君の野球帽 —熱に浮かされた片思い—
「昴、この帽子、かぶってろ」
黒いベースボールキャップが、視界の前に差し出された。
「これから病院行くんだ。誰かに見られたら、まずいだろ」
「……あ、うん。ありがとう、誠司」
差し出された帽子を受け取り、頭にのせる。
誠司——彼は俺のマネージャーで、義兄で、そして……同居人。
三年前、姉貴が病気で亡くなったとき、夫だった誠司よりも、俺のほうがギャン泣きした。
両親を早くに亡くし、姉貴は高校を中退して、俺の面倒をみてくれた。結婚して、これから幸せになるという矢先の死。俺は声が潰れるほど、みっともないくらいに、子供のように泣いた。あの悲しみの渦中で、壊れそうだった俺を繋ぎ止めてくれたのが誠司だった。そこから色々あって、二人で暮らしている。
二人暮らしになって三年。芸能界で生きる俺を一番近くで支えてくれる誠司に、俺はいつしか「家族」や「義兄」以上の……決して抱いてはいけない感情を募らせてしまっていた。けれど、彼は亡き姉貴の夫で、俺のマネージャーだ。この部屋に漂う穏やかな日常の裏には、俺が勝手に一線を越えることを許さない、冷たくて透明な壁がいつも立ちはだかっていた。
「ゴホッ、ゴホッ」
「もっと深めにかぶれ」
そう言って、誠司が帽子のツバをグイッと下に押し下げた。視界がぐっと狭まり、鼻腔をついたのは、誠司が昔から使っている柔軟剤と彼自身の匂いだった。それだけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。
昨日から喉に不快な違和感があったのに、無理をして深夜までラジオの収録をこなしたのが祟ったのだろう。今朝、全身を襲う尋常じゃない熱さに跳ね起き、体温計を見たらまさかの39度超え。フラフラと壁を伝いながら誠司に伝えたら、「病院行くぞ」と眉間にシワを寄せて即決され、今に至る。
頭がガンガンと痛み、視界がじんじんと熱を帯びて歪む。熱のせいなのか、それとも誠司の匂いに包まれているせいなのか、自分の感情のコントロールがうまく効かない。
「タクシー、来た。立てるか?」
「うん、大丈夫……」
強がってみせたものの、膝に力が入らず足元がぐらりと揺れた。俺は反射的に、誠司のジャケットの袖口をぎゅっと掴んでいた。
手繰り寄せた布地の向こうにある、彼の体温。
本当は袖なんかじゃなく、彼のその手を、指を絡めて握りしめたかった。
「大丈夫だ」「俺がいる」と、恋人のように抱きしめてほしかった。
けれど、そんな妄想すら許されない。俺がすがりついているのは、あくまで「体調を崩したタレント」であり、「義弟」としてのワガママでしかないのだから。
不器用に袖を掴む俺の手を、誠司は振り払うこともせず、ただ静かに俺の肘のあたりを支えてくれた。その優しさが、弱った体には、たまらなく痛くて、愛おしい。
「ほら、足元気をつけろよ」
差し出された誠司の背中に導かれるように、俺は逃げ込むようにタクシーの後部座席へと乗り込んだ。
*
車の重く響くエンジン音とタイヤの振動。車内に混じるのは、俺がすする惨めな鼻の音だけ。
隣に座る誠司は、淡々とスマホを操作している。スケジュール調整か、仕事関係者への連絡だろう。一緒に暮らして、一番近くで同じ時間を過ごしているはずなのに、彼の中での俺は常に「管理対象のタレント」でしかないのだろうか。そんな思考が頭をよぎり、胸の奥がキュッと縮む。
ふと、誠司が顔を上げて俺を見た。
「寒くないか」
その短い問いかけに、俺は子供のように首をすくめる。
「うん……ちょっとだけ」
言い終わらないうちに、誠司は自分のジャケットを脱ぎ、何のためらいもなく俺の肩にかけてくれた。あったかい。身体を包む、誠司の匂いという名の幸福。……けれど、その手慣れた自然な動きが、逆にひどく悔しかった。
マネージャーとして、体調を崩したタレントを介抱する手慣れた気遣い。俺が本当に欲しいのは、そんな器用で冷めた優しさじゃないのに。タレントや義理の弟としてではなく、もっと特別な……俺自身を見てほしいのに。
「ありがと……」
ぼそりと礼を呟くと、彼は画面から視線を外さずに言った。
「風邪、こじらせたら仕事に響くからな」
優しい言葉だ。でも、それは仕事相手や家族にかける言葉でしかない。俺の一方的な恋だから当たり前だと分かっていても、やっぱり胸の奥がツンと痛む。
俺は俳優で、歌も歌って、世間にはそれなりに顔が知られている「昴」。今日は奇跡的にオフだったけれど、熱が出たからって簡単に穴をあけられる立場じゃないのは百も承知だ。だから病院に行く、ただそれだけのこと。……なのに、どうしてこんなにも彼にすがって、甘えたくてたまらなくなるんだろう。全部、このうわごとのような熱のせいに決まっている。
帽子のツバを指先でつまむ。
そういえば、このキャップは誠司のものだ。昔、彼がよくかぶっていたお気に入り。今日、家を出るとき、俺にこれを手渡す際、誠司はほんのわずかだけ、躊躇うような、迷うような顔をした。
あれは……なんだったんだろう。亡くなった姉貴との思い出の品だから? それとも、俺に自分の身につけているものを与えることに、何か特別な感情を抱いてくれたから? ——そんな都合のいいわけがないことくらい、自分が一番分かっているのに。
答えを知るのが怖くて、俺はそっと肩を寄せた。ほんの少し、服の生地が触れるか触れないかの距離。たったそれだけの触れ合いで、胸の中で心臓がやかましいほど暴れ出す。どんなに「タレント」として扱われようと、俺の心はこんなにも彼の一挙一動に振り回されている。
けれど、誠司は微動だにしなかった。隣で静かに息を吐くだけだ。
「……ねえ、」
喉の奥から絞り出したかすれた声は、走行音に消えていく。彼に届いてほしいと強く願いながらも、もし届いてしまったらこの歪で穏やかな関係が壊れてしまうかもしれないと、どこかで怯えている自分がいた。
「……ん?」
画面から目を離さずに誠司が反応する。その淡々とした声に、胸の奥が刺すように痛んだ。
「やっぱ……なんでもない」
俺は逃げるように、帽子のツバをさらに深く引き下げた。
*
病院の受付で、誠司が慣れた手つきで保険証や診察券を提出してくれている。受付の女性は保険証を確認し、事務的に「少々お待ちください」と返した。
普段は「昴」という芸名で活動しているおかげで、熱でろれつが回らない俺がテレビに出ている本人だと気づく者は誰もいない。今日みたいな日には、芸能人としてのプライベートのなさから解放されるこのルールが、ほんの少しだけありがたかった。
隣で俺は何もできず、ただぼんやりと誠司の傍らで揺れているだけ。熱のせいか、視界の端がぐにゃりと歪み、目の奥がジンジンと痛む。
「こっち、座ってろ」
誠司に促され、待合室の端にある長椅子に腰を下ろした。誠司は俺の隣には座らず、斜め前で立ったまま無言でスマホを打ち続けている。どこまでも「仕事中のマネージャー」としての距離感。それが今の俺には、どんな解熱剤よりも冷たく身に染みた。
本当は、隣に座って手でも握っていてほしかった。熱に浮かされた頭でそんな甘い子供みたいなことを願ってしまう自分が、惨めでたまらない。
「朝倉さん、朝倉昴さん、診察室へどうぞ」
名前を呼ばれ、慌てて立ち上がろうとした瞬間、視界が大きく傾いた。
「っと……」
すささず誠司の手が伸ばされ、俺の肩をしっかり支えてくれる。
たったこれだけの熱でふらつく自分の不甲斐なさに激しい苛立ちを覚えつつも、服越しに伝わる誠司の手の温もりに、身体が惨めなくらいすがりつきたがっていた。
診察室に入り、指示されるまま帽子をとると、白衣を着た若い医師が俺の顔を凝視した。
「ああ……あれ? もしかして……」
一瞬だけ医師の目が鋭く細くなる。だがプロとしての理性か、次の瞬間には何事もなかったかのようにカルテへ視線を落とした。
「熱、高いですね。喉の痛みもありますか?」
「はい……昨日から、ちょっと……」
かすれた声で答えると、医師は頷く。傍らに立つ看護師だけが、俺の顔を二度見して「あ?」と小さく口元を動かしていたが、声には出さなかった。
誠司はその視線と空気を敏感に察知したのか、ほんの少しだけ身を乗り出し、俺を遮るようにして前に立った。
視界を覆う、彼の大きな背中。
やたらと頼もしくて、そして——途方もなく遠かった。
俺を世間の好奇の目から隠し、守ってくれているのは、彼が優秀なマネージャーだから。決して、俺を一人の男として愛しているからじゃない。
守られるたびに胸が痛む。本当は俺のこの歪な恋心に気づいてほしいし、仕事の責任感なんかじゃなく、「恋人」として抱きしめてほしいのに。そんな叶わない望みばかりを追いかけてしまう自分が、心の底から嫌になる。
診察は手短に終わり、インフルエンザやコロナの陰性を確認して薬を出してもらった。
「無理は禁物ですよ」という医師の言葉に誠司が短く返答し、俺たちは足速に診察室をあとにした。
*
帰りのタクシーの車内。診察を終えた安堵からか、体温はさらに上がり、全身が重い鉛のように熱を帯びていた。窓の外を流れる街並みをぼんやり眺めながら、息を吸うのすら億劫に感じる。誠司が隣で何か話しかけてくれていた気がするけれど、もう頭が痺れて言葉として認識できなかった。
家に着くと、誠司は玄関で俺の靴を脱がせてくれ、半ば抱きかかえるようにして寝室まで連れて行ってくれた。身体を預けるその一瞬、ほんの少しだけ「病気もまんざらじゃないかも」と思ってしまう自分がいて惨めになる。
「座ってろ。ベッド、整えてくる」
手際よくベッドのシーツを敷き直し、掛け布団をめくる誠司。サイドテーブルには、いつの間にか用意されたミネラルウォーターと解熱剤、そして俺のスマホが綺麗に並べられていた。どこまでも完璧で、どこまでも抜かりのない気遣い。
毛布に包まりながら、俺は熱で潤んだ視線だけで彼の動きを追った。このまま「じゃあ、ちゃんと寝ていろ」と背中を向けられたら、俺はきっとおかしくなってしまう。
「ねぇ、誠司……体が熱い……」
すがるような声を出した俺に、誠司の背中がピタリと動きを止めた。
ゆっくりと振り返った彼は、熱で真っ赤になっている俺の顔を一度じっと見つめ、小さくため息を漏らした。
「……薬、もう飲んだだろ」
「そうじゃなくて……外側が、熱い……の」
熱のせいにして、わざとらしく唇を尖らせてみせる。マネージャーとしての冷めた顔を崩さない彼に対する、俺の精一杯のわがままと挑発だった。
誠司は呆れたように目を細めた。けれど、その瞳の奥には、いつもの冷徹さではなく、僅かな揺らぎと柔らかい温もりが宿っていた。
「……人肌で冷ませってか」
「うん。誠司の、がいい」
ほんのわずかな沈黙の後、誠司は呆れたように「はぁ」と大きな息をついた。明らかに「仕方ないな」というポーズだったけれど、彼は迷いなく上着を脱ぎ捨て、ベッドの反対側から静かに布団の中へと滑り込んできた。
「ったく、お前なあ……病人が調子に乗るなよ」
「調子じゃない……甘えてんの」
「はいはい」
誠司の長い腕が、そっと俺の肩にまわされる。
一瞬で縮まった距離。薄いシャツ越しに直接伝わってくる彼の体温は、熱で火照った俺の肌に奇跡みたいに心地よくて、冷たさと温もりが混ざり合う感覚に思わず吐息が漏れた。
「……ああ、気持ちいい……」
「お前、ほんと……こういうときだけ子猫みたいになるな」
口元でぼやきながらも、背中をゆっくりとなぞる誠司の手つきはどこまでも優しい。
マネージャーでもなく、亡き姉貴の夫という義兄でもなく、今、俺を抱きしめているのは……俺がずっと求めてやまない、ひとりの男としての誠司だった。ほんのひとときでも、その幻のようなぬくもりが得られただけで、張り詰めていた心が解け、強烈な眠気と安心感が押し寄せてくる。
「誠司」
「ん?」
「俺、熱下がったら……ちゃんと……するから」
熱にうなされ、消え入りそうな声で溢れ出た本音。「恋人になってほしい」のか「この想いを伝える」のか、言葉にならない感情を飲み込んで目を閉じる。
「……バカ。今は黙って寝ろ」
耳元で聞こえた誠司の声は、心なしかいつもより低く、少しだけ震えているように思えた。
照れ隠しのように乱暴な言葉とは裏腹に、俺を抱きしめる彼の腕の力は緩むどころか、逃がさないとばかりに強く、ぎゅっと増していく。
枕元に置かれた野球帽から漂う匂いと、身体を包み込む確かな重み。
そのぬくもりに守られながら、俺は深く、幸せな眠りへと落ちていった。
了




