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08:ゴシップ誌と階段室の鍵

ある雨の日、旦那様は朝からお出かけしていた。

暗くなってから馬車で帰って来た旦那様は、少し濡れていた。

肌寒くなってきたので風邪をひかないようにと、慌てて入浴の用意をする。

旦那様がお湯を使っている間、二階に上がり少し湿っている帽子や革鞄を拭き上げる。

鞄に入れずに手で持っていたのだろう、新聞や雑誌も書斎に広げて乾かそうとして思わず手が止まる。


新聞を広げると一面に大きくホワイトチャペル事件の記事が載っていた。

被害に遭った女性の似顔絵には、彼女の命を奪ったであろう喉元の傷まで詳細に描き込まれていた。


手が震えて新聞を持っている事ができない。

バサリと重なっていた雑誌まで落としてしまう。

そこにあったのは医学雑誌と旦那様が普段読まないようなゴシップ誌。

しかし特集は新聞と同じくホワイトチャペル事件についてだった。


拾い上げて中を開いた。

写真や絵はないものの、彼女たちの身体がどんな状態で発見されたのかが、扇情的な文章で書かれていた。


顔も名前も見知らぬ人たちだけれど、ほんの数カ月前まですぐ近くに暮らしていた人だ。

そして旦那様に雇ってもらうという幸運がなければ、今頃私もあそこに立たざるをえなかったかもしれない。


「どうしてこんな⋯⋯」


恐怖なのか、同情なのか分からぬままに肩が震え、視界がにじむ。




「⋯⋯エリザベス?」



急に近くで声をかけられ飛び上がる。

普段なら整えてから出てくるはずの旦那様が、ガウンを羽織っただけの姿で、音もなく背後に立っていた。


「申し訳ありません、勝手に読んでしまって⋯⋯すぐに片付けて暖かいお茶を淹れますね」


慌てて雑誌を置き、旦那様の横を通り抜け部屋を出ようとするが、腕を掴まれて引き止められた。


「あの⋯⋯」

「泣いてるの?エリザベス」


泣き顔を見られたくなくて、掴まれていない方の手でゴシゴシと目元を擦る。

が、その手も旦那様に掴まれてしまう。


「擦ってはいけない、赤くなるからね」


手で隠せなくなった私は俯いて顔を隠すけれど、旦那様はそっと優しく私の顎に手を添えて上を向かせた。


「泣いているの?」


旦那様の蜂蜜色の瞳と目が合った瞬間、抑えようとしていた涙が溢れてきた。

顎に添えられていた手で涙を拭うように頬を包まれる。旦那様の手を汚してしまうのに、涙が止まらない。


机の雑誌をちらりと見て、いつもより眉尻を下げた旦那様はごめんね、と謝った。


「そうか、中が読めるようになったんだね。怖かったね。」


そう、旦那様のお手伝いをしている今の私には難しい臓器の名前も、傷の呼び方も分かるようになっていた。

文字だけで彼女たちの状態が分かってしまうほどに。


「ごめんね。僕が不用意に置かなければよかった」


違うんです、私が勝手に覗いたから。そう言いたいのにしゃくり上げるだけで声が出てこない。


「君はすぐ近くに住んでいたんだものね。でももう大丈夫だよ」


抱き寄せられて背中を優しく撫でられる。

旦那様に縋るみたいに私はガウンの端を掴んだ。


「大丈夫、大丈夫だよ。僕がいるからね」


子供にするように頬を撫でられ、額や目元に唇を落とされて、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。


「大丈夫だよ」という旦那様の低い声と、胸の鼓動を聞いていると本当に全てのものから守られているような気持ちになる。

私が泣き止んでからもしばらくの間、背中や肩を撫でてくれていた。


旦那様は私が落ち着いたのを確認してから、最後にチュッと小さな音を立てて瞼に唇を落とすと「顔を洗っておいで」と送り出してくれた。



階段室のバスルームで顔を洗う。

泣いた目元が真っ赤になっているが、首まで真っ赤なのは今更、状況を理解したからだろう。

冷やしても、冷やしても旦那様の唇が触れた額や瞼が熱い気がした。


タオルで顔を押さえながら、書斎に戻ると旦那様はすでに着替えを終えてナイトガウンを羽織り直していた。


「あの⋯⋯申し訳ありませんでした。その⋯⋯取り乱してしまい⋯⋯」

「もう大丈夫かい?」

「はい、もう落ち着きました」


嘘だ。恐怖と涙はすっかり落ち着いたが、今度は心臓が落ち着かない。

そんな私の心中など知らない優しい旦那様は、いつも通りの穏やかな笑顔で接してくださる。


「今日はもう寝てしまいなさい。腫れないように目元をよく冷やしてね」


それから施錠のために階段室の前まで送ってくださって、いつも通り就寝の挨拶をする。


「おやすみなさいませ、旦那様」

「おやすみ、エリザベス⋯⋯」


いつもならそのまま扉がしまるのに、旦那様は手を止めてこちらを見つめた。

射るような蜂蜜色。

それからそっと顔を近付けてこう言った。


「今夜は鍵を閉めないでおくから、怖くなったら降りておいで」



その晩、私は3回も階段室の扉まで往復してしまった。







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