4章5節「血煙の果て、グレンガルドへ」
あの夜から、十日が過ぎた。
ビョルン(アキラ)は、変わらず北を目指して歩き続けていた。身体の傷は癒えても、心の傷が癒えることはない。
だが、あの夜を境に、彼の悪夢は、少しだけその激しさを和らげていた。
人の温もりに触れたからではない。
ただ、自らがもはや人間としての機能を失ったのだという、絶対的な諦観が、彼の心を麻痺させていただけだった。
□■□■□■
その日、彼は追手から逃れるためというよりは、ただ人目を避けるために、主要な街道を外れ、寂れた脇道へと入っていた。
山間の細い獣道を歩いていると、ふと、彼の目に一頭の立派な鹿の姿が映った。
彼は、狩人としての本能に導かれるまま、その獲物を追って、知らず知らずのうちに山の林深くまで分け入っていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
街道から相当離れてしまった頃、鹿の姿を見失い、遠くから複数の男たちの声が聞こえてきた。
彼は、音もなく、その発生源へと近づいていった。
風に乗って、焚き火の煙の匂いが鼻をつく。
山肌に、ぽっかりと口を開けた洞窟。
その前の小さな広場で、十数名の野盗たちが、楽しげに語らいながら、酒を酌み交わしている。彼らの塒だ。
その中心に、一人の女がいた。
年の頃は、エルと同じくらいだろうか。髪の色も、肌の色も、全く違う。
だが、その姿は、彼の脳裏に、ある記憶を呼び覚ました。
汚れた革袋を手に、男たちの杯に、震える手で酒を注いで回っている。
男たちの下卑た笑い声と、時折彼女の尻を撫でる、汚らわしい手。
そのたびに、彼女の身体がびくりと震え、その瞳が恐怖に怯えるのを、ビョルンは見ていた。
(……エル……)
違う。別人だ。
だが、その状況が、男たちに囲まれて怯える、か弱い女の姿が、彼がその手で殺めた妻の、最後の夜の姿と、重なって見えた。
ぷつり、と。
彼の頭の中で、何かが切れた。
彼は、何の感情も見せず、ただ、風のように、音もなく、その宴の中心へと忍び寄った。
「ん? なんだ、お前」
最初に気づいたのは、見張りをしていたのであろう、一番近くにいた男だった。
彼は、無造作に近づいてくるビョルンを、簡単な獲物だと判断し、面倒くさそうに腰の斧に手をかけた。
だが、その手が斧の柄に届くよりも、ビョルンの剣が男の喉を切り裂く方が、わずかに速かった。
男は、声を発する間もなく、血の泡を吹きながら崩れ落ちる。
「なっ!?」
二人目の男が、驚愕に目を見開き、剣を抜いた。
だが、ビョルンは、今しがた切り伏せたばかりの男の亡骸を蹴り飛ばし、その勢いで体勢を崩した二人目の男の懐へと、一瞬で潜り込む。
短い呻き声。
男は、自らの胸から突き出た剣の切っ先を、信じられないといった顔で見下ろしていた。
三人目の男は、その異様な光景に恐怖し、仲間たちに警告を発しようと、口を大きく開いた。
しかし、その口から声が発せられる前に、どこからともなく飛んできた投げナイフが、その喉に深々と突き刺さっていた。
そこからは、もはや戦闘ではなかった。
ただの一方的な、虐殺だった。
ビョルンは、舞うように、しかしどこまでも冷徹に、混乱する野盗たちの間を駆け抜ける。
彼の剣が閃くたびに、血飛沫が上がり、一人、また一人と、命が刈り取られていく。
その動きには、怒りも、憎しみも、何の感情もなかった。
それは、目の前の脅威を仕留めるという、単なる作業であった。
そこからは、もはや戦闘ではなかった。
ただの一方的な、虐殺だった。
ビョルンは、舞うように、しかしどこまでも冷徹に、混乱する野盗たちの間を駆け抜ける。
彼の剣が閃くたびに、血飛沫が上がり、一人、また一人と、命が刈り取られていく。
その動きには、怒りも、憎しみも、何の感情もなかった。
それは、目の前の脅威を仕留めるという、単なる作業であった。
野盗たちは、自分たちが相手にしているものが、ただの人間ではないことに、ようやく気づき始めた。
「ひ、ひいっ!」
一人が、恐怖に武器を投げ出し、背を向けて逃げ出そうとする。
だが、その背中に、ビョルンの投げたナイフが、深々と突き刺さった。
仲間たちの亡骸が、次々と足元に転がっていく。
残された者たちの顔から、血の気が失われていく。
彼らは、もはや戦士ではなく、ただの獲物だった。
ビョルンは、そんな彼らの絶望を、何の感慨もなく見下ろしていた。
やがて、残ったのは最後の一人になった。
男は、震える足で後ずさりながら、武器を投げ捨て、地面に膝をついた。
「た、助けてくれ! 命だけは! 何でもする! 金も、女も、全部やるから!」
その、あまりに無様な命乞い。
ビョルンは、ただ無言で、男の前へと歩み寄ると、その眉間に、剣の切っ先を、無造作に突き立てた。
男の目が、驚愕に見開かれ、そして、その光が永遠に失われた。
やがて、最後の野盗が倒れた時、そこには静寂と、鉄錆の匂いだけが残されていた。
ビョルンは、息を切らした様子もなく、ただ静かに、骸の山を見下ろしていた。
そして、まるで何もなかったかのように、彼らの焚き火でまだ温かいままの肉を掴み、貪るように食らい始めた。
近くにあった酒瓶を掴み、その中身を呷る。
ふと、彼の視線が、洞窟の入り口で恐怖に震えている女へと向けられた。
女は、腰を抜かしたようにその場に座り込み、ただ震えている。
ビョルンは、食料と水を、骸の中から黙々と回収し終えると、その半分ほどを、女の前に無言で置いた。
そして、彼女には一瞥もくれず、再び自らの旅路へと戻っていった。
□■□■□■
彼の旅は、続いた。
そして、最初の雪がちらつきだした日のこと。
彼の目の前に、ついに、巨大な城壁がその姿を現した。
自由都市、グレンガルド。
その城壁は、王都スタヴァンゲルのような、白く輝く優雅なものではない。
北方の厳しい自然に晒され、黒ずんだ石材。無数の戦いの傷跡が刻まれた、あまりにも無骨な壁。
美しさのためではなく、ただ軍勢を砕くためだけに築かれた、圧倒的な存在感。
それは、都市というよりは、巨大な軍事要塞そのものだった。
そして、その壁に穿たれた巨大な門は、分厚い鉄で補強され、常に屈強な傭兵たちが物々しい雰囲気で警備にあたっていた。
ビョルンは、その門を、何の感情も見せずに、ただ静かに、くぐった。




