銀から金へ
「何があなた様を狂わせたのですか。『葵山』の美しさですか、長き時の流れで心を病んでしまわれたのですか、私がお支えするに足りなかったのですか」
「うるさいのぅ……」
気怠そうに『紅葉山』は呟いて守夏へ鋭い視線を投げた。
「私の邪魔をするのか、守夏」
「ま、間違えておられる、朱秦様は間違えておられます。すでに山ノ狐もあなた様の奇行に不審を抱き山を降りました。全てがあなたを裏切っているのです、お分かりになりませんか、間違えておられるのです」
守夏は『紅葉山』に声を上げると、駆け寄って足元に跪いた。
「どうか、間違いをお認め下さい」
額を本殿に擦りつける守夏を見下ろして、『紅葉山』はため息をついた。
「もう一度言おう、邪魔をするな。このまま引け。乱暴をする気はない。私の考えが相容れぬならば私の侍従を辞めて『総本山』へ戻るがいい」
「嫌です」
守夏は下げていた頭を勢いよく上げた。
美しい白銀の髪が、蝋で照らされた本殿の中でいっとう明るく輝いた。
しかしもっとも透明さを持って輝くのは、守夏の青い瞳からあふれ出ようとする涙だ。
「止めてみせます。私の『大紅葉山』が過ちの歴史を刻むのであれば、命をかけて止めてみせます。それが『紅葉山一ノ宮麓』の責務」
守夏の目に炎が宿り、下段から光の一閃が放たれる。
『紅葉山』はそれを躱して守夏との距離を取った。
完全に避けたつもりであったが、一閃は『紅葉山』の頬を切りするりと血が流れて落ちた。
諍いで生まれた揺れが奥の院にも届いたのか。
命の危険を感じたのだろう、赤子の泣き声が守夏の耳に届いた。
『紅葉山』分社時雨の声に違いない。
守夏は引く姿勢を見せない。
一層にこの場を制圧しようとする気配が膨れ、殺意が場を支配する。
びゃあびゃあと、暴風に撫でられる柳が揺れるように泣き声は止まない。
何を疎んで泣いているかは、誰でも分かる。
この社殿を取り巻く殺気に命の危険を感じているのだ。
──助けて、怖いよ──
時雨が泣いて叫ぶその悲鳴は、本能的で純粋な願い。
時雨の『生きたい』という願いを叶える為に、こうして守夏と向かい合っている『紅葉山』にとっては、麻薬を打たれるような感覚にも似ていた。
平素『紅葉山』が保っている、自我が酔ったように遠のいていく。
目の前にいるのは、自分にとってたったひとりの侍従である守夏。
それでも時雨を脅かすのであれば、泣かせるのならば、排除せねばならない。
排除して時雨の命を守らねばならない。
己の中の神の本能が渦巻いて、理性を淘汰しようとする。
「泣き止んでくれ」
そんな願いが、時雨に届くわけはない。
守夏を穏便に引き下がらせたいと願う『紅葉山』の思いは、時雨の願いに押し殺されていく。
ひとの子の血を引く時雨の願いは、自身の願いを凌駕する。
布地の繊維を遡り染み渡る水のように、心を失わせる。
額を押さえ、抵抗するように呻くに似た声を上げる『紅葉山』。
「諦めてくれ守夏、下がれ……下がって『豊山』の元に」
「私は止まりません。いかに罪深くあろうと、この手であなた様を狂わすものを、処断する心も決まっております」
赤子の泣き声が静寂の本殿に響き渡る。
守夏の殺意は、この本殿だけには留まらず咲夜や時雨にも向いているのが分かった。
明確に定められた殺意が、ひとの子の命を脅かす危険と合致した瞬間『紅葉山』が必死に絶えていた理性は、弾けて消えた。
雪にさしかかる陽光が、春ではなく夏の日差しであったかのように瞬時に、そして跡形もなく。
「守夏……そなたの願いは叶えることはできない」
額に当てていた手がするりと重力に従うと『紅葉山』は真っ白な顔で、恐ろしいほどに無感情な瞳を守夏へ投げていた。
ぶらりと、重力に体全てを預けるようにして倦怠な身の起こし方をした。
守夏が初めてみる目だった。
そこに感情という色は一切ない。
守夏は本気で己を排除をするつもりなのだと悟った。