4章13節「偵察任務」
長く続いた冬がようやく終わりを告げ、グローマルク平野を覆っていた厚い雪が溶け始めると、両軍の間に再び緊張が走り始めた。
雪解け水でぬかるんだ大地は、マラッカ自慢の騎馬隊の機動力を削ぐが、それはロキアの重装歩兵にとっても同様で、戦線は膠着状態に陥っていた。
王国軍は何度か小規模な威力偵察を試みたが、大きな戦果は得られず、時間だけが過ぎていった。
そんな中、黒鉄砦の司令部から傭兵団「黒い剣」へ、新たな指令が下った。
――敵領域深部への潜入偵察。
兵站状況、部隊の移動経路といった、次の攻勢の核となる情報を探る、極めて危険な任務だった。
作戦は、腕利きの者を選抜し、八名を一組とする複数の小隊を編成。各自の判断で十日間の偵察活動を行うというものだった。
「―――ビョルン、お前にも一隊、任せる」
サムのその言葉に、古参の幹部たちの間に微かな動揺が走った。
だが、誰も異を唱える者はいなかった。
先の戦いにおけるビョルンの功績は、すでに団の誰もが認めるところとなっていたからだ。
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作戦決行は、三日後の夜と決まった。
出撃前夜、サムは選抜された全隊員を前に、古びたガラス細工の鈴を取り出した。
「これより、嘆きの森を抜ける。全員、俺から離れるな。この『静寂の鈴』の効果範囲は、それほど広くはねえ」
それは、周囲の音を遮断し、気配を希薄にさせることで、森に潜む魔物たちの注意を逸らすための、貴重な魔道具だった。
一行はサムを先頭に、音もなく森の中を進んでいく。
やがて、森を抜ける直前の開けた場所で、サムは足を止めた。
「―――ここからは、別行動だ。各自、与えられた任務を遂行しろ。十日後、必ずここで落ち合う。いいな。もし遅れた場合は、待たん。各自、自力で駐屯地まで戻ってこい」
サムの短い言葉に、隊員たちが無言で頷く。
ビョルンもまた、自らが率いる七名の部下たちと共に、夜の闇の中へと、静かにその身を溶け込ませていった。
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ビョルンの小隊は、サムたちと別れると、月明かりだけを頼りに、すぐさま北西へと進路を取った。
サムとの事前の打ち合わせ通り、彼らの服装はマラッカ大国の辺境でよく見られる、質素だが丈夫な羊毛の旅着に偽装されている。
今回はいつもの物々しい鎧は着てきていない。
代わりに厚手の布鎧を中に着込み、武器はそれぞれマントの下や、旅荷を装った袋の中に巧みに隠されていた。
一見すれば、任期を終えて故郷の村へ戻る、ただの傭兵上がりの一団にしか見えない。
その風体でなら、万が一誰何されても、「前線での任期が明けたので、故郷でのんびり暮らすのさ」という言い訳が通用するはずだった。
だが、誰何される危険そのものを、可能な限り避けねばならない。
ビョルンは主要な街道を完全に避け、コンパスと星の位置だけを頼りに、道なき道を進んだ。
雪解け水でぬかるんだ森を抜け、苔むした滑りやすい岩がちな丘を越え、骨身に染みるほど冷たい小川を音もなく渡る。
その行軍は、熟練の傭兵たちですら音を上げるほど、困難を極めた。
しかし、ビョルンにとって、この環境はむしろ手慣れたものだった。
ウンドレダル村で猟師として過ごした一年が、彼の身体に森での生存術を深く刻み込んでいたのだ。
彼は、まるで森の一部であるかのように、気配を殺して進む。
ぬかるみの中で足を取られにくい硬い地面を見つけ、踏んでも音を立てない枯れ葉の積もり方を見極め、最も効率的なルートを瞬時に判断し、部下たちを導いた。
彼のその動きは、無駄がなく、そして疲れを知らない。
他の者たちが息を切らし始める頃になっても、彼の呼吸は少しも乱れていなかった。
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三日目の昼下がりだった。
一行が小高い丘の稜線に差し掛かった時、ビョルンが不意に右手を挙げ、進軍を止めた。
部下たちが訝しむ間もなく、彼は地面に身を伏せ、丘の向こう側を指差す。
谷間に続く道を、マラッカ軍の小規模な騎馬隊が、土煙を上げて進んでいくのが見えた。
その距離、わずか三百メートル。
もしビョルンの判断が少しでも遅れていれば、稜線上に姿を晒した彼らは、格好の的になっていただろう。
部下たちの間に、緊張と、そして安堵の息が漏れた。
夜、彼らは火を使わない、冷たい野営を行った。
固い干し肉をかじりながら、若い傭兵の一人が、ビョルンに小声で尋ねた。
「隊長。どうして、あの騎馬隊に気づいたんです? 俺たちには、物音一つ聞こえませんでしたが」
「……風だ」
ビョルンは、短く答えた。
「風が運んでくる、馬の匂いと、微かな鉄の匂い。それと、鳥の飛び方だ」
その、あまりに猟師的な答えに、部下たちは言葉を失った。
彼らの間に、この寡黙な隊長に対する、畏敬の念にも似た感情が芽生え始めていた。
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数日が過ぎた。
彼らは、ついに目的地である狼爪砦の後方に位置する都市――「鉄の心臓」と俗称される城塞都市オルティンブルクを遠望できる山中に到達した。
木々の隙間から見えるその姿は、都市というよりは、巨大な軍事工場だった。
無数の煙突から黒い煙が立ち上り、城壁の外にまで広がる鍛冶場の槌音が、地響きのようにここまで届いてくる。
オルティンブルクを望む山中に、彼らは巧妙な隠れ家を設営した。
風雨をしのげる岩陰を選び、周囲の植生を一切乱すことなく、最小限の野営地を構築する。
日中は二人一組で見張りに立ち、ビョルンはその類稀なる視力で、眼下で繰り広げられる都市の営みを冷徹に観察し続けた。
街道を往来する荷駄の列――積荷の種類、荷馬車の数、護衛兵の規模。
城門を出入りする部隊の所属を示す旗印、その兵装の統一性、そして兵士たちの士気。
それら全ての情報が、ビョルンの手によって羊皮紙に克明に記録されていく。
部下たちもまた、彼の指示に従い、交代で見張りやスケッチを行い、情報を集積していった。
三日が過ぎた。
外部からの観察だけでは、もはや限界だった。
城壁の内側――本当の姿を探る必要がある。
ビョルンは、決断を下した。
「今夜、俺一人で市内に潜入する」
その言葉に、部隊の中でも特に経験豊富な古参の傭兵が、心配そうに眉をひそめた。
「ビョルン、それはあまりにも危険じゃないか?」
ビョルンは静かに振り返る。
その瞳には、不安の色など微塵も浮かんでいなかった。
「ああ、危険だろうな。だが、お前たちを危険に晒すよりはいい。それに、考えがある」
彼はそこで一度言葉を切ると、真っ直ぐに部下たちの顔を見据えた。
「お前たちの仕事は、ここで待機し、俺が戻るまでこの場所を確保することだ。
もし、明後日の夜明けまでに俺が戻らなければ、作戦は失敗と判断し、お前たちは直ちにここを放棄して、嘆きの森の集合地点へ向かえ。――これは命令だ」
その落ち着き払った、しかし絶対的な自信に満ちた声に、古参兵はそれ以上何も言えず、ただ黙って頷いた。
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月が雲に隠れた、漆黒の夜。
ビョルンは、音もなく闇に溶け込んだ。
その身体は、まるで黒豹のようにしなやかに、山肌を駆け下りていく。
城壁に近づくにつれ、彼は地面を這うように姿勢を低くし、見張りの兵士たちの視界の死角を、寸分の狂いもなく縫って進んだ。
彼は都市の北側、比較的警備が手薄になっている城壁の一角に狙いを定めていた。
日中の観察で、そこが兵士たちの交代の際にわずかな時間、監視の空白が生まれることを見抜いていたのだ。
その一瞬の隙を突き、彼は城壁に取り付く。
石の継ぎ目に指をかけ、常人離れした筋力で、その垂直な壁を、まるで梯子でも登るかのように駆け上がっていった。
市内に潜入した彼は、物乞いを装うために用意していたぼろ布を頭から被り、裏路地の闇から闇へと、亡霊のように移動した。
酒場から漏れ聞こえてくる、傭兵たちの酔ったうわ言。
兵舎地区の警備体制と、その練度。
市場に並ぶ品物の種類と量から推測される、物資の充足状況。
それら全ての情報を、彼は脳裏に焼き付けていく。
夜明け前。
彼は再び闇に紛れ、誰にも気づかれることなく、オルティンブルクを後にした。
約束の十日後、嘆きの森の東端に設けられた集合地点には、作戦に参加した全ての小隊が、一人も欠けることなく帰還していた。
サムは、各隊の隊長からそれぞれが持ち帰った情報を集め、その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
ビョルンもまた、自らの部隊の無事を確認し、静かに安堵の息を漏らす。
彼らは、再びサムの「ガラスの鈴」の力に守られ、誰にも気づかれることなく、駐屯地への帰路についた。
キャンプに戻ると、サムは早速、各小隊から提出された報告書とスケッチを大きな机の上に広げ、情報の整理に取り掛かった。
ビョルンもその作業に加わり、各隊が持ち寄った断片的な情報を、一つの大きな地図の上に統合していく。
敵の部隊配置、補給路の状況、砦の防備。
それらが組み合わさっていくにつれ、マラッカ大国軍の冬の間の全体像が、徐々に、しかし明確に浮かび上がってきた。
その作業が一段落した頃、サムはビョルンが持ち帰った、オルティンブルク市内の詳細な報告書に目を通し、感嘆の息を漏らした。
「……おい、ビョルン。てめえ、まさか本当に一人で潜り込んだのか」
「はい」
その、あまりに淡々とした返事に、サムは呆れたように頭をかいた。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない賞賛の色が浮かんでいる。
「……とんでもねえ奴だ、お前は」
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翌日、サムとビョルンは、完成した報告書を手に、黒鉄砦の司令部へと向かった。
作戦会議の席で、ビョルンがまとめた詳細な地図と、彼自身が持ち帰ったオルティンブルク市内の情報が披露された時、居並ぶ王国軍の将校たちの間に、かすかなざわめきが広がった。
これまで多額の対価と時間を費やして内通者を育て、ようやく断片的に得ていた類の情報を、この男はわずか十日で持ち帰ってきたのだ。
報告を終えたサムに対し、司令官は静かに頷いた。
「見事な働きだ。特に、ビョルン殿の持ち帰った情報は、今後の作戦を大きく左右するだろう」
その言葉と共に、傭兵団「黒い剣」には、当初の契約を上回る額の報奨金が支払われた。
ビョルンという男の名は、この日を境に、司令部の将校たちにとって、数多いる傭兵の一人から――
「黒い剣」に所属する、特に腕の立つ男として認識されることになった。
春の雪解けと共に、新たな戦いの季節が、すぐそこまで迫っていた。
ストックが枯渇したのと、私用で2、3日空きます。
すみません。




