4章6節「黒い剣、その始まり」
その頃、自由都市グレンガルドからほど近い場所に張られたキャンプでは、傭兵団「黒い剣」が、その存亡の危機に瀕していた。
傭兵団は、街の中には入らず、近くにキャンプを張って拠点とするのがしきたりだ。そこから交代で街へ繰り出し、つかの間の休息を楽しむ。
だが、今の「黒い剣」のキャンプに、そんな活気はなかった。
先の戦での壊滅的な敗戦。団の再建か、遺族への弔慰金か。苦渋の選択の末、団長のサムは、生き残った幹部や、戦死した仲間たちの妻たちを集め、頭を下げた。
弔慰金の一部の支払いを待ってもらい、その資金を団の再建のために使わせてほしい、と。
遺族たちは、それを受け入れた。団員とその家族は、一つの大きな家族のようなものだった。
彼女たちは、団という生活の基盤がなくなれば、自分たちの未来がどうなるか、痛いほど理解していたのだ。この厳しい北部で、後ろ盾のない寡婦や孤児が、どのような悲惨な末路を辿るか、嫌というほど見てきた。
その約束を背負い、サムはグレンガルドの街にいた。
冬が来る前に、もう一度だけ、危険な賭けに出なければならない。
そのためには、戦闘員の補充が急務だった。
彼は、ギルドに大量の募集依頼を出し、自らも酒場を巡って、腕利きの者を探し回っていた。
一方、ビョルン(アキラ)は、グレンガルドの傭兵ギルドの前に立っていた。
王都のそれとは全く違う、血と汗と鉄の匂いが染みついたような、荒々しい建物。
彼は、アントンから渡された、ドランメンの裏社会の顔役からの紹介状を握りしめ、中へと足を踏み入れた。
ギルドの内部は、昼間だというのに薄暗く、酒と怒声で満ちていた。
アントンの紹介状のおかげか、彼の傭兵としての登録は、驚くほどあっさりと完了した。
登録を終えた彼が、巨大な掲示板に張り出された羊皮紙を眺める。
魔法使いの募集、実績のある者の募集。様々な条件と、それに見合った賃金。
偽の身分証しか持たないビョルンには、縁のない話だった。
彼が条件の少ない単純な募集依頼を探していると、受付カウンターの中から、ごつい声が飛んできた。
「おい、あんた。仕事探しか?」
そこにいたのは、元傭兵だという、熊のような体躯の男だった。このギルドの受付は、なぜか全員、こういういかつい男たちで固められている。
ビョルンが頷くと、男は彼が手にしているギルドからの紹介状を一瞥し、何かを納得したように言った。
「……なるほどな。なら、あそこがいいかもしれねえな。『黒い剣』だ」
男は、掲示板の一番下に張られた、みすぼらしい募集要項を指差した。
「誰でも採用に近い、ってくらい、今は人手に困ってる。もっとも、そいつは、この前の戦で、団が壊滅的な打撃を受けたからなんだがな。どうやら、起死回生をかけて、また何かでかい作戦に挑むつもりらしいぜ」
その言葉に、ビョルンの心は少しも揺れなかった。自暴自棄な彼にとって、所属する団がどのような状況であろうと、どうでもいいことだった。
「……面接を受けたい」
「おうよ」
受付の男は、手際よくギルドからの紹介状を書き上げると、サムが滞在しているという宿屋の場所を、ビョルンに教えた。
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面接は、宿屋の一室で行われた。
部屋の中央にどっしりと座る男、サム。
その身体には、無数の傷跡が刻まれ、その眼光は、鋭くビョルンの心の奥底まで見透かすようだった。
サムは、ビョルンの中に、二つの相反するものを感じ取っていた。
一つは、その汚れた衣服の下に隠された、底知れない力。
そしてもう一つは、その虚ろな瞳の奥に広がる、尋常ではない深い闇。
(……こいつ、完全に壊れてやがる。だが、使える)
サムは、ビョルンの話し方に、そこらのならず者にはない教養が滲み出ていることにも気づいていた。
だが、そんなことは些事だった。
とにかく、今の「黒い剣」には、戦える駒が必要なのだ。
「……採用だ」
サムは、短く告げた。
「俺たちのキャンプは、西の門を出た先にある。四日後の朝、そこへ来い。前線へ向けて出発する」
「……準備は」
「武器と、数日分の携行食。あとは、身の回りのものだけあればいい。食事や寝床は、団で用意する。支度金は、キャンプに集合してから渡す。金だけもらってずらかる奴が多いんでな」
その、あまりに実利的な言葉に、ビョルンはただ、静かに頷いた。
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その日の午後、ビョルンは、言われたものを揃えるために、街の市場を歩いていた。
彼は、まず鍛冶屋へ向かい、これまで愛用してきたバスターソードを研ぎに出した。
次に、干し肉と硬いパンを買い揃える。
それらを買い揃えても、彼が持っている金貨は、ほとんど減らなかった。
そんな彼の後を、いつの間にか、一人の女がつけてきていた。
「ねえ、お兄さん。一人かい? いい夜を、過ごさないかい?」
しつこく、媚びるような声。ビョルンは、それを無視して歩き続けた。
だが、女は諦めない。
その時、彼の脳裏に、あの村で彼を誘った、遣り手婆の姿が重なった。
(……どうでも、いい)
彼は、足を止めた。
だが、結果は、あの夜と同じだった。
女の肌に触れた瞬間、彼の脳裏に、血の海と、エルの姿がフラッシュバックする。
彼の身体は、完全に機能を停止した。
「……あんた」
女は、そんな彼を、ただ静かに、哀れむような目で見つめていた。
ビョルンは、金だけを支払うと、何も言わずにその部屋を後にした。
彼の心は、もはや何も感じていなかった。
ただ、これからのことを、ぼんやりと考えていた。
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約束の日、ビョルンは夜明けと共に、グレンガルドの西門の外れにあるという傭兵団「黒い剣」の集合場所へと向かった。
そこに広がっていたのは、意外なほど整然とした、しかし異様な空気を放つキャンプだった。
焚き火の煙が立ち上り、総勢七十名ほどの男たちと、彼らに寄り添う多くの女子供たちが、それぞれの時間を過ごしている。
ビョルンは、一目で二つの集団の違いを理解した。
片や、数は少ないが、歴戦の雰囲気を漂わせる古参の団員たち。
彼らは、黙々と武具の手入れをしたり、作戦の確認をしたりと、その動きには無駄がない。
片や、今回急遽かき集められたのであろう、見るからに素行の悪い新入りの傭兵たち。
彼らは、大声で怒鳴り合ったり、女たちに卑猥な冗談を飛ばしたりと、その統率の取れていない様は、まるで野盗の集まりだった。
(……こいつらと、戦うのか)
心を失ったはずのビョルンですら、その光景には、思わず気が重くなった。
やがて、サムが姿を現し、野太い声で号令をかけた。
「野郎ども、出発だ! 前線まで、一週間の地獄の行軍が始まる。覚悟しとけ!」
一行は、大量の食料や物資を荷馬車に積み、黒鉄砦のそばにあるという、団の本来の駐屯地へと向かった。
その行軍は、サムの言葉通り、地獄だった。
それは、新入団員たちを、使える駒へと強制的に叩き上げるための、過酷な訓練の場でもあったのだ。
サムは、容赦なく彼らを扱き使った。
重い荷物を背負わされ、慣れない集団行動を強いられた新入りたちは、早くも落伍しかける者が続出する。
しかし、サムは一切の脱落を許さず、古参の団員たちが、手にした樫の棒で、遅れる者の背中や尻を、容赦なく殴りつけた。
この程度の行軍、アキラ(ビョルン)にとっては、何の苦にもならなかった。
彼は、ただ黙々と歩きながら、どやしつけられている情けない新入りたちの姿を、冷ややかな目で見つめているだけだった。
夜、キャンプを張って食事をとっていると、一人の新入りが、馴れ馴れしくビョルンに話しかけてきた。
「よお、あんた。見ねえ顔だな。俺と同じ、新入りか? 俺はもう、こういう生活は慣れっこでな。前の街で、ちっとばかし派手にやりすぎてよ。ほとぼりが冷めるまで、ここに身を隠すのさ」
男は、自分がこれまでに犯してきた殺人の武勇伝を、自慢げに語り始めた。
ビョルンは、相槌も打たず、ただ無言で食事を続けた。
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数日が過ぎた、ある日のことだった。
数人の新入りが、この過酷なしごきに耐えかねて、反乱を起こした。
しかし、その貧弱な反乱は、サムと数人の古参兵によって、あっさりと鎮圧されてしまった。
そして、サムは生き残った全員の前で、見せしめを行った。
首謀者の一人――普段から、攫ってきた女をいたぶるのが堪らないと嘯いていた男――を、全員の前に引きずり出す。
「……団の規律を乱す者は、こうなる。よく見ておけ」
サムは、そう言うと、何の躊躇もなく、その巨大な戦斧を振り下ろした。
男の首が、ごとり、と地面に落ちる。
その、あまりに冷徹な粛清を目の当たりにしてから、新入りたちの間の空気は一変し、彼らは羊のように従順になった。
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一週間の行軍の末、一行は黒鉄砦のそばにある、「黒い剣」の本来のキャンプへと到着した。
そこには、先の戦いで重傷を負った男たちや、さらに多くの女子供たちが、彼らの帰りを待っていた。
サムは、団員たちに後片付けを命じると、一人、黒鉄砦の王国軍司令部へ、帰還の報告へと向かうのだった。
ビョルンは、そんなキャンプの喧騒を、ただ、どこか遠い世界の出来事のように、無感情に眺めていた。




