4章4節 閑話休題1:『北方の風雲』
ロキア王国よりさらに北方の地は、かつて、八欲王の消失から小部族が乱立し、絶え間ない戦乱が続く地であった。
絶対的な支配者が消えた後の権力の真空は、無数の小規模な争いを誘発した。気候は厳しく、土地は痩せている。人々は、数多の部族に分かれ、わずかな土地と資源を巡って、血で血を洗う争いを、何世代にもわたって繰り返していた。
それは、国家間の戦争というよりは、もっと泥臭く、終わりなき生存競争。昨日の同盟相手が、今日の敵となる。そんな裏切りと暴力が、日常の風景だった。
その点において、ロキア王国は、長らく幸運だったと言えるだろう。
その北方を、二つの巨大な天然の要害が固めていたからだ。
東には、天を衝くかのように険しく、古の竜が住まうと伝えられる竜牙山脈が連なり、その切り立った岩肌は、いかなる軍隊の侵攻も拒絶する。
西には、広大で、神話の魔狼フェンリルが住まうといわれる嘆きの森が広がっている。一度足を踏み入れれば、方向感覚を失い、そこに潜む数多の魔獣の餌食となる、魔の森。
この二つの自然の壁が、北の戦乱が自国に及ぶことを、長年にわたって防いできた。
王都スタヴァンゲルに住まう民にとって、北方とは、地図の上だけの、遠い異国の物語でしかなかった。彼らは、自らが享受する平和が、ただの地理的な幸運の上に成り立っているという事実を、知らずにいた。
だが、永遠に続く均衡など、存在しない。
およそ五十年前、数ある部族の一つに過ぎなかったマラッカ族に、一人の天才的な族長が現れたのだ。
彼は、敵対する部族には容赦ない力で蹂躙し、降伏した者には寛容さを示すという、飴と鞭を巧みに使い分けた。その類まれなカリスマ性と、冷徹なまでの合理性で、瞬く間に周辺の部族を平定していった。
そして、その子の代になると、その勢いはさらに加速した。
父が築いた基盤の上に、彼はより強固な軍事国家を築き上げ、北方の多くの部族を統合。ついに「マラッカ大国」の樹立を宣言し、自らを大帝と名乗り始めたのだ。
軍事力によって急拡大した彼らが、次にロキア王国へと目を向けたのは、当然の帰結だった。
南方に広がる、温暖で、豊かな土地。痩せた土地で、常に飢えと隣り合わせで生きてきた彼らにとって、それは喉から手が出るくらい欲しいものであった。
しかし、彼らの前にも、かつてロキア王国を守ったのと同じ、自然の要害が立ちはだかる。大軍が、これらの障害を越えることは不可能だった。
彼らが侵攻できるのは、国境中央に広がる、幅わずか十五キロほどの平野部のみ。
グローマルク平野。
こうして、この平野を舞台とした、二国間の、二十年にも及ぶ泥沼の戦争が始まった。
時にはマラッカの重装歩兵が、ロキアの最前線である黒鉄砦を陥落させ、時にはロキアの騎士団がマラッカの軍勢を押し返す。
どちらかが決定的な勝利を収めることもなく、ただ血だけが流され続ける、一進一退の攻防。
その、ロキア王国側における最後の防波堤、最終防衛線の役割を担っているのが、堅牢な城壁と多数の常駐兵を誇る、自由都市グレンガルドである。
過去には一度だけ、マラッカの軍勢が黒鉄砦を突破し、このグレンガルドの城壁にまで到達したことがある。
しかし、この街は、その堅牢な城壁と、王国軍と傭兵たちの決死の抵抗によって、敵の猛攻を退けた。
そして、その戦いをきっかけに、戦線は現在のグローマルク平野まで押し返されたのだ。
今日もまた、この街では、王国軍の兵士と、彼らと共に戦う傭兵たちが、つかの間の休息と、死の匂いを紛らわすための安酒を求めて、それぞれの時間を過ごしている。
彼らの多くは、明日、再びあの灰色の平野で、命を散らすことになるのだろう。
自由都市グレンガルドから、さらに七日ほど北上した場所に、ロキア王国の最前線基地「黒鉄砦」はあった。
その周辺には、王国軍と共に戦う、大小様々な傭兵団が、それぞれの根拠地となる駐屯地を構えている。
その中でも、傭兵団「黒い剣」は、特別な存在だった。
彼らは、この地域でも屈指の大規模な傭兵団であり、その戦闘員は八十名を数えた。団長のサムは、ただ猛々しいだけの男ではない。
彼は、巧みな戦術眼と、何よりも仲間を見捨てないその姿勢から、団員たちの絶対的な信頼を勝ち得ていた。
その信頼は、王国軍の司令部にも届いていた。
これまでに彼らが成し遂げた困難な任務の数は、他の傭兵団の追随を許さなかったのだ。
冬の訪れが近い、ある寒い夜。
そのサムの元へ、王国軍の司令部から、一つの極秘情報がもたらされた。
「―――マラッカ側に寝返った商人からの、確かな情報だ」
軍の連絡将校は、声を潜めて語った。
敵国マラッカ大国が、冬の大規模攻勢を前に、ある兵站村に、密かに物資を集積し始めている。
護衛の兵は、こちらの目を欺くための偽装工作として、通常通りの数しか配置されていない、と。
「……罠、という可能性は?」
サムは、慎重に問い返した。
「もちろん、ゼロではない。だが、情報提供者はこちらの有力貴族とも繋がりのある男だ。信憑性は高いと、上は判断している」
将校は、地図の上の一点を指差した。
「サム殿だからこそ、この任を託したい。『黒い剣』に、この村の襲撃と、物資の破壊、あるいは略奪を依頼したい。成功すれば、報酬は弾む」
サムは、しばらく黙考した。
この任務の危険性は、十分に理解していた。
村の襲撃に手間取れば、近くにある敵の砦「狼爪砦」から、主力部隊が駆けつけ、包囲される危険性がある。
だが、情報が正しければ、これは莫大な戦果と報酬を約束された、またとない好機でもあった。
「……分かった。その依頼、受けよう」
彼は、十分な勝算ありと踏み、団の戦闘員、その総力を挙げて、この依頼を受諾した。
その夜、駐屯地は、出撃前の静かな、しかし熱い興奮に包まれていた。
団員たちは、それぞれの持ち場で、黙々と自らの武具を手入れしている。
剣の刃を研ぐ者、弓の弦を張り直す者、鎧の革紐が緩んでいないか、何度も確かめる者。
焚き火の光が、彼らの真剣な横顔を赤く照らし出していた。
戦いの前の、心地よい緊張感。
サムは、そんな仲間たちの顔を一人ひとり見渡しながら、静かに檄を飛ばした。
「野郎ども、準備はいいか。今夜は、ちっとばかし寒い夜になるぜ」
その言葉に、団員たちが、獰猛な笑みを浮かべた。
サム率いる「黒い剣」は、敵に気づかれぬよう、音もなく森を抜け、マラッカ大国の領内へと、静かに侵入を開始した。




