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1章8節「平穏な日常の崩壊」

穏やかな日々は、唐突に終わりを告げた。


その日も、明は夜明けと共に一人で森へ入っていた。


狩りにもすっかり慣れ、今ではこの静かな森で過ごす時間が、彼にとって何よりの心の安らぎとなっていた。


一方、ガルドは日の出前から森の奥深くへと分け入っていた。

若い才能の台頭に、ベテランとしての矜持が静かに燃えていたのだろう。


いつもより良い獲物を、と普段は足を踏み入れない領域まで進んだ、その時だった。


最初に感じたのは、違和感だった。


森が、不自然なまでに静まり返っている。

鳥の声も、虫の音も聞こえない。


ガルドは長年の経験から、それが危険の兆候であることを知っていた。


風下に回り、大樹の陰に身を潜め、慎重に辺りを見渡す。

そして、それを見つけた。


谷間の開けた土地を、おびただしい数の何かが蠢いていた。


緑色の醜悪な肌、鉤爪のついた手足。ゴブリンだ。

ざっと数えただけでも、五十は下らない。


それだけではない。


群れの中には、ゴブリンより一回りも二回りも大きい、角の生えた鬼のような顔の巨漢――オーガの姿も数体混じっている。


(……馬鹿な)


ガルドの心臓を、若い頃に一度感じたきりの、冷たい恐怖が鷲掴みにした。


ゴブリンとオーガが、これほどの規模で徒党を組むなど、冒険者の与太話でしか聞いたことがない。


複数のモンスターが共生関係を結ぶことは稀にあると聞くが、これほどの群れを統率しているとすれば、その中にはゴブリン・ジェネラルといった、熟練の戦士でもなければ相手にならぬ上位種がいるに違いない。


奴らは、明らかに飢えていた。


痩せこけた身体で、何かを探すように絶えず周囲を見渡している。

おそらく、住処としていた領域の獲物を食い尽くし、新たな餌場を求めて移動しているのだろう。


そして、その進行方向は――ウンドレダル村のある方角だった。


ガルドは血の気が引くのを感じながら、音を殺してその場を離脱した。

そして、人生で最も速く、村へと向かって走り出した。


陽も傾きかけた昼下がり。


明がその日の獲物であるホロホロ鳥を三羽ほど仕留め、村への帰路についていた頃、ウンドレダル村は絶望の淵に沈んでいた。


「……ゴブリンが、五十以上……オーガも、数体……」


村長が、ガルドの報告を呆然と繰り返す。


その場に集まった村の男たちの顔から、みるみるうちに血の気が失われていく。


「そんな馬鹿な話があるか! 俺たち男衆を全員集めたって、三十人そこらだぞ!」

「しかも、相手は飢えている……。もし村に押し寄せられたら……」


誰もが、その先の言葉を口にできなかった。


ゴブリンは、ただ殺戮と略奪を行うだけではない。


彼らは女子供を攫い、新たな同族を産ませるための「苗床」にする。


その噂は、この辺境の村にまで届いていた。


王国で稀に救出された被害者の女たちが、例外なく心を病み、人としての尊厳を砕かれていたという、おぞましい話と共に。


数時間。


ガルドの見立てでは、奴らが村に到達するまで、それほどの時間しか残されていなかった。


「……村を、捨てる」


沈黙を破ったのは、村長だった。

その声は、苦渋に満ちていた。


「今すぐ、女子供をまとめてレールダルの町へ避難させる。

男衆は、可能な限りの食料と物資を荷車に積み込み、しんがりを務める。命あっての、物種だ……!」


それは、あまりに現実的で、そして残酷な決断だった。


祖父の代から三代にわたって築き上げてきたこの村を、家を、畑を、全て捨てて逃げるのだ。


だが、誰一人として異を唱える者はいなかった。


蹂躙される未来を思えば、それ以外の選択肢など存在しなかった。


村は、一瞬にして恐慌状態に陥った。


泣き叫ぶ子供、荷物をまとめようと走り回る女たち、そして、呆然と立ち尽くす男たち。


その混沌の只中へ、明が帰ってきた。


「……何があったんですか?」


村の異様な雰囲気に、明は戸惑いながらガルドに尋ねる。


ガルドから事の次第を聞かされた時、明の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が惨殺した、あの七匹のゴブリンの姿だった。


あれが、五十以上。


(……無理だ)


それが、元サラリーマンである佐藤明の、冷静な判断だった。


だが、彼の口から出た言葉は、まったく別のものだった。


「……俺が行きます」


静かな、しかし、その場の喧騒を切り裂くほど、はっきりと通る声だった。


全ての視線が、彼に突き刺さる。


「森に入って、奴らを迎え撃ちます。勝算はありません。ですが、一時間か二時間……村の皆さんが逃げるための時間を稼ぐことくらいは、できるはずだ」


なぜ、そんな言葉が口から出たのか、明自身にも分からなかった。


ただ、絶望に打ちひしがれる村人たちの顔を見て、かつて自分がいた灰色の世界で失ってしまった、何か根源的な感情が突き動かされたのかもしれない。


あるいは、この世界で初めて得た、ささやかな安らぎと、人からの感謝。

それを、こんな形で失いたくないと、本能的に思ったのかもしれなかった。


「アキラ様……何を、言って、おられる……」


村長が、震える声で問う。


「あなた様は、まだこの村に来て日も浅い。我々のために、命を懸けていただく義理など、どこにも……」


「義理じゃありませんよ」


明は、穏やかに笑ってみせた。


「皆さんには、優しくしていただきましたから。……それだけです」


その、あまりに静かで、揺るぎない覚悟。


その姿を、ガルドは食い入るように見つめていた。


そして、次の瞬間、彼は自らの弓を強く握りしめ、叫んだ。


「……馬鹿野郎! 死ぬ気か、アンタは!」


ガルドは明の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。


「だがな、あんた一人を行かせるわけにはいかねえだろうが!

俺も行く! あんたほどの腕はねえが、矢の一本でも当てて、援護くらいはしてやらあ!」


無謀な自己犠牲に、もう一人、無謀な男が加わった。


明は驚いてガルドを見つめる。

ガルドは、決意に満ちた目で頷き返した。


「……奴らの通り道に、ちょうどいい場所がある。両側を岩壁に挟まれた、狭い道だ。そこでなら、大軍を相手にするには都合がいい」


森を知り尽くした猟師が、最高の死に場所を提案する。


明は、こくりと頷いた。


二人が村の出口へと向かうと、そこではすでに先発隊となる女子供たちが、わずかな荷物と共に荷車へと乗り込んでいる最中だった。


その中に、母親に支えられながら、必死に涙をこらえるエルの姿があった。


視線が、交錯する。


エルの青い瞳が、恐怖と、そして懇願するような色を浮かべて揺れていた。


明は、そんな彼女の視線をまっすぐに受け止めると、ただ一言も発さず、静かに、そして力強く、一度だけ頷いてみせた。


それだけだった。


二人の男は、混乱の極みにある村を背に、迫りくる絶望へと、静かに歩き出した。



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