その涙 誰の為でも良いじゃないか
「あはっは。まさか。ご冗談を」未来は引きつった笑いを浮かべようとはしたがそれは無駄な努力と言わざるを得ない。喉が痛んだように引きつり頬が固まり目玉が乾いたかのような錯覚すら覚える。鼻水が鼻毛に引っかかり涙が固まる。それほどまでに順子の表情は硬い。ニブイ未来でさえ順子の台詞が真実と気づく程度には。
「アンタ。男が怖いとか言ってなかったっけ」未来は思考が停止した。正確には彼女の精神が忌まわしい記憶に触れる事が無いように脳がストップをかけたのだが。人間の身体は結構上手い事出来ている。
「私、便器だったの」「便宜を計るって言うよね」「違う」
順子の拳が白くなるまで握られる。
その掌は小さく震えている。今は酷暑の真っただ中だ。にもかかわらず順子は震えている。
「暴走族のね」思考が停止した未来は順子が何を言っているのか解りかねた。
「カズチャンはさ。そこのボスだった」「え? えっ? ええっ?」
「知らなかったらしいの。オトコどもを殴り倒して、一緒に逃げてくれたの」
暴走族のボスが和代でなんだったっけ。退行しつつある未来には順子の言葉が解らない。
「私を売った奴のこと。私は親友だと思ってたの」
ことあるごとに順子を親友と呼ぶ新堀に順子はぎこちない返事をいつも返していた。
新堀らしい馴れ馴れしさなので未来は気にもしなかったが順子からすれば親友と言う言葉は裏切り者を指す。
「逃げながら二人でなんでもやった。山形から地方を転々して、気が付いたら大阪で落ち着いた」そこでなんとか背取りで誰かが得た戸籍を買って落ち着いたらしい。
「背取り?」「介護家庭とか色々あるけど。地方には嫁を欲しがる人は多いわ。
結婚を一回して元の日本人の家族を殺して本国の家族を呼んで乗っ取る。或は大規模災害で死んだ人と入れ替わる。本来は古書の帯の取引を指すけど」その辺はどうでもいいでしょと順子は続ける。
業界の人間にしては親切を通り越してお人好しな風俗店長に出逢い、元々『パパ』に養われることに抵抗の無かった当時の和代は順子を養うためにその店に勤める事にしたらしい。
「で。私もカズチャンだけに」「もういい」未来は壊れたスピーカーのように言葉を紡ぐ順子の両頬をその小さな手の平ふたつで包み、自らのほうを向かせた。
「もういいって言ってるだろ。ぶっとばすぞ」
青い青い空に白く大きな入道雲が広がる。
今日は二人とも傘を忘れてきてしまった。
「私、お嬢様なんかじゃない」「ああ」
「澪っちは私をお嬢様だと思」「黙れ」
「親友なんて言葉、大っ嫌い」「解る」
二人の少女は霞んで揺らぐ瞳越しに見える曇りゆく空を眺めながら壊れたラジオのように止め処ない言葉を交わしていた。