4章10節「雪中の奇襲」
先の戦いから、二週間が過ぎた。
グローマルク平野は、本格的な冬の訪れを前に、静まり返っていた。
大地はすでに厚い雪に覆われ、両軍の睨み合いも、その厳しさの中で一時的な休戦期間に入ったかのように見えた。
その日の昼過ぎ、サムが黒鉄砦の司令部からキャンプへと戻ってきた。
彼は、三日に一度のペースで司令官との会合を持っている。
その顔には、いつものような疲労の色ではなく、うっすらと、しかし獰猛な笑みが浮かんでいた。
「―――仕事だ。古参の三十名と、ビョルンを含む腕利きの新入りを十名、すぐに集めろ」
サムの言葉に、キャンプの空気が静かに引き締まる。
選抜された四十名を前に、サムは一枚の地図を広げた。
そこに示されていたのは、狼爪砦からさらに西方へ離れた、マラッカ大国領内にある、小さな砦だった。
「この砦を、今から強襲する」
「……この冬に、ですか?」
思わず、ビョルンが問い返した。
「雪がこれだけ積もれば、大規模な軍事行動は不可能だと、そう思っていました」
「ああ、そうだ。そして、敵もそう思っている」
サムは、にやりと笑った。
「だからこそ、やるんだ。冬の間も、決して安心はできないと、奴らの骨の髄まで教え込んでやる。これは、王国軍からの、直接の依頼だ」
サムは、言葉を続けた。
この作戦は、単なる嫌がらせではない。
かつて、傭兵団「黒い剣」は、このような一点突破の速攻を得意としていた。
だが、先の敗戦で、その能力に疑問符がついている。
これは、再建された新生「黒い剣」に、以前と同様の作戦遂行能力が残っているのかを、王国軍が試している、一種の試験でもあった。
その重要な作戦に、新入りである自分が選ばれた。
その事実に、ビョルンの心に、かすかな、しかし確かな高揚感が芽生えていた。
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準備は、手早く進められた。
彼らは、雪山での活動に備え、白い布をマントの上から羽織り、雪中行軍用の履物を身につける。
食料は、最低限の携行食のみ。
速さが、この作戦の全てだった。
昼過ぎ、準備を整えた四十名の精鋭は、誰に見送られるでもなく、静かに出撃した。
目指すは、敵地へと続く、嘆きの森。
森の入り口で、サムは一度だけ足を止めた。
彼は、襟元からそっとガラスの鈴を取り出すと、その冷たい表面に一度だけ口づけをした。
鈴が微かな光を放ち、団員たちの姿が、雪景色の中に溶けるように揺らいだ。
雪中の行軍は、過酷を極めた。
足は雪に取られ、体温は容赦なく奪われていく。
だが、そこに、かつての行軍で見られたような、弱音を吐く新入りは一人もいなかった。
先の戦いと、サムによる過酷な訓練が、彼らを本当の意味での「兵士」に変えていた。
長い、長い行軍の末、一行は音もなく森を抜け、敵国の領内へと侵入した。
そして、夜半。
月明かりが、雪原を青白く照らし出す中、彼らは目的の砦へと、静かに近づいていた。
木造の、小さな砦。
見張り台には、寒さで凍える兵士の姿が、二人だけ。
完全に、油断しきっている。
サムは、無言で、手信号を送った。
「―――突入する」
その合図と共に、四十の白い亡霊たちが、音もなく、雪原を滑るように駆け出した。
「―――今だ! 撃ち込め!」
サムの手信号を合図に、部隊に同行していた三人の魔法使いが、同時に詠唱を完了した。
<<ファイヤーボール>>。
三つの灼熱の火球が、夜の闇を引き裂き、砦の入り口である木造の門に、寸分の狂いもなく直撃した。
轟音。
頑丈だったはずの門は、その爆発的な威力に耐えきれず、閂ごと吹き飛ばされ、内側へと派手に倒れ込む。
「突撃ぃぃぃっ!」
サムの咆哮が、雪原に響き渡った。
門の破壊によって、砦の中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。
眠りこけていた兵士たちが、慌てて武器を手に、兵舎から飛び出してくる。
その、陣形も整わぬ混乱の只中へ、「黒い剣」の団員たちは、雪崩を打って突撃した。
守備側が持つ、防衛施設のアドバンテージを、完全に無効化するためだ。
サムを先頭に、ビョルンたち精鋭が、敵兵の中へと斬り込んでいく。
「怯むな! 押し返せ!」
敵の指揮官らしき男が叫ぶ。
兵士たちは、机や樽、木箱といった手近にあるもの全てを使い、即席のバリケードを築いて抵抗を試みる。
だが、その貧弱な防壁は、「黒い剣」の猛攻の前には、何の役にも立たなかった。
「―――邪魔だ!」
その中でも、ビョルンの動きは、異質だった。
彼は、バリケードを意にも介さず、その上を飛び越え、あるいは体当たりで粉砕し、敵陣の奥深くへと、ただ一人、突出していく。
その速度は、もはや常人のものではない。
金等級の冒険者として培われた彼の戦闘能力は、この北の辺境の兵士たちにとっては、理解不能な脅威そのものだった。
彼は、阿修羅のごとく、敵兵の間を駆け抜ける。
剣が閃くたびに血飛沫が上がり、悲鳴を上げる間もなく兵士たちが崩れ落ちていく。
「おい、ビョルン! 無茶はすんなよ!」
追い越しざまに聞こえたサムの忠告も、もはや彼の耳には届いていない。
ビョルンが、その圧倒的な力で敵の陣形に風穴を開け、サム率いる古参の団員たちが、その穴を容赦なく抉り広げていく。
やがて、ビョルンは、この砦の司令部と思しき、一番大きな建物の前にたどり着いた。
そこから、ひときわ立派な鎧を身に着けた、屈強な戦士が、剣を抜いて躍り出てくる。
この砦の司令官だろう。
「化け物め!」
司令官は、雄叫びを上げてビョルンに斬りかかった。
その剣筋は、これまで相手にしてきた雑兵たちとは比較にならないほど、鋭く、そして重い。
だが。
ビョルンは、その渾身の一撃を、まるで子供の遊びでもあしらうかのように、片手で受け流した。
そして、体勢を崩した司令官のがら空きになった喉元へ、何の感情も見せずに、そのバスターソードを深々と突き立てた。
男は、信じられないといった顔で自らの喉を見下ろし、血の泡を吹きながら、ゆっくりと膝から崩れ落ちていった。
司令官を討ち取ったビョルンの背後で、サムの野太い声が響き渡った。
「首だ! 敵将の首を、はねろ!」
サムは、崩れ落ちた司令官の亡骸から、その首を無造作に切り離すと、血の滴るそれを髪の毛を掴んで掲げ、砦の壁の上へと駆け上がった。
そして、松明の光に照らされたその首を、砦の内外にいる全ての兵士に見せつけるように、高々と掲げた。
「敵将、サム・ザ・グレートが討ち取った! 降伏する者にあえて刃は向けん! 武器を捨てい!」
その、実質的な勝ち名乗り。
司令官を失い、混乱の極みにあった砦の兵士たちにとって、それは戦意を完全に喪失させる、決定的な一撃だった。
「た、退却だ!」
「もうおしまいだ!」
誰かがそう叫ぶのを合図に、わずかに残って抵抗していた敵兵たちは、我先にと武器を投げ捨て、砦の裏門から逃げ出していく。
「追うな! 深追いは禁物だ!」
サムは、事前に厳命していた通り、逃げる兵士たちを追撃することを禁じた。
その号令を合図に、生き残った「黒い剣」の団員たちは、雄叫びを上げながら、砦の中へと雪崩れ込んでいった。
「野郎ども、漁れ! 持てるだけ持って行け!」
そこからは、手慣れた作業だった。
古参も新入りもなく、団員たちはそれぞれの獲物を求めて、兵舎や倉庫に散っていく。
食料、酒、武具、そして、わずかな金目のもの。
それは、この危険な任務を生き延びた彼らに与えられた、正当な役得だった。
ビョルンは、そんな彼らの姿を、ただ冷めた目で見つめていた。
彼にとって、略奪などという行為に、興味はなかった。
一方、サムは、司令官がいたであろう建物の中を、丹念に物色していた。
彼が探しているのは、金品ではない。
地図や、命令書といった、敵の軍事行動に関する「情報」だ。
それこそが、次の戦いを有利に進めるための、何物にも代えがたい戦利品であることを、彼は知っていた。
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やがて、ある程度の物資をかき集め終えると、サムは再び号令をかけた。
「てめえら、いつまでも漁ってんじゃねえ! 敵の援軍が来る前に、とっととずらかるぞ!」
団員たちは、背負えるだけの戦利品を担ぎ、砦に火を放つと、一斉に嘆きの森へと駆け込んでいった。
夜の闇の中、燃え盛る砦の赤い光が、彼らの背中を、いつまでも照らし続けていた。
駐屯地へと無事に帰還した時、損害は、驚くほど軽微だった。
戦死したのは、乱戦の中で運悪く致命傷を負った、二人の新人のみ。
残りの者たちも、かすり傷程度の軽傷で済んでいた。
こうして、傭兵団「黒い剣」は、その健在ぶりを、王国軍と、そして敵国マラッカ大国に、大いに見せつけた。




