4章4節「過去に囚われて」
竜牙山脈の麓をなぞるように続く北の街道は、これまで旅してきた南の道とは全く違う顔をしていた。
季節は冬を間近に控え、標高が上がるにつれて、肌を刺す風はすでに冬の匂いを運んでいる。雪こそまだ降ってはいないが、朝晩の冷え込みは、焚き火の温もりですら完全に拭い去ることはできなかった。
そんな道を、ビョルンと名を変えたアキラは、一人、黙々と歩き続けていた。
食料や、矢筒の中の矢が尽きかけると、彼は街道沿いに点在する、寂れた村に立ち寄る必要があった。
その日、彼がたどり着いた村は、これまでのどの村よりも、荒々しい空気に満ちていた。自由都市グレンガルドへと続くこの補給路は、傭兵たちの往来が絶えない。
そのため、村の建物はほとんどが酒場か、武具屋か、そして宿屋だった。道の両脇には、屈強な傭兵たちが、昼間から酒を酌み交わし、喧嘩に明け暮れている。
ビョルンは、そんな喧騒を意にも介さず、村に三軒ある宿屋のうち、最も立派な構えの宿を選んだ。駆け出しの頃なら、迷わず一番安い雑魚寝の宿を選んだだろう。
だが、今の彼には、金よりも優先すべきものがあった。
(……ここなら、夜中に叫んでも、他の部屋には聞こえんだろう)
悪夢は、未だに彼を苛み続けていた。
宿に荷を解くと、彼は消耗品を補充するために、村の雑貨屋へと向かった。
「……これを」
彼は、カウンターの上に銀貨を数枚無作動に置くと、干し肉と、矢筒を指差した。
その、あまりにぞんざいな態度と、ぎらついた獣のような目に、店の主人は何も言わずに、黙って商品を差し出す。
そんな彼の姿を、店の隅から、老婆がじっと見つめていた。
宿屋への帰り道だった。
「お兄さん、いい身体してるねえ」
しわがれた声と共に、その老婆が、ぬらり、と彼の前に立ちはだかった。遣り手婆だ。
「戦で疲れてるんだろ? いい子がいるよ。今夜あたり、どうだい?」
「……いらん」
ビョルンは、一言だけ吐き捨てると、老婆の横を通り過ぎようとした。だが、彼女は食い下がった。
「そう言わずにさ。一人で寝る夜は、冷えるだろう? 温めてくれる子が、いるんだよ」
執拗に、まるで蝿のように付きまとってくる。元々、押しに弱いアキラの気質が、疲弊した精神の中で、不意に顔を覗かせた。
(……うるさい。どうでも、いい)
彼は、足を止めた。老婆は、それを得意げな笑みで受け取ると、彼の腕を掴み、村の裏路地へと引っ張っていった。
そこは、遊郭というにはあまりに粗末な、長屋のようなぼろい建物だった。
「前金で、銀貨二十枚だよ」
老婆は、彼の懐具合を見透かしたように、そう言った。ビョルンは、もはや抵抗する気力もなく、言われるがままに銀貨を支払った。
あてがわれたのは、若いとは言えない、三十代ほどの女だった。傭兵相手の仕事に慣れきった、どこか達観した、しかしそれでいてまだ女の艶やかさを失っていない、そんな目をした女だった。
様々な意味で、飢えていた。
ビョルンは、部屋に入るなり、獣のような獰猛さで、女をベッドへと押し倒した。だが、女はそれに驚くでもなく、ただ優しく、諭すように言った。
「もー、そんなに急かさなくても逃げないわよ。一晩中、一緒にいてあげるんだから、落ち着いて」
だが、その言葉は、もはや彼の耳には届いていなかった。
彼は、女の服を乱暴に剥ぎ取ると、その豊かな双丘を、鷲掴みにした。
その、指先に伝わる、温かく、柔らかな感触。
―――その瞬間、彼の頭の中で、全てが暗転した。
フラッシュバック。
血の海。汗と、媚薬の甘ったるい匂い。自分のベッドの上で、親友の身体の下で、恍惚とした嬌声を上げていた、エルの姿。
俺がいるのに。俺が、目の前にいるのに。
その白い肌。その柔らかな胸。
そこに、俺の剣が、突き立てられていく。
ごぷり、と。
生々しい音と共に、肉を断ち、骨を砕く感触。噴き出す、温かい血。
それでも、彼女の瞳は虚ろなまま、俺を見ようとはしない。
ただ、快楽の波の中で、喘ぎ続けている。
「……う、ぁああ……あああああっ!」
彼の身体が、機能を停止した。
心の奥底から、どうしようもない吐き気と、絶望がこみ上げてくる。
彼の心と身体は、もはや、女性そのものを受け入れることを、完全に拒絶していた。
「……あんた」
彼の異変に気づいた女は、嘲笑うでもなく、ただ静かに、震える彼の背中を優しくさすった。
「……疲れてるんだよ。たまには、そういう日もあるさ。……大丈夫よ。朝まで、そばにいてあげるから」
その温かい手に、ビョルンの張り詰めていた心の糸が、わずかに緩んだ。
彼は、その夜、久しぶりに悪夢を見ることなく、人の温もりを感じながら、少しだけ、眠ることができた。
男としての役目を果たせたわけではなかったが、久しぶりの安眠のおかげで、彼の顔には、この数ヶ月間見られなかった、わずかな生気が戻っていた。
翌朝、彼が自分の宿に戻ると、帳場の主人が、にやにやと笑いながら声をかけてきた。
「ゆうべは おたのしみでしたね。」




