4章4節 閑話休題2:『絶望の戦場』
嘆きの森の深い闇の中を、八十名もの大部隊が進んでいた。
だが、その行軍は不気味なほど静かだった。
団員たちの足音は枯れ葉に吸われ、時折枝が揺れる音だけが、彼らがそこにいることを示していた。
森を抜け、目的の村まであと半刻という平原に出た時、サムは一度だけ足を止めた。
彼は、襟元からそっとガラスの鈴を取り出すと、まるで愛しい者に触れるかのように、その冷たい表面に一度だけ口づけをした。
やがて、一行の目の前に、目的の村の、か細い灯りが見えてきた。
「よし。作戦通り、三方から一気に攻め込む! 速攻で方を付け、略奪後はすぐに撤退する! 行けぇ!」
サムの号令と共に、「黒い剣」の団員たちは、三つの部隊に分かれ、漆黒の闇の中を、音もなく村へと殺到した。
村へ突入した、まさにその瞬間。サムは、自らの過ちを悟った。
村からの反撃が、あまりにも手薄すぎるのだ。
数人の見張りが慌てて弓を射かけてくるが、その数も、練度も、兵站を守る兵士のそれではない。
まるで、素人のような抵抗。
(―――罠だ!)
サムがそう叫ぼうとした時には、すでに遅かった。
村の周囲、彼らが通り過ぎてきたはずの平原の暗闇から、松明の火が、一つ、また一つと、無数に灯されていく。
その光が照らし出したのは、槍衾を構え、弓を番えた、おびただしい数のマラッカ大国の兵士たちの姿だった。
彼らは、完全に包囲されていた。
あの商人からの情報は、彼らをこの殺戮の罠へと誘い込むための、巧妙な餌だったのだ。
「陣を組め! 囲まれるな!」
サムの絶叫が、夜の闇に木霊する。
だが、その声は、四方から放たれる矢の雨の音に、かき消された。
ヒュウ、ヒュウ、と空気を切り裂く音。
それは、すぐに肉を貫く鈍い音と、仲間たちの苦悶の声に変わった。
「ぐあっ!」
「うおっ!」
屈強な団員たちが、次々と血を吹いて倒れていく。
盾役の男たちが必死に大盾を構え、矢を防ごうとするが、その数はあまりにも多すぎた。
盾に突き刺さる矢の衝撃で体勢を崩したところへ、次の矢が容赦なく鎧の隙間を貫いていく。
「障壁を張れ!」
団に数人いる魔法使いが、防御魔法を詠唱する。
だが、彼らの前に現れたのは、マラッカ軍の戦闘魔導師団だった。
彼らが放つ《ファイヤーアロー》の斉射が、傭兵たちの張ったか細い障壁を、まるで紙のように焼き尽くし、貫いていく。
絶望的な状況の中、戦闘が開始された。
「怯むな! 敵は数だけだ! 突撃して、活路を開く!」
サムは、仲間たちを鼓舞し、自ら戦斧を振るって、迫りくる敵兵へと斬り込んだ。
団員たちもまた、その姿に勇気づけられ、死を覚悟した雄叫びを上げて、敵の壁へと突撃する。
そこからは、もはや戦闘ではなく、一方的な殺戮だった。
数で勝るマラッカの兵士たちは、分厚い壁となって、傭兵たちの突撃をいとも容易く受け止める。
剣と剣がぶつかり、肉を断つ生々しい音が、夜の森に響き渡る。
昨日まで、同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わしていた仲間たちの、断末魔の悲鳴が、サムの耳を切り裂いた。
「持ちこたえろ! 陣形を崩すな!」
サムは叫び続けた。
だが、その声も、もはや誰にも届いていないのかもしれない。
彼の視界の端で、十年近く背中を預け合ってきた戦友が、三本の槍に身体を貫かれ、信じられないといった顔で、ゆっくりと崩れ落ちていくのが見えた。
絶望が、戦場を支配していた。
四方から迫る、圧倒的な数の暴力。
その中で、傭兵団「黒い剣」の団員たちは、サムの必死の指揮のもと、円陣を組んで必死に防戦に努めていた。
だが、その陣形も、敵の猛攻の前に、じりじりと削られていく。
サムの鼓舞する声も、もはや仲間たちの断末魔の悲鳴にかき消され、誰の耳にも届いていない。
(……ここまで、か)
サムの脳裏に、諦めの二文字がよぎった。
だが、その瞬間、彼の目に、ある一点の違和感が映った。
包囲網の一角。西側の、嘆きの森へと続く部隊。
その動きが、他と比べて、わずかに鈍いのだ。
おそらく、正規の訓練を受けた兵士ではなく、急遽かき集められた二線級の部隊なのだろう。
(……あそこしか、ない)
それは、万に一つの勝ち目もない、無謀な賭けだった。
だが、このまま犬死にするよりは、万倍マシだ。
「野郎ども! 聞けぇぇぇっ!」
サムは、残った全ての力を振り絞り、咆哮した。
「西だ! 西に活路がある! 俺に続けぇぇぇっ!」
その声は、もはや戦術的な指示ではなかった。
ただの、生存への渇望。
その、あまりに純粋な叫びに、生き残っていた団員たちの瞳に、最後の光が灯った。
彼らは、死兵と化した。
もはや防御など考えない。
ただ、前へ。団長が指し示した、唯一の希望へと。
サムを先頭に、生き残った者たちが、一つの槍となって、包囲網の西側へと突撃した。
サムの巨大な戦斧が、敵兵を、まるで藁人形のように薙ぎ払っていく。
血と肉で、強引に道をこじ開ける。
その後ろを、仲間たちが必死に続いた。
背中に、何本もの矢が突き刺さる。
隣を走っていた仲間が、敵の槍に貫かれ、悲鳴もなく倒れていく。
だが、誰も足を止めなかった。
その決死の突撃は、辛うじて、成功した。
「黒い剣」は、敵の包囲網を突破し、命からがら、しかしボロボロの状態で、嘆きの森の中へと逃げ込むことに成功した。
駐屯地へと帰還できたのは、夜が白み始める頃だった。
だが、そこには、勝利の歓声など、どこにもなかった。
八十名いたはずの屈強な団員たちのうち、この地に再び足を踏み入れることができたのは、五十名。
三十名もの仲間が、今回の作戦で命を落とした。
さらに、生き残った者たちのうち、半数近くが、再起不能か、長期の療養を要する重傷を負っていた。
傭兵団「黒い剣」は、事実上、壊滅した。
サムは、生き残った仲間たちと、そして、戦死した団員たちが残した、あまりに多くの家族を前に、言葉を失っていた。
団の存続。
冬を越すための、食料。
そして、仲間たちの弔い。
あまりにも重い現実が、彼の両肩に、のしかかっていた。




