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06:私の赤い髪

それから数日、やはり旦那様はご機嫌だった。

何かを待っているみたいに郵便ポストを覗き込んだり、夕食を作っている間も鼻歌混じりだったり。

何ていうか、まるでクリスマスの朝を待っている子供のようにワクワクしているみたいだった。



私はあの日、こめかみに触れた温もりを思い出すと、何だかそわそわと落ち着かなくて今までより頻繁に髪に触れるようになった。


今までは月に一度か二度お風呂に入れればよい方だったけれど、旦那様のお家に来てからはいつでも使える私専用のバスルームがある。

仄かにバラの香りのするハーブ水も、もこもこの泡が立つ甘い香りの石鹸も、人生で使った事ないような品が当然みたいに置かれている。

夜中や早朝に入浴することも多い旦那様を見習って私もお湯をいただく事が増えた。


暗くくすんでいた髪も、子供の頃のような明るい紅茶色を取り戻していたし、いただいたリボンが似合う艶髪となっていた。


キッチンから聞こえる旦那様の柔らかなバリトンに耳を澄ませながら、こんな日が一生続けばいいのにと私は髪を撫でつけた。




それから暫くたったある日、旦那様はご友人との食事会へ出かけて行った。

お医者様になる勉強をしていた頃のご友人らしい。

帰りは遅くなるから休んでよいという事だったので、私は就寝の支度だけして明るい書斎の端で読み書きの練習をしていた。

近頃、旦那様宛に英国以外の国からお手紙が届く事も何度かあり、読めない地名を辞書で引いたりしていた。


0時少し前に、旦那様が帰宅した。


「おかえりなさいませ、旦那様」


ナイトガウンの帯をしっかりと結び直し、旦那様を迎える。

コートとお帽子、外出用のステッキを受け取った。

旦那様は外出した際に葉巻を楽しむことがあるらしい。そんな日は上着にほんのりと甘い葉巻の香りがついている。

脱いだコートを受け取ると内側のジャケットからふんわりと漂う、その香りを嗅ぐのが私は好きだった。


でも今日は葉巻とは違う、少し焦げ臭さのある紙巻き煙草の匂いがした。

後でしっかりとブラシをかけなければ。

上着をハンガーに掛け、ステッキを定位置にしまう。


「つい遅くなっちゃったね、エリザベスは寝ていてもよかったのに」


旦那様の機嫌良さそうな声がバスルームから聞こえた。

トレイを持って向かい、手袋と外したカフスボタンを受け取る。

潔癖だと自分でも仰っていた旦那様は帰宅するとすぐにバスルームで手を洗う。

お料理でも何でも一人で出来てしまう旦那様もこうしたお世話はさせてくださるので私はこの帰宅の瞬間が好きだ。


トントンと階段を上がり、受け取った物を部屋にしまう。

旦那様が夜のお散歩の時に困らないようにきちんと全てを定位置に。


一階に戻るとソファに座った旦那様がタイを外していた。

今日はお酒も飲んだようで、目尻が少しだけ赤くなっている。

近付いてネクタイを受け取るが、お酒を召されたのなら夜喉が渇くかもしれない。


「今夜はお酒を飲まれたんですね、眠る前にお茶をお淹れしましょうか?」


旦那様は「ん〜」とご機嫌な赤子のように唸ると、襟元と袖口のボタンを緩めながら立ち上がった。


「ううん、今日は僕が淹れるよ。それを置いたら戻ってきて」


急いでネクタイを置き、戻ってくると旦那様がキッチンでお湯を沸かしていた。


「旦那様、戻りました」


声をかけるとおいでおいでと手招きしてくる。

静かに隣に並ぶと、旦那様は微笑みながら


「エリザベス、口をあけて?」


と見下ろしてくるので、口をあけてみせる。

なんだか雛鳥みたいだ、と思っていると口内に驚くような甘さと芳醇な香りが広がった。


慌てて口に手を当てて旦那様を見ると、悪戯が成功した子供みたいな顔でクスクスと笑っている。


「スミレの砂糖漬けだよ。甘すぎた?」


口にスミレが入っているので喋れない。仕方なくフルフルと顔を振って返事にする。

いつもと違ってゆるくまとめていた髪が肩にかかる。

昔は煩わしいだけだった伸びた赤毛も、旦那様にいただいたリボンで結っているとそんなに悪くないものに見える。

まだ毛先は傷んでいるけれど、この家に来てからは毛艶も良くなってきている。


するりと旦那様の手が私の髪に触れた。


「リボン使ってくれているんだね」


蜂蜜色の目を細めて、まるでガラス細工に触れるみたいにそっと私の髪を撫でる。

スミレの香りの向こう側に、微かに旦那様のお酒の香りがした。

旦那様はそのまま何か考え込むようにしばらく私の髪をいじると、パッと手を離してティーポットにお湯をいれた。


「君も飲むだろ?まだ眠らないよね?」

「はい⋯⋯えっと、まだ起きています」


それはよかった、と言いながら砂時計をトンと置いた。

旦那様はどんな時もちゃんと紅茶の蒸らし時間を測る。お料理をする時も。


「ちょっと待っててね」


そう言い残して、軽快に階段を上がっていく。

残された私はさっきまで旦那様が触れていた髪に手櫛を通してみる。

するりとした手触りのあと少し毛先でひっかかる。

あまりに突然の接近に驚き過ぎて固まってしまったが、先ほどの距離は近過ぎたのではないか?

いや、あそこまで近付くことはよくある。

旦那様が外出から戻ったあとに上着を脱がせたりする事は日常的によくすることだ。

しかし、真正面から、息がかかるほどの距離まで近付いて、じっと向き合ったのは初めてかもしれない。

今さら顔に熱が集まるのを感じる。


トントンと軽やかな足音がして旦那様が降りてくる。

この顔を見られるのは気恥ずかし過ぎる。慌てて後ろを向き、ソーサーを出している振りをした。そこでそっと深呼吸してから振り向く。


「ああ、ありがとう。うん、蒸らし時間もちょうどいいね」


旦那様は二階から持ってきたのだろう革袋をカウンターの端に置いた。

中から金属の触れ合うカチャリという音がした。




それから二人分の紅茶を淹れていただいた。

本当は雇い主と同じテーブルに着くなんていけないのだけれど、旦那様が自分の席の前にティーカップを置いたので、そちらでいただくことにした。

今日の旦那様はやはりご機嫌でいつもと少し違うことがしたいみたい。

だからお砂糖は?と聞かれたけど「今日はスミレをいただいたので⋯⋯」と言って私も何も入れないことにした。


「今日会ったのは大学にいた頃の友人たちでね⋯⋯」

「見習い時代の失敗を蒸し返されたりしたよ」

と思い出し笑いを浮かべながらお話をしてくださる。


頷きながら聞いていると、旦那様の視線が私の髪に向いていることに気づいた。


「⋯⋯友人と話をしていて思い出したんだけれどね、僕は髪を切るのが結構上手いんだよ」

「髪⋯⋯ですか?」

「うん、頭に怪我をした人は処置の邪魔になるし、入院して長く横になっていると絡んだりするだろう?だから御婦人でも短くさせてもらうんだ」


昔を思い出すような少し遠い目をして旦那様は続ける。


「そういった細々した事は見習いの仕事だったのさ」


お医者様のなり方なんて知らなかったけれど、話を聞いて旦那様がなんでも一人でこなしてしまう理由が分かった気がした。


「鋏で髪を切るのはメスで皮膚を切るのとは勝手が違ってね。僕は見習いの中でも上手いって褒められたものさ」


それから旦那様は医者になれなかったら床屋になろうと思ったくらいだ、とおどけるので私もつい笑ってしまった。


ひとしきり話して笑った後に、ティーカップを置いた旦那様は私の目を見てこういった。


「ねぇエリザベスの髪を切ってもいい?」




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