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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

橋のこちら側で、世界を敵に回すなら

作者: 朝倉春彦
掲載日:2025/11/11

おかしいんだって、この国。

そう何度も思いながら、それでもボク――ケイは、レジ前であくびを噛み殺していた。


今は二〇四五年二十三時四十八分。

かつて日本と呼ばれた国の、ほんの隅っこ。


上を見上げれば、空を飛ぶタワーマンションと、常時接続のフルダイブ・メタバースの世界が広がり…

下を見下せば、日雇いとスラムと、現実からログアウトするための違法ドラッグの海。

その中間、行き過ぎた格差が生み出す少数派である「中流層」があって、ボクはそこの階級の出だった。


そんな「平均」の象徴みたいなボクが、今はコンビニで夜勤バイト中ってわけだ。

ピッ、とスキャナの音だけがやたらと元気よく鳴る。


「……眠そうだね、ケイ」


 ぽつりと、レジ横から声が落ちてきた。


 黒髪ぱっつん、色素の薄い顔、フード付きの黒パーカー。

 身長はボクより少し低くて、猫背気味に立ってるから、余計に小さく見える。


 同じ学校の同じ学年。

 ただし、ボクとは違って「下層」の出身。

 バイト仲間の、ミカだ。


「そりゃ眠いだろ。学校の課題終わってから、そのままここ直行だぞ?」

「平均的中流階級様は、忙しくて大変だね」


 口調は淡々としてるのに、刺はきっちり入っている。

 これでも機嫌がいい方らしいから、世の中よくできてる。


「そっちは? 学校のログイン、今日はサボってたろ」

「サボりじゃない。接続エラー。電気代払えなかっただけ」


 ミカはそこで言葉を切り、カウンターに頬杖をついた。

 長い前髪の隙間から、じっとボクを見てくる。


「どう? かわいそうでしょ?」

「……いや、まあ……かわいそうだけど」

「そんな顔してない」

「どんな顔だよ」

「『ああ、またこいつか』って顔」


 図星すぎて、言い返せない。

 ミカは、小さく肩を揺らして笑った。笑ってるのに、目は全然笑ってない。


「でもさ、ケイ」

「ん」

「君は、『かわいそう』って言葉で全部終わらせる側なんだよ」

「……」

「こっちは、それで人生終わってく側」


 そういうことを、平然と夜勤中のコンビニで言うなよ。


 ボクが返す言葉を探している間に、自動ドアは一回も開かなかった。

 深夜の住宅街のコンビニに、客なんてほとんど来ない。

 代わりに、冷蔵庫のコンプレッサーだけが、ぶおんぶおんとうるさく鳴っている。


「……ゴミ出してくる」

「いってらっしゃい。襲われたらニュースに出れるよ」

「お前が見てて助けろよ」

「ライブ配信はしてあげる」


 冗談とも本気ともつかないことを言って、ミカは片手をひらひら振った。


 バックヤード。

 発泡スチロールとダンボールの匂い。

 裏口を開けると、生ぬるい夜風が顔を撫でていく。


 高層ビルの上の方では、空中庭園の照明がぼんやりと浮かび、その下の路地では、ホームレスが違法テントの中で寝ている。

 真ん中のボクは、店のゴミを決められたボックスに放り込むだけ。


「……平均って、便利な言葉だよな」


 特別じゃない。

 不幸でもない。

 だから、何も起こらない。起きなくていいって、誰かが決めてる。


 そんなことを考えながら、店に戻った。


 自動ドアが閉まる。

 店内は相変わらず静かで、レジ前には誰もいない。


「ミカ?」


 返事はない。


「おい、ミカ。サボりか?」


 レジ横を覗き込むと、彼女のエプロンが椅子の上に投げ出されていた。

 裏のロッカールームの扉は、半分だけ開いている。


 ……トイレか? にしては、長い。


「様子だけ見てくるか」


 ボクは何の警戒もなく、ロッカールームの扉を押し開けた。


◇ ◇ ◇


 最初に、匂いが違った。


 柔軟剤と油とインクの混ざった空気に、別のものが紛れ込んでいる。

 甘くて、湿ってて、鼻の奥をぴりっと刺す、知らない匂い。


 狭いロッカールームの真ん中に、ミカが立っていた。


 ロッカーの鍵は全部開いていて、棚の上には、見たことのない植物が置かれている。

 黒っぽい蔓が、蛍光灯の光を受けて、不自然なほどつややかに光っていた。

 根元には、錠剤とアンプルの入った小さなケース。


 ミカは、その植物の茎を、片手でそっと撫でていた。


「……何、それ」


 思わず口から出た声に、ミカの肩がぴくりと動いた。


 振り向いた彼女の目が――おかしい。


 黒目の縁が、ぐじゅりと広がっている。

 虹彩の内側に、細いひび割れみたいな模様が走っていて、まるで夜の川面に映った街灯みたいに揺れていた。


「ケイ、か」


 声も、少し低い。

 喉の奥で、誰か別の人間が喋ってるみたいに響いている。


「それ、もしかして……噂の、アレ?」


 禁制植物。

 AIによる規制網をかいくぐって、スラムと上級階層のパーティルームを行き来する新型ドラッグ。

 脳と神経を一度溶かして組み替える、って物騒なキャッチコピーが出回っているやつ。


「見たことあるんだ?」

「ネットで、写真くらいは。現物は初めてだけど」

「ふーん」


 ミカは植物を見つめたまま、口角だけを持ち上げた。

 笑ってはいるけど、その表情はどこか、人間の筋肉の動きからずれている。


「ねえ、ケイ。 君さ、これ見ても『通報しなきゃ』って顔しないんだね」

「そこまで正義感強くないし。 それに、通報したらボクも事情聴取とか面倒だし」

「それ、平均的中流階級の、本音」

「やめろ。変なラベル貼るな」

「ふふ」


 ミカは、植物から手を離した。

 代わりに、自分の左手首を、ゆっくりとまくり上げる。

 そこにあったのは――刺青、というには、あまりにも生々しい模様だった。


 青緑色の細い線が、血管みたいに肌の内側から浮かび上がっている。

 渦を巻いて、橋の欄干のような形を作り、そこから伸びる無数の線が、見えない川面に落ちていく。


「これ、隠すのめんどくさかったんだよね」

「……何、それ。タトゥー?」

「人間の、それじゃない」


 ミカの瞳が、ゆっくりと細くなる。

 まるで夜の川を覗き込んだ時みたいに、底が見えない。


「ねえ、ケイ。 妖怪って、信じる?」

「は?」


「AIが世界を管理し始めてから、生まれたって噂の。 人の理から外れた、人じゃない何か」


 ボクは一瞬、笑おうとして――できなかった。

 だって、目の前の彼女が、それを証明するみたいに、変わっていくから。


 首筋。

 耳の後ろ。

 頬の下。


 さっきまで何もなかった皮膚の下から、同じ模様がじわりと浮かび上がってくる。

 橋と川と、渦と線。

 灯のない欄干が、ミカの体に巻き付くみたいに広がっていく。


「ボクは――」


「君は中流階級。 学校に不自由なく通って、親は公務員で、生活は安定してる。 かわいそうでも、特別でもない。 だから、何も変えられないし、変わらない」


 ミカは一歩近づいた。

 距離が詰まるのと同時に、さっきの甘い匂いが、濃くなる。


「ボク、って言ったね。 君、自分を『ボク』って呼ぶんだ」

「……今、それ関係ある?」

「あるよ。 自分を子ども扱いしてれば、責任から逃げられるから」


 胸ぐらを掴まれるより先に、言葉で喉を締め上げられた気がした。


「お前、今日はやけに刺してくるな」

「だって、決めたから」

「何を」

「ぶっ壊す、って」


 ミカが笑った。

 その瞬間、ロッカールームの蛍光灯が、バチンと音を立てて消えた。


◇ ◇ ◇


 何がどうなったのか、全部は覚えていない。


 ただ、暗闇の中で何かがはじけた音と、ロッカーの鉄板が歪む甲高い悲鳴と、誰かの笑い声が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。


 気づいた時、ボクは外にいた。


 コンビニから少し離れた、小さな公園。

 街路樹に囲まれていて、夜になると誰も寄り付かない、古い遊具だらけの場所。


 砂場。

 鉄棒。

 滑り台。

 ブランコ。


 そのほとんどが、今はぐしゃぐしゃに壊されていた。

 ブランコの鎖は捻じ切れて、支柱は根元から折れている。

 滑り台のステップは、何か硬いもので殴られたみたいに曲がり、砂場の縁は粉々に砕けていた。


 その真ん中に、ミカが立っていた。


 フードは外れていて、髪は乱れ、目は完全に人のそれじゃない。

 瞳孔は細く、虹彩のひび割れ模様は、今や淡く光っている。


「逃げるの、速かったね」


 口元から血を拭いながら、ミカが言う。

 誰の血かは、考えたくない。


「……お前が、投げたんだろ。ボクのこと」

「そうだね。 ロッカーに叩きつけて、その勢いで裏口から飛んでった」

「人をゴミみたいに」

「ゴミならよかったのに」


 ミカの足元で、折れたブランコの鎖がじゃらりと鳴る。


「ねえケイ。 君、自分が『平均』だって、ちゃんとわかってる?」

「今それ、確認するタイミング?」

「大事だよ」


 ミカは一歩、ボクに近づいた。

 その一歩で、彼女との距離が一気に詰まった気がする。


「平均ってさ。 何も選ばなくて済む立場なんだよ。 上みたいに、誰かを踏みつけなくてもいい。 下みたいに、誰かを恨まなくてもいい」


 砂を踏む音が、近づいてくる。


「だから君たちは、全部見て見ぬふりをする」

「勝手にまとめるなよ」

「まとめるよ」


 ミカはもう一歩踏み出し、その瞬間に視界から消えた。


 と思った次の瞬間には、ボクのすぐ目の前にいた。

 残像だけが、風みたいに頬を撫でる。


 腕が振り上げられる。

 何かが空を裂く。

 ボクは、とっさに身を捻って、それを避けた。


 背後で、コンクリートが砕ける音がした。


 振り向くと、さっきまでボクの頭があったあたりの地面に、深いひびが走っていた。

 ミカの細い腕が、そこに突き刺さった形跡だけを残している。


「……は?」

「うん。 今の、当たってたら死んでたね」


 ミカは、軽く肩を回した。

 笑いながら、まるでウォーミングアップでもしているみたいに。


 ボクは、一歩、後ずさった。

 足が砂に埋まって、うまく動かない。


「ねえケイ。 死ぬの、怖い?」

「当たり前だろ」

「いいね。それが普通」


 ミカの足が、砂を蹴る。

 視界が揺れる。


 次の瞬間には、彼女の手がボクの胸倉を掴んでいた。


 背中が、鉄棒に叩きつけられる。

 肺の中の空気が、一瞬で全部抜けた。


「がっ……!」

「君さ」


 ミカの顔が、すぐ近くにある。

 瞳孔の細さまで数えられそうな距離。

 甘い匂いと、さっきから鼻を刺す植物の匂いが混ざって、頭がくらくらする。


「授業で、習わなかった? 『負の感情が一定値を超えた時、人は妖怪になる可能性がある』って」

「都市伝説だろ、それ」

「現実だよ」


 ミカの左手首の模様が、ぼうっと光る。

 橋。

 川。

 闇。


「私は、橋姫と呼ばれる存在らしい。 嫉妬と憎悪で川に沈んだ女が、夜の橋に戻ってきた、って……そういう話の、現代版」

「意味わからん……何に嫉妬して、誰を恨んで、何でそんなことに――」

「全部だよ」


 ミカの指が、ボクの胸元の制服をぎゅっと掴む。


「君みたいな『普通』にも、上の連中にも、何もしてくれない制度にも、 親にも、家族にも、自分の運の悪さにも」

「……」


「でもね、今はもう違う」


 ふっと、ミカの力が抜けた。


 鉄棒からずり落ちるボクの体を、彼女はそのまま上から押さえ込む形で倒れ込んでくる。

 夜の公園の真ん中で、ボクはミカにのしかかられたまま、息を整えることしかできなかった。


「……ごめん」


 耳元で、小さな声が落ちた。


 振り向くと、ミカが泣いていた。


 さっきまでの狂気じみた光は消えていて、代わりに必死に歯を食いしばっている。

 唇が震えて、うまく言葉になっていない。


「止まらないんだよ、これ。 怒りとか、憎しみとか、妬みとか……全部がさ、勝手に膨らんで、勝手に燃える」

「さっきのも、その……?」

「そう。 ケイのこと、嫌いなわけじゃないのに。 むしろ……」


 そこで言葉を濁し、ミカは自分の額をボクの胸に押し付ける。

 肩が震える。

 涙が、制服に落ちる。


「どうでもよかったはずの世界のことまで、一緒に憎くなるんだよ。 上の連中も、君ら中流も、全部まとめて沈めてやりたくなる」


「……」


「だからね」


 ミカは顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃになった目が、もう一度、あのひび割れ模様に変わっていく。


「終わらせる。 この国も、この世界も。 AIに管理されてる全部を、逆流させて、川底に沈める」


 ミカの右手には、いつの間にか、さっきの植物の小瓶が握られていた。


 黒い蔓を刻んで乾燥させた粉末。

 新型のドラッグ。

 禁止指定。

 所持だけで重罪。


「これは、そのための火種。 この街の水道に混ぜてもいいし、電子ドラッグに書き換えてVRサーバーにばら撒いてもいい。 上も下も関係なく、全部まとめてぶっ壊せる」


「そんなことしたら――」

「大勢死ぬ。 でも、もうとっくに死んでるのと同じでしょ、みんな」


 ミカは笑った。

 涙の跡を残したまま、ひどく綺麗な笑顔で。


「ケイは、どうする?」

「何が」

「君は、こっち側に来る?」


 その問いに、すぐ答えられない自分がいた。


 来るわけない、って即答できればよかったのに。


 代わりに出てきたのは、ずっと胸の奥に沈んでいた別の感情だった。


 平均から、抜け出したい。

 何か「特別なもの」になりたい。

 世界の背景じゃなくて、物語の中心に立ってみたい。


 そんなガキっぽい欲望が、ミカの言葉に刺激されて、一気に浮かび上がってくる。


「ボクは――」


 言いかけた瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。


「……っ!」


 ミカの爪が、ボクの皮膚に食い込んでいた。

 ほんの少し血がにじむ程度の傷。

 でも、そこから何かが、じわっと流れ込んでくる。


 甘くて、熱くて、少しだけ冷たい、変な感覚。


「ごめんね」


 ミカが囁く。


「選ばせる時間、もうあんまりないんだ」


 視界の端が、ゆっくりと暗くなっていく。

 夜の公園の街灯が遠ざかり、砂場も壊れた遊具も、全部が水の底に沈んでいくみたいにぼやけていく。


 最後に見たのは、ミカの顔だった。


 泣きながら笑っている、どうしようもない顔。


◇ ◇ ◇


 目を覚ました時、空気の匂いが変わっていた。


 埃と油と鉄の匂い。

 冷たい、湿ったコンクリートの感触。

 遠くで、ドローンの飛ぶ羽音が反響している。


 瞼を開けると、天井には剥がれかけた鉄骨と、割れた蛍光灯がぶら下がっていた。


「……どこだ、ここ」


「廃工場。 不法占拠中」


 声のする方を向くと、そこにはミカがいた。


 いつものパーカーのまま、だけどエプロンは外されていて、髪は乱れたまま。

 一つだけ生き残った照明の下、彼女の体に浮かぶ橋の模様が、はっきり見えた。


「運ぶの、大変だったんだよ。 君、意外と重い」

「女の子に運ばれる男の気持ち、考えろよ……」

「考えるわけないでしょ」


 軽口が、いつもみたいに返ってくる。

 ただ、その裏にある温度は、もう以前とは違っていた。


「……ボク、何かされた?」

「ちょっとだけ、盛った」

「盛ったって、何を」

「さっきの植物。 あれを加工したやつを、一滴」


 そう言って、ミカは自分の指先を見せた。

 爪の先に、うっすらと黒い跡が残っている。


「安心して。 いきなり廃人になるほど強くはないから。 最初は、感情が少し薄くなるくらい」

「感情が、薄く……」


 言われて、ようやく違和感の正体に気づいた。


 頭の中が、やけに静かだ。


 さっきまで感じていたはずの恐怖も、怒りも、ほとんど残っていない。

 代わりにあるのは、妙に冷めた視点だけ。


 自分が拉致されて、違法ドラッグを盛られて、テロを宣言してる女と二人きり。

 客観的に見れば、とんでもない状況のはずなのに――心拍数は、そこまで上がっていない。


「……これが、薬の効果?」

「半分はね」

「じゃあ、もう半分は」

「君自身」


 ミカは鉄骨にもたれかかりながら、ボクを見下ろした。


「本当に全部が嫌だったら、もっと取り乱すでしょ。 助けてくれとか、やめろとか、叫ぶでしょ」

「……」

「でも君、そこまでしない。 どこかで、『面白くなってきた』って思ってる」


 図星、だった。


 認めたくなかったけど、認めざるを得ない。

 ボクの中のどこかが、確かに高揚している。


 これまでの「平均」の生活では、絶対に出会えない種類の出来事。

 世界の裏側にひっくり返される感じ。

 自分だけが、物語の濃いところに踏み込んでしまった感覚。


「ねえケイ」


 ミカが近づいてくる。

 足音が、冷たい床に響く。


「君さ。 世界の敵になってみない?」

「いきなりハードル高いな」

「そう?」

「普通、『一緒に逃げて』とか『一緒に壊して』とかだろ」

「それじゃ足りない」


 ミカはボクの目の前で立ち止まり、膝を折って視線を合わせてきた。


「この国は、もう壊れてる。 AIも、格差も、全部。 上の連中は、それを前提にして楽しくやってる。 下の連中は、それを前提にして諦めてる」

「中流は?」

「君らは、何も見なかったふりをして、生き延びてる」


 静かな声。

 怒鳴り声よりずっと強く聞こえるタイプ。


「だからさ。 壊すなら、中途半端じゃ意味ない。 どっかのテロリストごっこじゃなくて、『世界の敵』ってラベルを堂々と貼られるくらい、派手にやらないと」

「……ボクが、その片棒を担げと?」

「うん」


 ミカは小さなケースを取り出した。

 透明な蓋の向こうで、黒い粉末が揺れる。


「これは、ただのきっかけ。 AIのフィルタリングをすり抜けるための、穴。 君の頭の中に、その穴を広げる役目をしてくれる」


 ケースを開け、中の錠剤を一つ、ミカはボクの手のひらに乗せた。


 丸くて、小さくて、見た目はただの薬。

 これ一粒で、人生がひっくり返るって、本当に?


「断ってもいいよ」


 ミカは、あっさり言った。


「このまま飲まずに帰る? ボクのこと、通報する? それも一つの選択」

「……」

「その代わり、君は一生、『何も知らなかった』側の人間で終わる」


 それを言われるのが、一番きつい。


 知らないまま終わる。

 平均のまま終わる。

 何も選ばないまま、何も成し遂げないまま、寿命だけ消費して死ぬ。


 それが、一番怖いのだと、初めて自覚した。


 工場の隙間から、夜の風が吹き込む。

 遠くの高速道路を走る車の音。

 ドローンのプロペラ音。

 全部が、妙に遠く感じる。


 ボクは手の中の錠剤を見つめた。


 白い指先。

 少し震えている。


 これを飲めば、戻れない。

 飲まなければ、何も始まらない。


 どちらも正しいし、どちらも間違っている。


「ケイ」


 ミカが、ボクの名前を呼んだ。


 その声は、コンビニのレジで聞いていたものと同じで、でもどこか違っていた。

 橋の欄干から身を乗り出して、川面を覗き込んでいるみたいな、危うい声。


「君は、平均から抜け出したいんでしょ?」


 そこを、突かれた。


 ボクは笑った。

 自嘲とも、開き直りともつかない笑いだった。


「……ズルいな、お前」

「知ってる」


 ミカも、少しだけ笑った。

 その笑いは、泣きそうなくらい不安定で――でも、やけに綺麗だった。


「世界の敵になるって、結構面白そうじゃない?」

「そう簡単に言うなよ」

「簡単に言わないと、やってられないでしょ」


 そう言うなら、こっちも。


 ボクは、手の中の錠剤を、口の中に放り込んだ。


 舌の上で、わずかに苦みが広がる。

 喉が、ごくりと動く。

 それで終わり。


「……はい、これで、ボクも共犯」


 自分で言って、自分で苦笑した。


 ミカが、ほんの少し驚いた顔をして、それからニヤッと口角を上げる。


「ようこそ。橋のこちら側へ」


 彼女が差し出した手を、ボクは握った。


 その瞬間、世界の色が、ほんの少しだけ変わった気がした。


 夜の工場の暗闇が、以前よりもはっきり見える。

 遠くの音が、妙に鮮やかに聞こえる。

 自分の心の中の何かが、静かに反転する。


 恐怖は、もうほとんどない。

 代わりにあるのは――期待だ。


 この先、ボクたちは、本当に世界の敵になるかもしれない。

 AIに管理された社会の、バグであり、ウイルスであり、異物になるかもしれない。


 それが、どれだけの地獄を連れてくるのかなんて、今のボクには想像もつかない。


 でも一つだけ、はっきりわかる。


 もう、平均には戻れない。


 その事実だけが、ボクの胸の中で、妙に心地よく響いていた。

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