05:ダブルイベント
その日の旦那様は少しぼんやりとしていた。
昨夜もお散歩に出かけていたみたいだから、あまり眠れていないのかもしれない。
昼食替わりの紅茶をお持ちしても返事がない。
「旦那様、お茶をお持ちしました⋯⋯旦那様?」
書斎のドアを開けて覗き込む。
普段にこにこと微笑んでいる旦那様が無表情で座っていると、まるでお人形か彫刻のように見える。
「旦那様?」
目を開けたまま眠っているのかしら?
直ぐ側まで近付いて呼びかけると、蜂蜜色の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
目と目が合って私は思わず動けなくなってしまう。
それから顔がだんだんと近付いて、ペンを置いた右手が私に向かってくる。
その視線がほんの少し下、私の襟元に移り、その指が唇に触れる⋯⋯というその瞬間、ぱっと旦那様が身を離した。
「ああ、ごめんエリザベス。少しぼんやりしてたみたい」
そのまま目を逸らして旦那様は少し昼寝をするからと寝室へ入って行ってしまった。
書斎に残された私は何も言えないまま、真っ赤な顔で立ちすくんでいた。
その晩も旦那様はいつもと変わらずお夕食を作ってくださった。
私だけが意識しているのかと、少しだけ寂しさを感じたけれど、食事をしている私を見て満足そうに微笑む旦那様を見ていると文句なんて言えなくなってしまった。
それから私が部屋に入ると、旦那様はすぐにお散歩へ出かけた。
階段室の扉を挟んででも今日は一緒にいて欲しかったのに。
不貞腐れたような気持ちで眠りについた。
翌朝、私が起きるより早く旦那様はすでにお風呂に入っていて、なんだかとってもご機嫌だった。
今日もいつもと同じく牛乳と卵の配達を受け取る。
普段お喋りをしない配達人さんが「あんた聞いたかい?」と珍しく話しかけてきた。
何を?と聞くとホワイトチャペル近辺でまた女性が襲われたらしい。それも一晩で二人もだ。
「ここはリスター様がいるから安全だろうが、あんたもいつもより気をつけな」
そう言って配達人は事件の記事を置いて去っていった。
旦那様がお昼寝をしている間、貰った新聞記事を読む。
記事には陰惨な事件の様子が事細かに書かれていた。
今は安全とはいえ、かつての住処にほど近い場所で起こった恐ろしい事件に、思わず震える己の肩を右腕で強く抱く。
その手に、暖かいものがそっと触れた。
それから背後からひょいっと新聞を取り上げられた。
「エリザベス、こんな物を読んで眠れなくなったらどうするの?」
そこには昼寝から覚めた旦那様が、私の肩を抱くようにして立っていた。
「旦那様⋯⋯!!」
驚いて離れようとする私を制して、新聞記事に目を向ける。
肩を抱いた腕はそのままに少し記事に視線を走らせて
「ほら、震えてるじゃないか」
そう微笑んだ。
「これは⋯⋯その⋯⋯」
私が恥ずかしさに言い訳を考えていると急に体を反転させられ、すっぽりと彼の腕の中に入ってしまう。
突然の事に声も出ない。
「その?何?」
彼の声がすぐ耳元で聞こえ、吐息が耳朶をくすぐる。
火が出ているんじゃないかと思うくらい、耳が熱かった。
背が高い、大きいとは思っていたけれど私が精一杯顔を上げても肩にも届かない。
旦那様が使うアーモンド石鹸の香りがして、ちょっとだけ苦しいなと思いながら目を開ける。
旦那様の枯草色の髪が視界の隅に見えた。
こめかみに、ふっと暖かいものが触れて解放された。
「こういう怖いものは没収。いいね?」
いつもの旦那様がそこにいた。
私は真っ赤な顔で頷くことしかできなかった。




