1章4節「腕の中の、確かな戸惑い」
昨夜と同じ、硬いながらも噛しめるほどに味わいの増す黒パン。そして、野菜の滋味が溶け出した温かいスープ。
そのあまりにリアルな味覚の記憶を反芻しながら、明はあてどなく村の中を歩いていた。
ログアウトができない。システムメニューも開けない。サービスは終了したはずなのに、自分はまだここにいる。
(外からはどうなんだ? 鈴木なら、強制的にログアウトさせたり、電源を落としたりできないんだろうか……)
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消す。そもそも、ダイブギアがどういう仕組みで動いているのかすら、明は知らないのだ。
彼にできるのは、運営からの何らかのアナウンスを待つか、あるいは、この異常事態が解決されるのを待つことだけだった。
村の柵に沿って歩いていると、前方からゆっくりと近づいてくる人影があった。エルだった。
彼女は手製の松葉杖をつき、片足を引きずるようにして歩いている。その顔色はまだ優れないが、昨日よりは幾分か血色が戻っているように見えた。
「アキラ様」
エルは明の姿を認めると、はにかんだように微笑み、ぺこりと頭を下げた。
「昨日は、本当にありがとうございました。もしアキラ様がいなければ、私は……」
「気にするな。それより、怪我の具合はどうだ? 足だけじゃなく、肩もやられていただろう」
明の視線は、彼女の肩口に向けられていた。衣服の裂け目から、痛々しい引っ掻き傷がわずかに覗いている。
「え? あ、はい……でも、このくらい、なんてことありません」
「そうか……? だが、女の子の肌に傷が残るのは、あまり良くないだろう」
エルは、きょとんとした顔で明を見つめた。まるで、そんな心配をされたのが初めてだというかのように。
やがて、その頬がぽっと赤く染まる。
明は、自分が少し踏み込みすぎたことに気づき、慌てて話題を変えた。
「いや、その……無理はするなよ」
「はい。……あの、もしご迷惑でなければ、少しだけ、お話しできませんか?」
断る理由もない。二人は近くの柵にもたれかかり、とりとめのない話をした。
エルが村での暮らしについて語り、明が相槌を打つ。彼女の話す内容は、作物の育て方や、村の子供たちの悪戯といった、他愛もないものばかりだった。
だが、その声色や表情の変化は、驚くほど豊かだった。
いつしか明は、彼女がNPCであるという意識を忘れ、一人の少女との会話に聞き入っていた。
不意に、エルがバランスを崩し、その華奢な身体が明の腕の中に倒れ込んできた。
「きゃっ……!」
咄嗟に支えた明の胸に、昨日背負った時と同じ、柔らかな感触と温もりが伝わる。
すぐさま身を起こしたエルは、顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! まだ、足にうまく力が入らなくて……」
その時、村の方から「エルー! どこだい!」と呼ぶ声がした。彼女の母親の声だった。
「あっ、もう行かないと。怪我をしていても、仕事は休ませてもらえないんです」
エルは悪戯っぽく舌を出すと、名残惜しそうにしながらも、再び松葉杖をついてゆっくりと去っていった。
その小さな背中を見送りながら、明はぼんやりと考えていた。開拓村での生活とは、これほどまでに厳しいものなのか、と。
エルと別れ、再び歩き出した直後だった。前方から、見覚えのある青年が歩いてくる。カインだ。
彼は明の姿を認めると、その足を止め、何も言わずにただじっと、射殺さんばかりの鋭い視線で明を睨みつけた。
その目には、昨日よりもさらに濃い、嫉妬と敵意の色が浮かんでいる。
(……なんなんだ、あいつは)
その剥き出しの敵意に、明は興が削がれるのを感じ、踵を返した。
村の中は、もう歩き回りたくない。一人になりたかった。
村の外には、広大な畑が広がっていた。数人の農夫たちが、黙々と鍬を振るっている。
その横を通り過ぎ、明は森を目指した。ざわめく木々の音だけが聞こえる森の中は、彼のささくれた心を落ち着かせるのに丁度良かった。
どれほどの時間、森をさまよっただろうか。
太陽が西に傾き、森全体が茜色に染まり始めた頃、明はようやく村へ戻ることにした。その矢先だった。
ガサガサッ、と前方の茂みが激しく揺れたかと思うと、そこから巨大な影が猛然と飛び出してきた。
(イノシシ……!?)
それは、明が知るイノシシの倍はあろうかという巨体だった。牙は鋭く湾曲し、血走った目が憎悪に満ちて明を捉えている。
考えるより先に、身体が動いていた。
腰の剣を抜き放ち、突進してくるイノシシの鼻先を、紙一重でかわす。すれ違いざま、渾身の力を込めて剣を横薙ぎに振るった。
ごきり、という鈍い手応え。
次の瞬間、イノシシの巨大な頭部が胴体から離れ、宙を舞った。
勢いを失った胴体は、数メートル先でようやく勢いを失って崩れ落ち、どさりと音を立てて動かなくなる。
後に残されたのは、血の匂いと、静寂だけだった。
「……え?」
明は、自分の手の中にある剣と、動かなくなったイノシシの骸を、呆然と見比べた。
あまりに、あっけない幕切れだった。
(……まあ、いいか。食えるだろう)
このまま放置するのも忍びない。明はそう考えると、イノシシの後ろ足に手をかけ、引きずり始めた。
ゆうに百キロは超えるだろう巨体。だが、その重さはほとんど苦にならなかった。
巨大なイノシシを引きずり、明は村への帰路についた。
村の入り口で見張りをしていた男たちは、彼の姿を認めると、目を丸くして絶句した。
やがて、一人が我に返って村の中へ走り出すと、村はあっという間に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
村人たちが総出で、イノシシを解体していく。
その活気と喧騒を、明は少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
やがて、村長が血糊のついた手で駆け寄ってきた。
「アキラ様! これほどの獲物、一体どうやって……! この皮は見事なものです。鞣して、アキラ様にお渡しした方がよろしいですかな? 肉の分け前も、もちろん……」
「いや、俺は別に構わん。皮も肉も、皆で好きにしてくれ」
分け前のことなど、今の明にはどうでもよかった。
村長は、その無欲な申し出に、さらに感銘を受けたようだった。
そこへ、腕利きの猟師であるガルドも、興奮した面持ちでやってきた。
「アキラさん、あんた一体何者だ!? こんな大物を、しかも剣一本で仕留めるなんざ、聞いたこともねえ! 大体、イノシシってのは臆病なもんで、人の気配がしたらすぐに逃げちまうんだが……」
ガルドの賞賛と疑問の入り混じった言葉も、今の明の耳にはどこか遠くに聞こえていた。
その夜も、明は空き家で一人、食事をとった。
食卓には、早速調理されたイノシシの肉が並んでいた。それは、見た目にも硬そうだったが、口に入れて噛みしめると、抵抗するような強い歯ごたえの中から、じわりと濃厚な肉の旨味が溢れ出してきた。
噛めば噛むほど、野生の力強い味が口の中に広がる。
本物の、味だ。
この味が、この手応えが、この世界のすべてが、彼の五感に直接叩きつけられる。
これはゲームなどではないのかもしれない。
そんな、認めたくない疑念が、彼の心の奥底で産声を上げていた。
疲れていた。肉体的にではなく、精神が、もう限界だった。
食事を終えると、明は逃げ込むようにしてベッドに倒れ込み、泥のように深い眠りに落ちていった。




