銀から金へ
初めて、怯えという感情を覚えた。
自然と足が一歩一歩と距離を取り、自身が安全と思える間合いを取ろうとする。
術を放つために広げて置かねばならない手を、無意識できつく握りしめていた。
「ほ、本当に、あなた様は」
『葵山』が『紅葉山』を変えてしまったのか、私利私欲の生き物に。
「……、……」
『紅葉山』の唇が何度か動いたのが守夏の視界に入る。
──と共に充分にとった距離は、その唇が動く瞬く間に無となった。
主の鼻が己の鼻を掠めた。
理解しようとした次の瞬間に、守夏の体は外へと放り出された。
巻き起こした風が本殿の蝋燭を吹き消す。
板間を破り玉砂利に叩きつけられて守夏の体は二回、三回と跳ねて石段前まで転がった。
何が起きて、どこをどう捻り飛ばされたのか守夏には全く分からない。
立ち上がろうとして右肩に痛みを感じ、肩を押さえられたのだと気づいたところで、守夏の寸前に再び『紅葉山』の姿が具現化していた。
「──ひっ」
恐れから、守夏は生まれて一度も上げたことのないような悲鳴を上げた。
目の前の『紅葉山』の瞳は守夏を見てはいるが光がない。
操られているかのようにただ赤い瞳が燃えている。
「お、お願いです」
声が震えていることに気づく。
次の瞬間に己の心臓が『紅葉山』の手の中にあっても、何の違和感もない絶望感が支配していた。
「ど、どうかいつもの、け、慧眼の『紅葉山』にお戻り下さい」
守夏の望みを聞き届ける素振りはない。
「地位や名誉や欲などに駆られる方ではなかった。そうではありませんか」
『紅葉山』が守夏の腹に手を当てた。
するりするりと手を這わせて着物の衿が交じわう胸あたりで手を止めた。
心臓のある位置からは少しずれている。
だが守夏はすぐに意図を理解した。
再び間合いを取ろうと動こうとするが動けない。
すでに守夏は『紅葉山』の放った術中にはまっていた。
腹を優しく撫でるようにあてがわれていた手に力がこもる。
『紅葉山』の手は守夏の腹部を貫いた。
盛大に飛び散るはずの血潮はなく、『紅葉山』の手は輝きの中にあった。
差し込む手は目にも見えぬ早さであったというのに、引き抜く手には重さが生じるのかゆっくりと手を引いていく。
五臓六腑を焼く痛みに、守夏は呻いて目尻から涙が落ちた。
焼かれたかのな悲鳴が山頂へ響き渡った。
守夏の中にあったのは、ひとの子が『紅葉山』に奉納した宝具のひとつ。
侍従が守り預かるという、信頼と契りの証でもあった。
守夏にとっては物理的に『紅葉山』と繋がる証であり、『紅葉山一ノ宮麓』を名乗る根拠でもある。
これを主に強引に奪われるということは、すなわち侍従としての契約を断ち切るということとなる。