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01:どこにでもいる不幸な女

本作は、1880年代イギリスを舞台にした創作小説です。

史実や実在の事件を想起させる要素がありますが、物語はすべてフィクションです。

子供の頃は幸せだったと思う。


しっかり者のお祖父様と、優しいお父様とお母様。可愛い弟たち。

お祖父様はエセックスで大きな工場を経営していてお父様もそこで働いていた。

私は明日の暮らしを心配することなく、学校へ通っていた。

悩み事といえば、学校で男子に赤毛を誂われるくらいだった。

泣いて帰る度にお母様は「お前の髪は女王様が飲むようないっとういい紅茶の色だよ」と慰めてくれた。

このままずっと幸せな暮らしが続くと信じて疑わなかった、あの頃。


お祖父様が亡くなって、そこからはよくある話。

すぐに経営が傾いて、工場が知らない人の物になってからは早かった。

お父様とお母様は借金返済のために働き詰め。

私も弟たちの世話をするために学校へ行けなくなった。

両親はなんとか借金を減らしたけれど、無理がたたって体を壊し、そのままあっさり亡くなった。


それでも私は運が良かった方だと思う。


近隣の教会の牧師様が、お祖父様の友人で私の働き先を紹介してくれたし、弟たちを孤児院へ引き取ってくれた。


初めて女中として奉公したのは下級貴族出身の老婦人のお屋敷だった。

小さなお屋敷で大奥様と女中が2人。庭師のおじさまは女中頭の夫で、幼く、まだちゃんと仕事が出来ない私をよく助けてくれた。

大奥様は昔、家庭教師をしていたらしく学校に行けなくなった私に「読み書きができて困る事はありません」って読み書きと算数を教えてくれた。

そのうえに大奥様は最初のクリスマスに真鍮のロケットペンダントを買ってくださった。

よく働いているから、ご褒美だって。

嬉しくって両親の写真を入れたそれを毎晩見つめていた。

女中頭のおばさまは刺繍が得意で針も持った事のない私に根気よく縫い物を教えてくれて、簡単なシャツなら仕立てられるまでになった。

一生懸命働いたから僅かに残ってた両親の借金も返し終わって、弟たちに仕送りができるようになった。

私の人生、上手くいってた。


数年たって寝込むようになった大奥様がある日私たちを呼んで、聖書と革の書類ケースをくれた。

私の髪色と同じ明るい紅茶色の、柔らかい革で出来たシンプルな革の書類入れ。

それから牧師さんが迎えに来て弟たちと写真を撮った。

その写真にはまだ幼い弟と少し大人びてきた私が三人でお屋敷の庭で並んでる。

何となく、これでお別れなんだって分かった。

弟たちとも、大奥様とも、女中頭のおばさまや庭師のおじさまとも。


数週間後に大奥様が静かに息を引き取って、ロンドンから若旦那様がやってきた。


若旦那様はいい人だったけれど、お仕事で色んな国を行き来していて最後に大奥様に会えなかったって泣いてた。

大奥様は私たちの事を心配してくれてたみたいで若旦那様はちゃんと紹介状を書いてくれて、次の働き先も紹介してくれた。


若旦那様が紹介してくれたお屋敷はロンドンのブラックヒースでエセックスから離れなきゃいけなかった。

旅立つ日に駅まで牧師様と弟たちが見送りに来てくれた。

それが弟たちに会った最後の日。


そのお屋敷でも住み込みの女中として働いた。

エセックスにいた頃より大きなお屋敷で、使用人も多かった。

大奥様が教えてくれたから弟たちに手紙も書けたし、簡単な計算が出来たから皆の役に立てることもあった。

とくに女中仲間は大切だって親切な年上の女中に教えられた。

仕事の仕方だけじゃなくて他にも教えてくれるからって。

上の弟は牧師様のお陰で就職先が決まって仕送りの必要もなくなったから少しずつ貯金できるようになった。

⋯⋯私の人生、上手くいってた。


18歳になったばかりのある日、旦那様の息子さんに部屋に呼び出された。

息子さんはまだ若いのによくお酒を飲む方で、酔っ払うと体を触ってくるって女中仲間からは嫌われてた。

あんたも気をつけなってお姐さんたちによく言われた。

でもあの日は昼間だったし、忙しい日で他に人がいなかったから仕方なく一人で部屋に向かった。


机にお酒の瓶があったのを見た時に部屋を飛び出すべきだったのかも。

でもただの使用人にそんな事は出来なくて。

次に気がついた時には、廊下に倒れてる私を奥様が見て悲鳴を上げてた。

お仕着せのワンピースも破られて、随分酷い有様だったと後で旦那様に聞いた。

あの時は、ただただ身体が痛くて、息子さんの黒い髪が揺れるのを思い出すと気持ち悪くて。

熱を出して数日寝込んだ。熱にうなされるなか、胸につけたロケットがひんやりしていた事だけ嫌にはっきりと覚えている。


熱が下がったら旦那様からお屋敷を辞めるように言われた。

紹介状と次の働き先、それからかなりしっかりした額の慰謝料。

生まれて初めて持つような金額に、流石の私でも理解できた。

『口止め料』だって。

それからこれまでの人生がとっても幸せだったって。


生まれからはお祖父様に。両親が早くに亡くなったのは寂しかったけれど、それからは牧師様と大奥様に。守られていた。

本当は世界はこんなに“クソったれ”だったのに。

今までちゃんと守られて、育ててくれてた。


ブラックヒースのお屋敷を出た足で、郵便局へ一人で向かった。

貰った慰謝料のいくらかをエセックスの教会と下の弟に送って、残りは預金に入れた。

鉄道に乗って通帳を握りしめながらこれからは一人で生きていかなきゃいけないって誓った。

私は労働者階級の独り身の女で、金でなんとでもされる身だから。

このお金が私を唯一生かしてくれるんだって。


次の働き先はオルドゲートにある資産家のお屋敷。

黒々とした髪をいつもぴたりと撫でつけた旦那様と細面の綺麗な奥様のお家で、何だか運輸関係のお硬い仕事をしてるって先輩の女中が教えてくれた。

都会の暮らしは初めてだったから色々と勝手が違って苦労した。

市場へお使いへ行って迷子になりかけたり。

それでも女中仲間は大切だから、裁縫ができたからいただいた布きれで小物入れを作ってあげたりして、なんとか仲間に入れてもらった。


オルドゲートのお屋敷では男性にあまり笑顔を見せないようにした。愛想が悪いと言われない程度に。

それでも旦那様から話しかけられれば答えない訳にいかない。

ある日、旦那様から愛人にならないかと持ちかけられた。

すぐ断ったのに何度も言い寄られて、しまいには奥様の耳に入った。

何もなかったのに私が首になった。まあそうなると思った。

奥様の目があるから旦那様も紹介状を書いてくださらなくて、ポケットマネーから慰謝料だけ払われた。


清く生きようとすれば奪われるし、正しく生きていたって報われない。

それでも仕事がなければ生きていけない。





今度は紹介状をいただけなかったので、次の勤め先が決まるまで下宿屋に入る事にした。

少し離れたスピタルフィールズという所に女性ばかりのロッジングハウスがある事を、お屋敷を出る前に女中仲間が教えてくれたのだ。

針仕事を手伝ってあげた女中仲間はこっそりと使い古しのシーツや直せばまだ使えるエプロンをくれた。きっと必要になるからって。


ロッジングハウスの女将さんは中年の女性でエセックスの女中頭のおばさまを思い出した。

私と同じ20歳前後の女性ばかりの四人部屋。

二段ベッドの下で寝泊まりしながら、通いの女中や針子仕事で日銭を稼ぐ日々。


慰謝料や貯金があったので、すぐに困る事はなかったけれど、一年、二年経つに連れて少しずつ減っていく預金額に焦りが積もっていった。


その日も朝早くから近くの作業場でお針子の仕事をしていた。

昼過ぎからなんだか周りが騒がしく、仕事も珍しく早めに切り上げられた。

まだ外は明るい時間で、これならティールームに寄れる。


店先で新聞売りの少年から新聞を買った。

ロッジングハウスでは夜はすぐランプを消さなきゃならないからゆっくりと新聞も読めない。


温かい紅茶を頼んで、席で新聞をペラペラとめくる。

『エセックス州にて新しい停車駅の建設が始まる』

弟たちは何歳になったろうか。牧師様にお手紙を出そうにも住所が下宿屋しかないのでなかなか書けずにいた。

『ホワイトチャペルで再び女性の殺人事件』

ホワイトチャペルはここから歩いて10数分の距離である。

作業場が騒がしかったのはこの事件があったからか。

数日前にも身元不明の女性が殺されたという事件があったはずだ。


―――今、私が殺されたら誰が気付いてくれるのだろうか。

住所もなく、仕事先も日々違う。

そっとポケットに入れて持ち歩いている聖書に触れた。

大奥様から貰った聖書。中に挟んである手紙や昔の紹介状が見つかれば私の名前が書いてあるけれど、逆に言えばそれがなければ私が誰か分からないという事だ。

誰にも気付かれず、名無しのジェーン・ドウとして共同墓地に投げ込まれるだけ。


そこまで想像して、思わず背筋が震えた。

やはり定職が必要だ。それと住む所。


自分を落ち着かせるように服の上からロケットをいじり、新聞の求人欄を探す。

日雇い、日雇い、短期間⋯⋯

続く求人広告に目が留まる。

『【急募】住み込みの女中』

思わずティーカップを置き、しっかりと目を通す。


---------------------------------

【急募】住み込みの女中

身元確かな若い女性 求む

静かな家庭にて勤務。

読み書きのできること。

使用人は一名のみ。

信頼できる紹介状 必須。

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依頼主については詳しく載っていないが、住所はオルドゲートだった。

前のお屋敷の人に会ってしまったらと思うと少し気まずいが、知らない場所ではない。

あの辺りなら市場へだって案内なしで行ける。

紹介状は⋯⋯古いけれど、なにより私は読み書きができる。

募集は一人という事はそんなに広い家ではないだろう。

おそらく雇い主は一人暮らしだろうが、ちゃんとした新聞に広告が出せる程度の社会的信用のある人だ。


明日の仕事はまだ決まっていない。

他の人に決まってしまう前にすぐにでも行かなければ。 

次回の更新は1/29です

一日おき更新の予定です

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