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(5)女王としての試練

 地図の上には、二つの切り立つような山が描かれ、その間を川が蛇行している。プルーロ川だ。まさに、今キリングと争いになっている国境の最前線――。


 プルーロ川の上流には、やはり岩場が続き、しばらく遡ると、いくつかの村と森が点在する平地が描かれている。逆に下流に目を走らせると、鋭い岩場が続き、ようやく平たくなったところに、いくつかのキリングの村と街が示されている。その間にある山脈と断崖の谷の国境で、今のレードリッシュとキリングを繋いでいるのは、プルーロ川に沿ってある細い一本の道だけだ。道は、プルーロ川にかかる橋に続き、渡ればちょうど、キリングのシュリンケン関門前に出るようになっている。


「橋を渡ったキリング側のこの細い街道は、シュリンケン峡谷の関門によって管理されています。もし、我が国がキリングを攻めるのなら、どうしてもここを突破することが肝要となります」


 シュリンケン関門――。関所なんて名前がついてはいるが、どう見ても軍事要塞だ。


 川沿いの道は、両側が断崖で通れなくなる手前で、関門奥の山中に続く隘路へと変わっている。けれど、そこを通って軍を動かすには、どうしてもこのシュリンケン関門を落とさなければならない。


 だけど。


「関門の規模は?」


「おや、ご存知ないのですね?」


 一々嫌味な奴! くすっと笑って、オーレリアンは私の前でシュリンケン関門を指差している。


「城砦の高さは五メートル。そして、周りの山にもその城砦の一部を伸ばしています」


「では、横の山に登り、上から火矢で射かければ――」


「生憎と、城砦の周囲は山上でも平地となっております。運よく離れた山に登り上から射かけることができたとしても、城砦までは距離がありすぎて、よほどの強弓を引ける者でなければ関門内に届かせることすら難しいでしょう」


 それにと、ことんと取り出した小さな赤い馬の駒を、シュリンケン関門の山側に置いた。


「北の山側から攻めようとしても、城砦の山側の扉が開き、兵が出てくる仕組みとなっております。戦闘は避けられません」


「では、川を渡って関門を攻めようとすれば」


「もちろん、関門の兵たちが正面の扉から出てきます。我が軍は後ろをプルーロ川に囲まれた状態で、前の敵と戦わねばなりません」


 ことんと、また置かれた正面の敵の赤い馬の駒を見つめた。


 ――だめだ。


 用兵なんて、専門的に学んだこともない。せいぜい、国境の砦に残されていた昔の記録と、たくさんの騎士たちの話から、どんな戦いや戦術が今までにあったのかを知っているぐらいだ。


 あとは、実際の戦いの後方支援として出たぐらいだが、その程度の経験でもわかる。


 この砦は厄介だ。


 とんと、関門前に置かれた我が国の騎士隊を示す白い馬の駒を見つめた。


 もし、この白い駒を動かして、正面から関門を攻めれば、敵はすぐに扉を開いて迎え撃ってくるだろう。扉から出てくる兵だけではない。城門の上からも、攻撃する兵たちに夥しい矢の雨が注がれるはずだ。


 これは、攻められたときに、私たちもよくやる手段だから間違いがない。状況によっては、先端部分に油を浸みさせたものを使った火矢で、攻めてくる相手を焼き殺したりもする。もし、油を撒かれて、兵の上からかけられれば、後ろが川で逃げ場のないレードリッシュの兵たちは壊滅状態となる。


 もし火矢を使用されなかったとしても――。ちらりと、私は山側に置かれた赤い駒を見た。


 山側の城門を守っている戦力が出てきて、狭い関門の前で挟撃されれば、逃げ場がない。関門を落とすために展開した軍を、通ってきた細い橋ですべて対岸に後退させている時間はないだろう。


 北には断崖に近い山。後ろにはプルーロ川。そして、北東から流れてきたプルーロ川は、シュリンケン要塞の南側から西をうねるようにして、別の断崖の中へと続いていく。


 まさに、天然の要害だ。


 不和になりながらも、長い間キリングとの戦いが平行線を辿ってきたのも納得する。


「さあ、どうですか?」


 余裕の笑みで、オーレリアンが私を見つめた。


 ――だめだ! なんとかして、考える時間を稼がないと!


 思わず唇を噛む。とてもじゃないが、今すぐに答えが出せる問いじゃない。


「言葉――」


 だから、私は思いついた言葉を適当に口に乗せた。この場の時間を稼ぐために。


「パトニリアの出身なのか? さっきから、関門という単語の語尾がわずかに跳ね上がっているが」


 適当に選んだ話題だが、予想外の効果があったらしい。オーレリアンの眉が明らかにぴくりと上がった。


「いかにも」


 そして、真っ直ぐに銀色の髪に包まれた顔を上げる。


「私はパトニリアの生まれです。パトニリアの言葉ができるというのも嘘ではないらしい」


 いや、わかるのは庶民の日常語ぐらいですけれどね。それでも、国境の商人がよく話していた訛りまじりのパトニリア語に出てきた特長と似ていたから、当てずっぽうに言ってみたのだ。


「パトニリア人が、どうして王妃様の側近に?」


 今の間だ。考えろ。


 少しの時間を稼いだが、オーレリアンは地図を見ながら、わざとゆっくりと尋ねる私に、くすりと笑っている。


「簡単な話です。王妃様に買われました」


「買われた?」


 聞き慣れない言葉に、思わず瞳を上げた。驚く私を、オーレリアンは笑いながら見つめている。


「はい。私は旅回りの一座に売られた子供でした。芸ができなければ、食事など碌にもらえません。けれど、売られたばかりの幼い子供ではまだ満足な芸もできず――。代わりに、必死であちこちの言葉を覚えて、カタコトで通訳の真似事をしていたのですよ」


「通訳……」


「それでも、食事は一日に一度きりでした。だからお腹をすかせたあまり、市場でパンを泥棒して、片手を切り落とされることになった時に、馬車で通りかかったエレオノール様が助けてくださったのです」


「それは――」


 幼い体には、どれだけ過酷な体験だったのだろう。


 愛されて育てられてきた私には、戦場以外で食べられないという経験自体がない。いや、そりゃあ悪さをした時に一食抜かれたぐらいはあるけれど。一食だけでも、背中とお腹の皮が張りつくかと思ったのに、そんな状態が毎日なんて――盗みをしてしまう気持ちもわかる。


「そうか。だから、お前は王妃様に忠誠を誓っているのか」


「そのとおりです。あの方、エレオノール様は、私を助けてくださった。いや、それだけではなく、私の人生そのものを救ってくださった。それからの私の人生は、すべてあの方を守るためのものでした。だから」


 だんと赤い駒を、シュリンケン関門の城門の上に置いた。


「私は、あの方の望みをなんとしても叶えたい」


 そして、じっと翡翠色の瞳で私を見つめる。


「エレオノール様が第三王女様の戴冠を望まれるのならば王冠を王女様に。そして、マリエル姫を邪魔に思われるのならば、エレオノール様の前から永久に消したいぐらい」


 こいつ! 本性を現しやがった。


 ぎりっと布張りの椅子の肘置きを握り締める。


 強く唇を噛んだ私に、オーレリアンは酷薄に笑う。


「だから、マリエル姫。私と一つ賭けをしませんか?」


「賭け?」


「そう。この試験で百点の満足を私に与えられれば、最初の言葉どおり、今後の姫の身の安全は保証いたしましょう。けれど、当然マイナスの場合もなければ面白くない。だから、もしこの問題に答えられなければ、私は姫の女王としての戦略、そして軍を統帥する能力に問題ありと、各大臣たちに吹聴させていただきます」


 くそっ!


 こいつ、最初からそのつもりだったな!? はなから、マリエルを貶めるためにこの難題を持ち出したんだ!


 マリエルには、女王の器がないと周囲に広めるために!


 だけど、こいつの思惑どおりに、マリエルが女王にふさわしくないなんて、吹聴させるわけにはいかない。ましてや、私のせいで!


 なにか、ないか!


 この難攻のシュリンケン関門を落とす方法が!


 穴が空くほど見つめたが、地図の上でシュリンケン関門は手前にいくつも並べられた白いレードリッシュの駒を阻むように、黒々と姿を広げている。


 後ろと西側にはプルーロ川。もう片側には山の城門の周囲を除き切り立った断崖。とても、大軍で押し寄せられる要塞ではない。


 篭城戦を組もうにも、そもそもシュリンケン関門の向こう側はキリングだ。関門から続く隘路を使えば、いくらでも食料を補給できる。


 砦の攻略戦を行うために、大規模な人数が一度に乗れる巨大な攻城塔を持ち出すにしても、プルーロ川が邪魔をしている。


 ――せめて、なにかヒントがあれば……。


 思わず、迷うように視線を動かした時だった。


 心配そうなレオスの顔が目に入る。そして、オーレリアンの後ろにいる、不安そうなマリエルの姿も。


 せめてもっと情報があれば。


 思わず、なにかないかと縋るようにマリエルを見てしまう。


 私の焦る瞳に気づいたマリエルが、少し悩んだあとだった。持っていた紙を抱え直すと、木炭を上に滑らせる。


 その瞬間だった。今まで座っていたオーレリアンの手がばっと伸びると、マリエルの紙束を凄まじい勢いで跳ね飛ばしたのは。


 あまりの勢いに、オーレリアンの銀色の髪が白銀の糸になって周りに散らばった。その中を、驚いたマリエルの手から弾かれた白い紙が飛んでいく。


「なにをする!?」


 突然の暴挙に、思わず椅子を立ち上がり叫んだ。


 だが、オーレリアンは今マリエルが散らばした白い紙のほうを見つめている。その上に描かれているのは、本来の持ち主であるチェルアがスケッチしていたマリエルの姿だ。


 翡翠色の瞳がじっと描かれた絵を見つめた。


「失礼。またこちらの侍女殿がなにか書こうとなさっていたので。てっきり、姫になにかを教えようとされているのかと思い――」


「彼女は、私の姿や言葉の記録係だ。ウィリル長官に報告するために、描いているだけだ!」


「そのようですね。失礼――」


 かさりと、オーレリアンが床に落ちた一枚のスケッチを手に取った。そして、マリエルの前に差し出したが、その前に慌てて駆け寄ったレオスが手を広げる。


 ――レオス。


 なぜだろう。レオスがマリエルを守っている姿には、一瞬胸が痛んだ。


 ――馬鹿なことに気を取られるな! それどころじゃないだろう!?


 だから、一度頭を振って、胸から湧きそうだった感情に蓋をする。そして、わざとゆっくりとマリエルを見つめた。


「すまない。使者殿も気が立っているようだ。ミーティにお茶を用意するように伝えてくれ」


 オーレリアンから避難させようという私の気持ちが伝わったのだろう。急いで頷くと、マリエルが扉を開けて出ていく。


 急いでミーティに伝えに行く姿を見送りながら、私はゆっくりと椅子に座り直した。


 ――だけど、どうする。


 目の前には、まだ広げたままの地図がある。


 とてもではないが、正攻法でこのシュリンケン関門を落とすことはできない。


 普通のやり方では、(おびただ)しい死体の山を築くことになるだろう。それこそ、プルーロ川を赤く染めて埋めるほどに。


 そんな惨劇を繰り広げたところで、関門を落とせるとは限らないのに――。


「さあ。ではマリエル姫。返答はいかに」


 くそっ!


 それなのに、容赦なくオーレリアンは、指で額を押さえている私に解答を求めてくる。


 なにか――ヒントがあれば……。


 考えに詰まって目を閉じた時、茶器を携えて入ってきたミーティが、私の前に身を屈める気配がした。


 ことりと、湯気を立てる銀のカップを置く音がする。


「ありがとう」


 鼻をくすぐる香りに、ふっと目を開いた。


 私はお茶の銘柄には詳しくはないが、品のある良い香りだ。伸ばした冷えた指先が、湯気でほのかに温められていく気がする。


 ほっとする。温めた水に茶葉を入れただけなのに、どうしてこんなに気持ちが落ち着くのだろう。


 水。そしてふと、さっき思い浮かべた惨劇の言葉が頭をよぎった。


 ――そうだ!


 その瞬間、頭の中に、凄まじい勢いで戦略の地図が描きあげられていく。


 だから、私はすぐにカップを離し、地図上に置かれた白い駒を握り締めた。


 ――この白い駒は、我がレードリッシュの軍。


 だとしたら。


「使者殿の問いにお答えしよう」


 私は、ゆっくりと不敵に笑ってみせた。


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