4章9節「グローマルク平野にて、鉄と血の一日」
先の兵站村襲撃から、一週間が過ぎた頃だった。
北の空から舞い始めた雪が、灰色のグローマルク平野を、薄っすらと白く染め上げていた。
それは、この長い戦争の季節が、間もなく終わりを告げる合図でもあった。
だが、その日、黒鉄砦の物見櫓から、緊急を告げる角笛の音が、けたたましく鳴り響いた。
「―――敵襲! マラッカの大軍だ!」
その報は、瞬く間に前線基地を駆け巡った。
一万を超える、マラッカ大国軍。
騎馬の民である彼らが、本格的な冬を前に、最後の攻勢を仕掛けてきたのだ。
馬が、その俊敏さを雪に奪われる、ぎりぎりの時期を狙って。
「野郎ども、出撃準備だ!」
招集を受けたサムは、キャンプ中に檄を飛ばすと、すぐさま馬に飛び乗り、黒鉄砦の司令部へと駆け込んでいった。
ビョルンもまた、他の団員たちと共に、黙々と戦支度を整える。
テントの外では、女子供たちが、男たちの鎧の紐を結び、武具を手渡していた。
その、あまりに手慣れた光景に、戦争が彼らの日常の一部であることを、ビョルンは改めて実感していた。
やがて、サムが司令部から戻ってきた。
その顔には、うっすらと、しかし獰猛な笑みが浮かんでいた。
「作戦は決まった。王国軍は、横隊を組んで敵の突撃を受け止め、両翼から包囲する、鶴翼の陣を敷く。
俺たち『黒い剣』は、右翼の一部に組み込まれる。敵の動きに合わせて、側面を突くぞ」
ロキア王国軍、傭兵団を併せて、その数はおよそ二万。
数の上では、こちらが優位に立っている。
だが、誰もが知っていた。マラッカの騎馬隊が持つ、常軌を逸した突破力の恐ろしさを。
□■□■□■
薄く雪化粧したグローマルク平野は、静まり返っていた。
両軍の間には、ただ広大な白銀の世界が広がっている。
地平線の彼方から、マラッカの軍勢が、黒い津波のように押し寄せてくる。
やがて、両軍が矢の射程圏内に入った、その瞬間――。
マラッカ軍から、鬨の声と共に、無数の矢が放たれた。
空が、黒く染まる。
「盾を構えろ!」
誰かの絶叫を合図に、ロキア軍の兵士たちが、一斉に盾を頭上に掲げた。
矢が、まるで豪雨のように降り注ぎ、盾を打つ硬い音と、盾の隙間から抜けた矢に射抜かれた運の悪い者たちの、短い悲鳴が響き渡る。
そして、その矢の雨の向こうから、大地を揺るがす、凄まじい馬蹄の響きが迫ってきた。
マラッカ軍の騎馬隊は、王国軍の中央の左翼寄りへと、その狙いを定めていた。
「右翼、前へ! 駆け足!」
号令一下、「黒い剣」を含む右翼部隊が、一斉に駆け出した。
敵の側面を突き、包囲網を完成させるための、重要な動きだ。
サムもまた、「黒い剣」の先頭を駆けている。
だが、その速度は、全力というには程遠い。
彼は、中央の戦況を冷静に見極めながら、部隊の足並みをコントロールしていた。
その、中央部。
マラッカ騎馬隊の圧倒的な突進力は、王国軍の第一陣を、まるで紙でも破るかのように、いとも容易く食い破った。
続く第二陣もまた、その勢いを止めることができず、瞬く間に蹂躙されていく。
今、第三陣が、必死の形相でその猛攻を支えていた。
だが、その戦線も、いつ崩壊してもおかしくないほどに、激しく揺らいでいる。
大地が、震えていた。
マラッカ大国が誇る騎馬隊の突撃は、もはや単なる人の集まりではなかった。
それは、全てを飲み込み、砕き尽くす、黒い鉄の津波。
その津波が今、ロキア王国軍の中央へと、牙を剥いて殺到していた。
だが、王国軍の中央陣もまた、ただの人の壁ではなかった。
「第一陣、構え!」
指揮官の檄が飛ぶ。
最前線に立つ重装歩兵たちが、巨大な盾を地面に突き立て、その隙間から寸分の狂いもなく槍を突き出す。
密集陣形。
それは、この国が二十年にも及ぶ戦いの中で磨き上げてきた、対騎馬隊戦術の極致だった。
彼らの役割は、勝つことではない。
ただ、耐えること。
敵の猛攻をその身に受け止め、その足を止める、巨大な鉄床となることだった。
轟音。
黒い鉄槌が、白い鉄床へと叩きつけられた。
馬のいななき、男たちの絶叫。
そして、肉を貫き、骨を砕く、おびただしい数の鈍い音。
戦場の中央は、一瞬にして、巨大な肉挽き器へと変貌した。
マラッカの騎馬隊は、その圧倒的な突進力で、ロキア軍の第一陣をこじ開けようとする。
だが、ロキアの兵士たちもまた、死を覚悟した抵抗を見せた。
一人倒れれば、その後ろから二人がその穴を埋める。
盾は砕け、槍は折れ、仲間たちの亡骸が足元に積み上がっていく。
それでも、彼らは一歩も引かなかった。
「まだだ! まだ右翼は敵の側面に到達していない!」
後方で指揮を執る将軍が、絶叫する。
ビョルンは、ただ無感情な瞳で、その地獄を横目に見ながら、雪に覆われた平野を走り続けていた。
耳に届く、遠い仲間たちの断末魔の悲鳴。
鼻腔を突く、焼けた肉と血の匂い。
その全てが、彼の心を少しも揺さぶらなかった。
彼は、ただ、サムの背中だけを見つめ、白い息を吐き出しながら、ひたすらに足を前に運ぶ。
彼ら右翼部隊の役割は、中央が敵を食い止めている、まさにその間に、大きく迂回し、敵騎馬隊の側面を包み込む、鶴翼の片翼となることだった。
「遅れるな! 中央が、いつまでもつか分からんぞ!」
サムが、檄を飛ばす。
右翼部隊の誰もが焦っていた。
自分たちが敵の側面に到達する前に、中央が完全に崩壊してしまえば、この鶴翼の陣はただの無謀な突出となり、自分たちが逆に包囲殲滅されることになる。
その時だった。
膠着していた中央の戦線が、ついに動いた。
マラッカ騎馬隊の一部が、王国軍の第二陣をも突破し、第三陣へと食い込み始めたのだ。
「―――まずい!」
右翼部隊を率いる指揮官が、絶叫した。
もはや、完璧な包囲を形成している時間はない。
「側面を突け! 今だ、突撃ぃぃぃっ!」
その号令を合図に、これまでひた走りに走ってきた右翼部隊が、一斉にその進路を中央へと変えた。
「黒い剣」もまた、その流れに乗り、今やがら空きとなった、マラッカ大国軍の側面へと雪崩れ込んでいった。
ビョルンは、ただ、静かに、その鉄の奔流の一角を担っていた。
号令一下、これまでひた走りに走ってきた右翼部隊が、ついに敵の側面を包むように到達した。
鉄槌のように、マラッカ大国軍の側面へと叩きつけられる、ロキア王国の鉄の奔流。
その一角を担い、「黒い剣」もまた、雪崩れ込むように乱戦へと突入した。
ビョルンは、初めて、本当の意味での「合戦」を経験していた。
それは、これまで彼が経験してきた、少数対少数の戦闘とは全く異質のものだった。
四方八方から、怒声と悲鳴が聞こえる。
味方の槍が、すぐ隣で敵兵の喉を貫き、その返り血が自分の顔にかかる。
馬が嘶き、剣と剣がぶつかり合う甲高い音が、鼓膜を絶え間なく震わせた。
彼の心は、焦燥と、そして奇妙な高揚感で、激しく昂っていた。
これまでの戦いのように、個の力だけで全てを支配することはできない。
ここでは、集団の一部として、流れを読み、仲間と呼吸を合わせなければ、一瞬で死ぬ。
「遅れるな! 俺に続け!」
サムの声が、すぐ近くで響く。
ビョルンは、思考を切り替え、ただ、目の前に現れる敵を排除しながら、サムの背中を追うことに集中した。
□■□■□■
その頃、戦場の中央では、凄まじい消耗戦が繰り広げられていた。
ロキア王国軍の第三陣は、マラッカ騎馬隊の猛攻の前に、ついに崩壊。
後退する兵士たちの隙間を、騎馬隊がこじ開けていく。
だが、その後方では、第四陣がすでに鉄壁の陣形を組み直し、その突撃を正面から受け止めていた。
一進一退の攻防。
そして、王国軍の左翼もまた、大きく前進し、マラッカ軍を完全に包み込む、鶴翼の陣が完成しようとしていた。
その時だった。
あれほど猛威を振るっていたマラッカの騎馬隊の動きが、不意に変わった。
彼らは、もはや前進しようとはしていなかった。
先頭にいた部隊が、まるで一つの生き物であるかのように、鮮やかに方向転換を始める。
そして、包囲を完成させようと前進していた王国軍の左翼の、その側面へと、新たな鉄槌として突撃したのだ。
左翼の兵士たちは、側面からの予期せぬ突撃に、なすすべもなく陣形を食い破られていく。
マラッカの騎馬隊は、その圧倒的な機動力を誇示するかのように、王国軍の陣形に新たな血の道を作り上げると、そのまま戦場を離脱していった。
「―――退く気だ! 逃がすな!」
王国軍の指揮官の一人が叫ぶ。
だが、その声は虚しかった。
一度勢いをつけた騎馬の民を、足の遅い重装歩兵が捕えるはずもない。
彼らは、まるで潮が引くかのように、あっという間に戦場からその姿を消していった。
わずか半日にも満たない戦いだった。
だが、雪に覆われたグローマルク平野には、おびただしい数の亡骸と、夥しい量の血が、赤黒い染みとなって残されていた。
□■□■□■
その日の夜、駐屯地に戻ったビョルンは、サムに呼び出された。
「……今日の戦、どうだった」
「……よく、分かりません」
それが、ビョルンの正直な感想だった。
「はっ、だろうな。あれは、戦争というよりは、ただのでかい小競り合いだ」
サムは、エールを呷りながら、今日の戦いの背景を、ビョルンに語って聞かせた。
「俺たちが、この前の任務であいつらの集積村を焼いただろ。あれが、思った以上に効いたらしい。
マラッカの連中は、この冬、大規模な軍事行動を起こすことができなくなった。
だが、やられっぱなしで黙っているわけにもいかねえ。
だから、一発殴り返しに来たってわけだ」
「……威力偵察、のようなものですか」
「ああ、そんなとこだ。冬が来ちまえば、どのみち長居はできねえ。
それを分かってるから、こっちも深追いはしねえ。
その上で、あいつらは一撃だけくれてやり、俺たちはそれを防いだ。
それだけのことさ」
サムが、なぜ今日の戦いで積極的に軍功を上げに行かなかったのか、ビョルンはそれで理解した。
彼にとって、今日の戦いは、ただ契約書に書かれた義務をこなし、約束された報酬を受け取るための、一つの「仕事」でしかなかったのだ。
「……勉強に、なります」
「ま、ゆっくり覚えていきな。ここは、そういう場所だ」
サムはそう言うと、ビョルンの肩を、無骨な手で、一度だけ力強く叩いた。




