(1)迫ってくる敵の足音
次の日、私はディアン大隊長に命じられたとおり、離宮のマリエルの部屋へと向かっていた。
白い廊下は植物の彫り物がされて華やかだが、生憎と歩く私の気分は真逆だ。
どうしよう。殴りたい。
昨日から、この言葉がずっと頭の中を回り続けている。
それもこれも、昨日私の半裸同然の姿を見ながら、まったく女性と気がつかなかったレオスのせいだ!
――いや、そりゃあ気づかれても困るよ! 気づかれなくてよかったよ!?
でも、それと女性としての誇りは別物だ。
あいつ! いつもは怒ったり腹を立てたり、表情が忙しい奴なのに、どうして私の体型は完全にスルーなんだ!
気がつかなかったのか!? 私の普段の動きすら覚えて、女性の姿をしていても一目で見分けるような奴が! 私の透けた胸を完全に無視って!
気づかれなかったほど平たいとは思いたくはないが、どう考えても結論はそこに達してしまう。
ああ、くそっ! 殴りたい!
理不尽でもいい。なにかレオスを思い切り殴りつけてやる方法はないかと、本気で火炎を口から吐きそうな勢いで考えてしまう。
やっぱりここは、正攻法で決闘だろうか!?
一番無難で、レオスが不思議がりそうな案ではあるが、とりあえず私の憂さ晴らしはできる。正面から戦って勝てるかはわからないが、今の私の本気ならば負けることはないだろう。騎士隊をクビになる可能性はあるけれど――――。
ここで、やっと私は腕を組んだ。
いや――――やっぱり、クビはまずいだろう。私闘を禁じられている騎士隊で、わかっていながらこんな短期間に二回も決闘をすれば、さすがに懲戒解雇は免れないような気がする。
それは――まずい。昨日のマリエルとの約束もあるし……。
うーんと考え込んだ。
そして、ぽんと手の平を叩く。
「そうだ! 不意打ちで殴るというのはどうだろう!?」
いや、待て。どう考えても騎士らしくないだろう。第一不意打ちはよくない。
「だったら、因縁をつけて絡んだら――」
そうだ。たしか、国境近くの街で、よく粋がった若者たちが喧嘩を売るときに使っていたではないか。
『ようよう兄ちゃん、ちょっと顔か金を貸してくれよー』
だめだ。思い返して、すぐに諦めた。どこのごろつきだ、私は。
第一、レオスなら馬鹿正直に金を貸してきそうな気がする。冗談が通じない奴だからな。まず確実に、私が金銭的に困っているのだと誤解をするだろう。
そうじゃなくて、こうもっと普通の喧嘩っぽく。これは誰が見ても、諍いになっても仕方がないだろうというものがいいんだが――。
うーんと、首を捻った。
だけど、やっぱり普通の喧嘩では懲罰房行きか?
懲罰房とはいえ、今レオスと二人きりにはなりたくはないし……。
罰とレオスを殴るのと、どちらがよいか――。
――よし!
すっと私は瞼を開いた。やっぱり殴るだ!
今レオスに報復ができるのなら、とりあえずほかのことはどうでもいい! だけど、やっぱり二人きりになって苛々の原因を訊かれたら嫌だから、罰掃除ぐらいの内容にしておこう!
だが、よく考えたら、罰掃除であいつと二人きりになって理由を訊かれても困るぞ?
だとしたら……よし! 腕相撲だ!
ガッツポーズで、拳を上に振り上げる。
しかも食事で私の皿のより芋のサイズが大きいから交換しろなら、さすがに誰も文句が言えないだろう。私だってくだらなさすぎて、呆れる!
だけど、妙に潔癖性っぽいあいつのことだ。私が食べ始めてからごねたら、絶対に芋の交換なんて嫌がるのに決まっている。
いや、でも待て!
レオスの奴、胸毛も腕毛もないのに、無駄に筋肉はあるからな。腕相撲だと不利かもしれない。
少し腕を下ろして考え込んだ。
――よし! にらめっこで勝負だ!
これなら、筋肉さえ関係ないし、誰にも喧嘩しているとさえわからないはずだ!
変顔になら自信がある。これなら確実にレオスに勝てる!
見てろ、レオス! 女性のプライドを傷つけた恨みは、こんな大恥を掻くほど重い罪なんだぞ!? 騎士隊のみんなの大歓声の中で、レオスをけちょんけちょんに負かしてあの整った顔を噴き出させてやる!
けけけと悪魔がこぼすような笑みを浮かべながら、歩いていた廊下を曲がったところだった。
「アンジィ」
明るい声が前からする。魔物のような形相を心の奥にしまい、声のほうを見上げると、待ちきれなかったらしいマリエルが、部屋から出てきて私に手を振っていた。
「マリエル」
だから、私も思わず微笑んでしまった。
「と――姫様」
「マリエルでいいわよ。今はほかには誰もいないから」
「マリエル――。離宮の中とはいえ、一人で歩くのは……」
危ないと言おうと思ったが、マリエルはぎゅっと私の腕を掴んだ。
「一人じゃないわ。すぐにアンジィが来てくれるとわかっていたもの。それに、呼んだらすぐに駆けつけてくれる距離に護衛もいるし」
まったく――と、マリエルの愛らしい笑みには苦笑がこぼれてしまう。
この顔で微笑まれたらかなわない。
だから、私はマリエルを横で守るようにして歩きながら、昨日のことを訊いた。
「今、普通に喋っているということは、あのあと――ウィリル長官たちに話したの?」
「ええ……すごく泣いて喜んでくれたわ」
きっとその時の光景を思い出したのだろう。私の腕を掴んで、くすくすと笑っている。
「ウィリルったら、あんなに大泣きできたのね。私の肩に左手を置いたまま、もう片手に持ったハンカチでずっと目を拭い続けて。よかった、よかったって、そればっかり――。ミーティとチェルアも踊りだしそうな勢いで喜んでくれて」
「よかった。それだけみんな心の中では心配していたんだよ」
だから、マリエルは一人じゃないと言葉に含ませる。
「うん……。悪いことをしたわ……」
昨夜、マリエルの部屋を下がる前に、声が出るようになったことを騙していたと、みんなにまだ言いにくそうにしているマリエルに、今夜初めて声が出たことにするようにと話したのだ。
騙されていたと知って、気持ちのよい者は誰もいない。
たとえ、それがマリエルの恐怖心から出たものでも――。
だから、昨夜と同じようにそっとマリエルの肩を抱いた。今度は、いつ人が来るかわからないから、ぽんと手を軽く一度置いただけだが。
「大丈夫。みんなマリエルが大好きなんだから。元気になったと知って、ほっとしているんだよ」
「うん……」
優しく笑いかけると、マリエルがはにかんだように答える。
そして、顔を上げた。
「あ、それでね? アンジィを呼んだのは、これからのことをウィリルが相談したいんですって」
「ああ――、マリエルの声が出るようになったから」
その声に手を離して歩き、部屋の前まで行くと、入り口の側にいた衛兵ががちゃりと扉を開けた。すると、中には今ちょうど話していたウィリルとミーティがいる。
「マリエル姫」
こちらを振り返ったウィリルの表情は、今までに見たことがないほど明るいものだ。だけど、振り返った瞼の上が赤くなって腫れているのに気がつかないほど、私も鈍感じゃない。
本当にこの人、姫馬鹿だなあ。
いや、昨日のマリエルの話だと、相当幼い頃から側で見守ってくれていたみたいだから、もうほとんど親の心境なのか?
だとしたら、この食えない性格も親馬鹿で楽しいのかもしれない。
隣でお茶を銀のカップに注いでいるミーティの瞼も赤い。
ちょっと微笑んで、私はマリエルに引っ張られるまま、柔らかな薄桃色の椅子に腰掛けた。マリエルの薄桃色のドレスが、花弁のようにふわりと似た色の椅子に広がる。
そして、顔を上げると、ミーティが、オレンジ色のお茶を淹れた銀のカップを、私たちの前へと置いてくれた。おいしそうな生チョコの丸いお菓子も、一緒にマリエルと私の前へと置かれる。
姫様用だからだろう。小さなケーキのように少し大きめに固められ、周囲を果物で華やかに飾られている。
ことんと、ウィリル長官の前にも置かれた。
「さて。アンジィリーナ。実は昨日姫の声が出るようになりました」
話すウィリルは、にこにことしている。
「さっきマリエルから聞きました。よかったです――本当に」
そうだ。一歩間違えば、本当に一生声が出ない可能性もあったのだ。
治ってよかった――精神的な問題ならなおさら。
机の下で手を組みながら、しみじみと思ってしまう。ウィリルも同じように思っているのか。紅茶の湯気の向こうに見える眼差しは、ひどく優しい。
「はい。本当に安心しました。ですから、これからのことを貴女と話す必要があると思って、こちらにお呼びしたのです」
「それは――声が出れば、もう、マリエルの身代わりをする必要はないということでしょうか」
普通ならばそうなるだろう。もともと、ここに来たのは女性である私の騎士資格の認可のためだ。マリエルの声が戻れば、身代わりの必要はなくなる。
――だけど。
ぎゅっと隣から腕を握り締めるマリエルを見つめた。
今、マリエルをこんな心細い状態で置いてなんかいけない……!
その私とマリエルの様子を、目の前ではウィリルが、じっと見つめている。
「本来ならば、そうなります。ですが、姫がアンジィリーナに側にいてもらうことを望んでおられます」
その言葉に、はっと目を向けた。
「だからどうでしょう。私がギルドリッシュ陛下に送った使者が戻り、無事マリエル様が戴冠されるまでの間、姫の側で護衛をしていただくというのは」
「護衛!?」
「はい。まだ王妃様側がどんな妨害を仕掛けてくるかわかりません。やはり、ギルドリッシュ陛下のお墨付きをいただいて安心できるまでは、アンジィリーナに近くにいてもらったほうがよいと思うのですよ。姫様のためにも」
ウィリルの言葉に、私は思わずマリエルを見つめた。
やった!
これで、マリエルを守りながら側にいることができる!
「もちろん、受けさせていただきます!」
騎士としても、未来の女王を守るほど重要なことはない。
そして、いつかマリエルが戴冠したら、私も完全な女性に戻ろう。
その時がきたら、まずレオスの顔に拳を一発埋め込む! そして、女である私にレオスが失恋するのは勝手だが、代わりにまた以前のような仲間に戻って遠慮なくやり合おう。
うん。
だから、私が答えるのと同時に、腕の中に飛び込んできた金色の巻き毛を受け止めた。
「やったわ! アンジィ!」
嬉しいとマリエルの全身が叫んでいる。軽い花のような体を抱きしめて、私も満面の笑みを浮かべた。
私も嬉しい。マリエルを側で守ってやれる。
笑いながら抱きしめ合っている私たちの様子に、ミーティが微笑みながら、手に持っていた毒見用の銀のカップに口をつけていく。
その時、扉を激しく叩く音がした。
「何事ですか!?」
驚いたようにウィリルが扉に向かって叫んでいる。
「申し訳ありません、ウィリル長官! 今、早馬が火急の知らせを持ってまいりました!」
「早馬が? 何事です?」
「はい! 長官がギルドリッシュ陛下に遣わされた使者が、途中の道で賊に襲われ、瀕死の状態で発見されたそうです!」
「なんですって!?」
扉の向こうから聞こえてくる現実に、私は薄桃色の椅子の上で白く変わったマリエルの手を、思わず支えるように握り締めた。




