてくれた紅茶を飲みながら二人の様子を伺う。
二人は少し相談して、やがてゆっくりと頷いた。自然と私にも微笑みが戻る。
もしかすると反対されてしまうかも知れないと思っていたのだ。そんな場所に行けば気が狂ってしまうとか言われて。
私の脳裏には楽しそうにはしゃぎ回るあの頃の私と透の姿が浮かんでいた。
朝食をさっさと済ませ、家族全員出掛ける準備を始めた。久々に外に出るので髪の毛とかはねているのを直すのには苦労した。母や父は毎日仕事に大体行っているから手際もいい。結局一番最後に身支度を終わらせたのは私だった。
父が車の運転席に乗り込む。母は助手席に、私は後部座席にそれぞれ乗り込んだ。
皆が乗ったことを確認し、父はアクセルを踏んだ。車はゆっくり動き出し、海岸への道を走り出した。
私はただ何も考えずぼうっと飛ぶように過ぎていく景色を見ていた。
――海岸に行けば透との思い出が蘇って辛いかも知れない。でも、幸せだったあの頃の記憶は消し去ってしまいたくない……
確かに彼が生きていた記憶を心にも体にも全て刻み付けたいのだ。
車の窓を少し開けてみる。うっすらと潮の香りがした。海に、海岸に近づいている証拠だ。
目を閉じれば透との思い出の情景が鮮やかに蘇ってきそうだ。あの頃は、本当に幸せだった……。
と、車が急に左へ曲がった。姿勢を崩した私は窓ガラスに額をぶつける。
「大丈夫?」
「平気よ。台無しになっちゃったけど」
「何のこと?」
「別に」
せっかく今の事など忘れて楽しかった日々に浸れていたのに。現実に戻されるとあの頃に戻りたいと強く願ってしまう。
ふと前方を見ると、青い海が目に飛び込んできた。白い砂浜がきらきらと輝いている。そう、ここが塩野海岸。彼との思い出が残る場所。
すぐ近くに車を止め、私は砂浜へと駆け出す。
全く何も変わっていない。あの頃と同じ情景がここにちゃんと残っている。
ただあの頃と違うのはここに透が居ない事だけだ。
両親は私に声をかける事は無かった。ただ見守っていた。邪魔をしてはいけないと悟ったからだろう。
私は思いっきり空気を吸った。新鮮な空気が胸いっぱいに溜まる。ゆっくり吐いて、心が洗われたような新鮮な感じになれた。
――ここに来て、良かった
ここでなら、彼との思念に終止符を打てる。そう感じた。
目の淵が熱くなった。溢れ出そうとする自分の気持ちを必死に抑えながら心の中で呟く。
――さよなら
波の音が強く耳に響いた。私はその音に惹かれるように海の方向を向く。
そこには信じられない姿があった。
海を背景にして、あの頃と全く変わっていない透の姿がそこにあった。
とうとう堪えきれずに涙が零れた。
私は透に抱きついた。彼の体にはもちろん温もりが無かった。昨日の夜見た夢と同じ。
彼は微笑んでいた。そして、ゆっくり私に告げた。
「これで、僕も安心して逝ける」
どうやら透は私のことが心配でここにずっと留まっていたらしい。
「絶対心を閉ざしてしまうだろうと思っていたから。僕の事、好きでいてくれて嬉しかったよ。ありがとう」
「私は、何もしてあげられなかったじゃない……」
「ううん、僕にとっては君が側にいてくれれば幸せだった。プレゼントとかなくたって僕は君の彼氏で居た事そのものがプレゼントだったんだから」
まるで天使のような優しさが私の胸を苦しくする。せっかく吹っ切れると思ったのに。
彼はそっと私の頬に触れた。
「もう、僕が居なくても大丈夫。僕の分まで生きて。決して僕と共に逝くと二度と言わないで欲しい。……君の笑顔が一番好きだよ」
そう言って透は私の頬に唇を寄せた。彼の唇が離れて、私は笑みを浮かべた。
どんなに悔やんでも、時は決して戻ってこない。失われた命も決して戻る事は無いのだ。彼はそれを私に教えようとしてくれた。
後ろばかり見ていても何も変わらない。だから、自分の足で前を見て歩いていかなければならない。
彼の姿が薄くなる。もう、逝ってしまうのだ。
透、と名前を呼びたかったけど、私は何も言えなかった。口を開けば涙が止まらなくなりそうだったから。
消えゆく中で、透は最後に私の名を呼んだ。
「さよなら、梓」
私の名前は彼に呼ばれてこそ意味がある。他の人が私の名前を呼んでも別に人形のように扱われているようにしか思えなかった。
精一杯の愛情を込めて私も彼の名を呼ぶ。
「透、さよなら」
完全に彼は消え去った。不思議と悲しみが襲ってくる事はなかった。
これで良かったのだ。彼が安心して逝けた。心配をかけなくて済む。安らかに眠る事が出来るのだ。
彼への扉は続いている。彼は私の心の中でずっと支えになってくれる。
――もう、私は大丈夫
海に微笑んで、私は砂浜を駆けていった。
初めての短編小説です。是非評価お願いします。