1章5節「生々しい手応え」
三日目の朝。
明は、身体の節々が軋むような感覚と共に目を覚ました。昨日のイノシシとの戦闘や、それを村まで引きずってきたことによる肉体的な疲労ではない。
むしろ、この身体は眠れば眠るほど活力が漲ってくるかのようだ。
問題は、精神だった。認めたくない現実と、理解不能な現象の数々が、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
この身体は、本当に自分のものなのだろうか。
昨日、あれほどの巨獣をいとも容易く屠り、その亡骸を苦もなく引きずって帰ってきた。そんな人間が、この世にいるはずがない。
だが、手足は寸分の狂いもなく彼の意思通りに動く。これは紛れもなく、自分自身だった。
では、自分とは一体、何なのだろうか。
ぼんやりと天井の木目を眺めていると、控えめなノックの音と共に、村長の奥さんが顔を覗かせた。
「アキラ様、お目覚めでしたか。村長がお呼びでございます」
村長の家へ赴くと、彼はすでに囲炉裏の前に座っており、明の姿を認めると深く皺の刻まれた顔をほころばせた。その目には、昨日までの警戒心とは違う、明確な期待の色が浮かんでいる。
「おお、アキラ様。昨日は誠に見事な獲物、感謝いたします。村の者たちも、あれほどの肉は久しぶりだと、大変喜んでおりました。子供たちなどは、昨夜からお祭り騒ぎでしてな」
「……いえ、たまたま出くわしただけですから」
「偶然であれ、あの猪を仕留められる腕前は本物。……そこで、ご相談なのですが」
村長は居住まいを正した。
「この村には、ガルドという猟師が一人おります。彼も腕は良いのですが、いかんせん一人では村の全員を養うほどの獲物を毎日持ち帰るわけにはいきません。もし、アキラ様さえよろしければ、ガルドと共に、村のために狩りに出てはいただけないでしょうか。もちろん、獲れた獲物のアキラ様の分け前は、最大限お約束いたします」
狩り。それは、明の人生とは全く無縁の言葉だった。
だが、今の彼に断る理由はなかった。ログアウトする方法も見つからず、ただ無為に時間を過ごすよりは、何かをしていた方が気も紛れる。それに、この村の人々の生活が、決して楽ではないことも、この二日間で嫌というほど理解していた。
「……分かりました。俺でよければ、手伝いましょう」
「おお! それは、かたじけない!」
村長は心底安堵したように、何度も頭を下げた。
紹介された猟師のガルドは、村の外れで黙々と矢の羽を調整していた。
三十代半ばだろうか。日に焼け、筋骨たくましいその身体は、森で生きる男のそれだった。その手は節くれ立ち、数えきれないほどの傷跡が刻まれている。
彼は明の姿を認めると、立ち上がって無言で一礼した。昨日、あれほど興奮して明に話しかけてきた男と同一人物とは思えないほど、今は静かで、落ち着いている。
「村長から話は聞いた。俺はガルドだ。あんたの腕は昨日見たが、狩りはモンスターを倒すのとは少し違う。まずは、基本から覚えてもらう」
「ああ、頼む」
「剣じゃあ、獲物に気づかれて逃げられちまう。これを使え」
ガルドが差し出してきたのは、硬質な木を削り出して作られた、一張りの弓だった。彼が使っているものよりは一回り小さいが、それでもずしりとした重みがある。猟師の予備の弓だという。
「꽤重い弓だ。引くのにゃあ、それなりの腕力がいるが……」
ガルドが言い終わる前に、明は弦を掴み、軽く引いてみせた。
ぎりり、と弓が満月のようにしなり、弦が明の頬に触れる。ガルドが目を見開いた。
「……なんてこった。それを、そんな軽々と引く奴は初めて見たぜ」
「こんなものじゃないのか?」
「普通は、全身の力を使ってようやく引ける代物だ。……あんた、やっぱり只者じゃねえな」
ガルドは呆れたように言うと、矢の筒を明に渡し、森へと歩き出した。
午前中は、ひたすら手ほどきに費やされた。
ガルドは口数こそ少なかったが、教え方は丁寧だった。地面に残された獣の足跡の見分け方、枝の折れ方から獲物の通った方向を読む方法、そして、森の音に耳を澄まし、獲物の気配を探る術。
明は、その一つひとつを驚異的な速さで吸収していった。彼自身は気づいていなかったが、常に発動しているパッシブスキル『気配察知』が、ガルドの教えを直感的に理解する助けとなっているのだ。ガルドが「この辺りにいるはずだ」と指さす前に、明の意識はすでにその方向へ向いていた。
昼を過ぎ、陽が中天に差し掛かった頃、ようやく実戦となった。
「……いる」
ガルドが、ふと足を止めて囁いた。その視線の先、木々の合間に、丸々と肥えた山鳥が二羽、地面をついばんでいる。
「やってみろ」
明は頷き、静かに矢をつがえた。弓を引き絞り、狙いを定める。
ひゅっ、と風を切って放たれた矢は、寸分の狂いもなく一羽の山鳥の首を貫いた。もう一羽が驚いて飛び立とうとした瞬間、ガルドの放った矢が、その胸を正確に射抜く。
二羽の山鳥は、ほとんど同時に地面に落ちた。
ガルドはすぐさま駆け寄ると、まだ微かに動いている鳥の首を掴み、手にした小刀で手際よく頸動脈を切り裂いた。
「こうやって、すぐに血を抜く。これをやらねえと、肉がまずくなるんでな」
その日の午後、彼らはさらに一匹の野兎を仕留めた。
今度は、明が仕留めた獲物だった。茂みの中を素早く駆け抜ける兎を、明はほとんど無意識のうちに射抜いていた。
「よし、アキラさん。今度はあんたがやってみろ」
ガルドに促され、明は野兎の骸と小刀を手に取った。先ほど見たガルドの手順を思い出し、兎の首筋に刃を当てる。
だが、生き物の頸動脈を切るという行為は、彼の倫理観に微かな抵抗を生じさせた。その一瞬の躊躇いが、手元を狂わせる。
「……うわっ!」
刃がずれたことで、動脈から血が噴水のように噴き出し、明の衣服と顔にべっとりと付着した。温かい、生々しい液体。慌てて押さえようとするが、すでに手遅れだった。
「……へへ、まあ、最初はそんなもんだ」
ガルドは苦笑すると、手早く残りの処理を済ませた。
「だが、今日はもうおしまいだ。これだけ血の匂いをさせちゃあ、獲物は寄り付かねえ。それどころか、面倒な奴らを引き寄せちまう」
村への帰り道、ガルドは何度も感心したように唸った。
「それにしても、大したもんだ。弓を引くのも、獲物を見つけるのも、まるで十年やってるベテランみてえだ。この調子じゃ、俺なんざあっという間に追い抜かれちまうな。あんたがこの村に来てくれて、本当に良かった」
その言葉に、明はうまく返すことができなかった。
ただ、血の匂いが染みついた自分の手を見つめながら、この世界が、また一つ、自分を塗り替えていくのを感じていた。




